2012年12月31日月曜日

2012年ベスト10

今年は前半で50本越えてたのに後半仕事忙しすぎて全然みらんなかった。でも間違いなく今年は当たり年で、何見ても面白かった。政治抜きで面白かったもの、突き刺さったもの10本を選びました。

10位 「恋のロンドン狂騒曲」ウッディ・アレン
素直に「ミッドナイト・イン・パリ」でもよかったんですけど、こっちの方がなんか生々しくて好きなんだもん。ファンタジーよりもリアリズムの方がアレン氏の資質に合ってると思うしね。

9位 「哀しき獣」ナ・ホンジン
牛骨がよかったよね。三池がやったらギャグになるけど、ギリギリリアルなんだよね。北朝鮮という国の幻想がそれを可能にしてくれてる。暴力の質が違う。

8位 「Documentary of AKB48 少女たちは傷つきながら夢を見る」高橋栄樹
衝撃的に面白かったし、AKBリテラシーが一気に上がるという意味で素晴らしいドキュメンタリー映画だったと思う。僕はこの映画を見てからあっちゃんが大好きになったし、今後もフォローし続けていくと思う。

7位 「高地戦」チャン・フン
今年は戦争映画ってあまりなかった気がするけど、これは群を抜いていましたね。あの兵士たちの顔が忘れられないっていう時点で映画としては勝ちなんだと思います。

6位 「戦火の馬」スティーブン・スピルバーグ
何か食指が動かないという程度の理由でスピルバーグの新作をスルーしてはいけないと肝に銘じました。紛うごとなきスピルバーグの烙印を押された傑作でした。あ、戦火の馬も戦争映画ですね。第1次対戦の塹壕描写が素晴らしい。

5位 「愛の残像」フィリップ・ガレル
ローラ・スメの幽霊。現代版「雨月物語」。キャロリーヌ・シャンプティエのモノクロ映像を是非フィルムで見たかった。

4位 「サニー」カン・ヒョンチョル
涙腺刺激映画。「巧さ」が先に立ってるんだけど、ベタにそれをやり切ってるからメタな視点に立たせてもらえないんだよね。泣きっぱなしの90分。DVD買っちゃいました。

3位 「ライク・サムワン・イン・ラブ」アッバス・キアロスタミ
参りましたっていうほかないんだわな。面白いとかつまらないっていう批評の対象にはならないのよ。もうここまできたら映画って言えないのかもしれない。映画というジャンルの極限を目指してるよね。

2位 「スープ」大塚祐吉
すごい熱量で興奮してスープ、スープ言いまくってて、何人か見てもらったんだけど、見た人は大絶賛してくれた。もう冷めちゃったけど。スープだけに……。後半の学園パートの素晴らしさは「桐島」全編をゆうに超えていたことは言っておかないといけないでしょう。

1位 「カリフォルニア・ドールズ」ロバート・アルドリッチ
新作とか旧作とかどうでもいい。もうこれが1番面白かったでしょ。フィルムの端から端まで映画でできてるんだよ。陸橋に差し掛かるロードワークのワンカットだけで泣ける。こんな映画今ないよね。

2012年12月21日金曜日

そろそろ次元上昇ですが……


更新をサボってしまったおかげで見た映画の内容を忘れた。

「高地戦」チャン・フン
シネマハスラーで絶賛されていたので見てきました。戦争映画って何で男しか出てないのに面白いんだろうね。さすが戦時国家のつくる戦争映画は違いますなあ。アメリカにしてもそうだけど、現役でドンパチやってるっていうのは大きなアドバンテージになるね。日本でつくられる戦争映画がアクションよりもヒューマンに偏り勝ちなのは、文字通り日本人が戦争を知らないからなんじゃないだろうか。といった背景を無視しても、チャン・フンの演出力は素晴らしいと思います。主人公がフルーツポンチ村上に見えるというのは日本人だけが背負ったハンディですけどw

「恋のロンドン狂騒曲」ウッディ・アレン
ちょっと笑えないところまで来ちゃったよな。「ああ、楽しかった」で帰れる映画じゃなくないですかこれ?おじいちゃん(アンソニー・ホプキンス)が死の恐怖に直面して、体を鍛え始め、サプリを飲み、若い女と付き合う。そんなとき、ウッディ・アレンの描く「若い女」っていうのはこれまでは単なる記号に過ぎなかったはずなんだけど、今度のビッチは、なんというか血が通った存在として描かれてしまっているんですね。痛いんです。そのリアリティー要るか? とも思うんですが、ああ、単なるアレゴリーであることを止めたんだなと感じ入ったわけです。自称女優の強欲な娼婦が非常にお下品に描かれているわけですが、それって軽蔑どころか愛なんじゃないかって思ったんです。単なる類型化を止めて、真摯にその対象に目を向けてみたってことだと思うんです。それって愛ですよね。老境に至ってなお、まだ愛せる、もっと愛せると貪欲な姿勢を見せるウッディ・アレンが素晴らしい。バンデラスにこっぴどく振られるナオミ・ワッツも痛かったですね。彼女も愛されてます。そういう映画でした。

「カラスの親指」
こんな愚にもつかない映画を真面目に作った人たちがいると思うと少し悲しい。なぜ見に行ったかって?武蔵野館の株主優待券が余ってるんだよ。

「スカイ・フォール」サム・メンデス
もうトム・フォードのスーツが格好よくてね。今年は「裏切りのサーカス」がジェントルマンのスーツの着こなし映画NO.1として君臨していましたが、ダニエル・クレイグのムチムチ感も悪くないですね。ハビエル・バルデムは何に出ても怖いわけですが、今回は「ダークナイト・ライジング」のベインを彷彿とさせる立ち位置のキャラでしたね。ルサンチマンは怖さ半減です。理由もなく殺しまくる「ノーカントリー」のシガーが強烈でした。新任の長官が実は現場上がりとか、ああいうのは嫌いではないです。ところでそろそろ次元上昇ですがご機嫌いかがですか?

2012年11月27日火曜日

自信

「悪の経典」三池崇
この映画の白眉は、吹越満演じる物理教師釣井が、自分の劣等感を刺激するような相手には非常に敏感なゲス野郎なのに、爽やかでハンサムで仕事もできる伊藤英明、つまり吹越の劣等感を刺激して止まないはずの存在に対してなぜか何も感じないという素晴らしい直感を吐露するシーンで、実際物語はそこから大きく動き出してしまう。

ただ彼は自分の直感が「表面的な現実とは異なる何か」を示唆し、それが見当外れのものではないという事実が明かされていくにつれて、彼がたどり着こうとした事実がまだ誰にも知られていないということに「知的な」興奮を覚えてしまう。あまつさえそれを校内で生徒に口角泡飛ばしながら説明するに至っては、自殺行為に等しいとしか言いようがない。

いやしかし、「俺のペインボディが反応しなかった」ということに反応できた彼の己のシステムの確かさに対する信頼は感動的だった。この映画で唯一彼だけが殺すに値する人物たり得ていた。

2012年11月26日月曜日

モバゲー>パチンコ>映画

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」庵野秀明
狂騒とも呼ぶべき世情とはかけ離れたところでこの映画を見るというアティチュードは正しくはないのかもしれないが、アニメにもエヴァにも特別な思い入れがない者としては他の鑑賞態度を選ぶことはできないわけで、単に話題の映画を見てきましたということになる。

冒頭、この物語の源流とは正反対の立場に置かれた碇シンジには大層興味を引かれたが、それもすぐに綾波レイの差し伸べた手によって終わりを迎える。面白かったのはそこまで。14年という月日、彼が意図せずとも傷つけてしまった人々との距離を埋めるという物語は放棄されてしまった。

アスカとコネメガネのパートナーシップには感動的なものがあったが、カヲルとシンジのそれは結局、齟齬と無理解に支配されて終わった。僕はこれを「エヴァ」を終わらせないための口実であるからどうこうというつもりは全くないが、物語として、シンジの成長譚としてこれではいささか物足りなかったんじゃないだろうかと思うだけだ。でも「暴走」によってしか前に進めない碇シンジというキャラクターは面白くなくはない。

そっち方面には明るくないけど、3DCGは素直にすごいと思うし、全く新しい展開に足を踏み入れたことは評価してもいいんじゃないだろうか。ってそんなとこ。続編はそのときの気分で。

Do you know the way to San Jose?

「カリフォルニア・ドールズ」ロバート・アルドリッチ
昔、レンタルビデオで見て、いつかスクリーンで見ることができたら幸せだなあと夢想していた一本。それがニュープリントでかかるというのだからやはり今年は何かあるのだろう。結論から言うと、想像以上に素晴らしかった。徹頭徹尾「映画」でない瞬間がないなどと言ったら、保守の誹りを免れんだろうが本当なんだからしかたない。

女子プロレスラーのアイリスとモリー、そしてマネージャーのピーター・フォーク。彼ら一座のロードムービーであり、アクション映画であり、サクセスストーリーでもある。試合、町から町への移動、モーテル、マッチメイク、3人のときに軽妙でときに深刻なやり取り、ロードワーク、そのすべてが完璧な構築物のピースとしてしかるべき場所に収まっている。

観客の誰もが寸分たがわず予測し得たラストの回転逆エビ固めが決まった瞬間、私は滂沱の涙を止めることができなかった。素朴にドールズがトレドの虎に勝ったことがうれしかった。彼女たちの努力が報われたことに無上の喜びを感じた。誰もが予想し得た結果ではあるが、そこに予定調和は一切ない。

不意に「リアル・スティール」はなぜ「カリフォルニア・ドールズ」たり得なかったのかという疑問が頭をよぎる。話の構造はほぼ同じはずなのだが、なぜ「リアル・スティール」はかくも映画から見放されているのか。おそらく映画を映画たらしめているものは「手法」ではないのだろう。

上映直後、物販のマフラータオルを迷わず買ってしまった。こんなことは「宇宙戦争」のTシャツを買って以来だ。このエントリーを読んで「カリフォルニア・ドールズ」をスクリーンで見なかった人がいたら私はとても悲しい。

Pushin' pudding

「その夜の侍」赤堀雅秋
武蔵野館で予告編を見たときに見ておこうと思った1本。薄汚れた青い作業服に脂が浮いた分厚いレンズのメガネをかけている堺雅人になぜかマラソンの宗兄弟が想起され、僕が見ておくべき映画だと直感した。

妻を失ったという喪失感が生きることの柱になってしまった悲しい男の物語。いくつか素晴らしいシーンがあったが、特にザワザワしたのは、堺雅人が山田孝之の日々の3食を読み上げるシーン。このリストアップはとても痛いので是非見てほしい。

抑制の利かない暴力と恫喝で人を支配する山田孝之の怪物性は確かに恐ろしい。しかし、しぶとく着実に自分の欲望を実現しながら生きるのは新井浩文のような男なわけであって、傍若無人に本能のままに生きているように見える山田ではない。軽さの向こうに凄みをたたえた新井の演技、特に踊り場での山田孝之との対決シーンで居心地悪そうにたたずんでいた新井には、チンピラ然とした山田よりも余程空恐ろしいものを感じた。

余談だが、エンディングテーマのUAが歌う「星影の小径」が素晴らしい。ラストシーンにアカペラの歌い出しが本当に感傷的に胸に迫るのだが、この歌が上映前に劇場で流れていなければ、もっと魂持っていかれただろうなと思った。ミニシアターにありがちだけど、上映前にテーマ曲とかサントラ流すのやめた方がいい。

2012年11月21日水曜日

引き出し系

先日、久しぶりに会った先輩社員と飲んでいて、彼の後輩にS心を引き出してくれる天才がいるという話を聞いた。その後輩(素っ頓狂で無責任だが憎めない)がひと言発する度に精神的に追い詰めたくなるというのだ。実際に相手が脂汗垂らすくらいまで追い詰めてしまうらしい。そのとき彼は「ああ、俺ってここまで残酷になれるんだ」と思ったという。

そこで僕はこう思ったわけです。
「他人から愛を引き出せるような人に私はなりたい」

閑話休題。人は人からさまざまな感情を引き出す。オンラインでもオフラインでも他人と対峙したとき、あるいは、ある人のことを思い浮かべたときでさえ、あらゆる場面で何らかの感情的なやり取りは発生しているわけだ。苛立ち、怖れ、同情、嫉妬、敬意、慈しみ……。喚起された感情はときに心地よく、ときに耐え難いわけだが、そうしたさまざまなベクトルの感情一切合切を「愛」と呼んでしまえばすべては解決するんじゃないか、いや、そもそも「すべてが愛」なんじゃないか。そんな考えが唐突に頭をよぎったのです。そうです。アセンションが始まったのです。

2012年11月5日月曜日

狂うというソリューション

「危険なメソッド」デヴィッド・クローネンバーグ
本当はどうだったのか知らないけど、ゴリゴリ権威主義のフロイトと真面目な文学青年風のユングというコントラストは非常に面白かった。スピ畑に片足を突っ込んでいる者としては、もちろんユングの肩を持ちたいんだけど、ここで描かれている昭和の豪傑っぽいフロイト(ヴィゴ・モーテンセン)はとても魅力的で、「うんこちんちん」を立派な学説に仕立て上げ、その権威を維持することに躍起になっていた様には可愛げすら感じられる。

一方で、フロイトの学説を評価しながらも、その保守的な姿勢と視野の狭さに問題を感じていたナイーブな学究の徒ユング(マイケル・ファスベンダー)。ナイーブだから患者の影響ももろに受けて、しかもそれを真剣に悩んじゃう。ザビーナ(キーラ・ナイトレー)はもちろんのこと、露骨にメフィストフェレスとして描かれていたオットー(ヴァンサン・カッセル)と出会って以降、彼の思想の強い影響下にいたであろうことは想像に難くない。

ユングが患者であるザビーナを助手に迎え、自分の妻を被験者として自由連想法の実験をするシーンは、この映画の中で最もサスペンスフルなシーンだった。そして、実験結果に対してザビーナが鋭い洞察を見せるくだりはゾゾゾの虫が背筋を走った。おそらく彼(女)(ら)の不幸はその鋭い洞察を自己にも向けざるを得ないということに起因しているのだと思う。

なぜかくも鋭い洞察力を持つ明晰な頭脳が「狂う」ことを許してしまうのか? 目をひん剥いてアゴを突き出し、思い切り元気よく顔芸で勝負を仕掛けてきたキーラ・ナイトレーを見ながらずっとそんなことを考えていた。その答えが先ほどの実験のシーンでわかった。鋭すぎるから狂うのだ。見えすぎる目。聞こえすぎる耳。常に過剰な「正しい」情報を与えてくる器官。これらの正しさは命をも脅かしかねないものなのだ。それらの正しさを受け入れながらも生命機能を維持するための唯一のソリューション。それが「狂う」ということなのではないか。

私たちの感覚や思考力が穏当に生き延びるために無自覚に制限されているのだとしたら、見、聞き、考えることに機能不全をもたらしてまで生きながらえようとする本能を発動させた者、すなわち狂人を羨みこそすれ、蔑むことなど決してない。

2012年10月31日水曜日

レコメン道

自分が好きなモノを人に勧めるという行為。
ああ、もうそれだけでザワザワしますね。

他人がロクでもないものを勧めてきたときに人はどう対処するのでしょうか? 大学時代に野島伸司とか石田衣良を勧めてきた同級生の女子がいました。そういう子に限って顔はかわいい。でも僕の中でそれらの作家はすでに「相手にしなくてもいい山」に入ってる人たちだったので自分を信じて相手にしませんでした。その判断は間違っていなかったと歴史が証明してくれたと思います。

問題はそういう愚にもつかないモノを勧めてくる人を心の底から軽蔑してしまった自分の狭量さにあったと反省しています。顔がかわいいって素晴らしいことじゃないですか。グッドルッキングネスというギフトに比べたら読む本の趣味なんてどうでもいいちっぽけなことじゃないですか。今なら話だけでも合わせてとりあえずはお近づきになってやろうという余裕もありますが、頼むから糞みたいなモノを人に勧めないでくれという本音は変わらないでしょう。

じゃあ、自分はどうなんだと問われたとき、自分が本当にいいと思ったモノはわりと相手を選ばずにお勧めしてしまいます。迷惑な人もいるでしょうね。そもそも漬け物が駄目だという人に奈良漬けを勧めるようなことをしていることもあるでしょう。でも、僕はそういう真摯なレコメンを無視するような輩が心底許せません(笑)。いや、笑い事じゃなく。「俺がこんなに面白いっていってるのにどうしてスルーできるの? どうせ暇なんだからちょっとぐらい試してみろよ。この腐れゾンビが!」と内心はヘイトに満ちておるのです。

でも、何を読むか、何を聴くか、何を見るか、そしてそれらをどう消化するか。それってその人の単なる一側面というよりは、その人の全人格を色濃く反映している行為なんじゃないですかね。

人が勧めてきたモノは容赦なく無視できるけど、自分が勧めたモノを無視するやつは許せない。しかもそういう自分は許せる。ワイルドだろ?

2012年10月30日火曜日

リフレクシオン

凪いだ夜沈黙が空にこだまする

左巻男

○まだ感想を書いていない映画が1本あって「アイアン・スカイ」というタイトルなんだけど、タイトル以外もうよく覚えていない。あのメガネの女大統領の広報戦略が奇しくもゲッペルス路線とマッチしちゃうっていうところが一番面白かったかな。ナショナリズムの高揚は外からじゃなくて内側から眺めてみたいね。

○クローネンバーグの新作の「危険なメソッド」という邦題が気にくわない人がいて、ツイッターで映画の公式アカウントに「この邦題はどういう経緯で決まったのか? 本当にこの邦題で売れると思ってるのか?」とか噛みついてたんだけど、その動機ってなんだろうね。

「邦題が良ければ、もっとたくさんの人に見てもらえるのに」っていう作り手・売り手目線なんだろうか? だとしたら、もう一方にタイトルが魅力的じゃないから見に行かないっていう観客がいるわけだ。その人たちはどうなの? どうなの?というのはその人たちの感度の悪さは批判の対象たり得ないのか、ということ。 「タイトルがいまいちだから、面白い映画でも見逃す」ということを是としている人たちを映画館に呼び入れることで新しい何かが生まれるという気はしないんだけどね。やはり、僕は常に消費者の未熟を問題にしたい。そこにつけいってどうこうしようっていう輩の品のなさよりもね。そこには与しなければいいだけ。でも消費者であることからは逃れられないから。根っからのヒダリなんですよ僕はw

○「面白かったから見てみて、聴いてみて」という今まで数え切れないほど無視し、されてきたレコメンなんて何の意味もなかったんじゃないかと思う。そもそもリーチしてない人に対してのレコメンなわけで、それって「邦題を改善する」行為と同列だと思うんだよね。「リーチしていない=欲していない」なわけだから。長すぎる孫の手があったら使いにくいでしょ? 違うかw

○教育となると話は別だよ。潜在的に欲している者に(学びを)与えるっていうのは教育って言っていいと思うんだよね。お互いの立場は関係なく。子どもだけじゃなくて大人にも教育が必要なんじゃないかって? そうかもしれんね。そうなんだろうね。

2012年10月11日木曜日

誰がまたヤクザ映画撮るっつったんだバカヤロー!

「アウトレイジ・ビヨンド」北野武
前作「アウトレイジ」を上回る傑作といっていいんじゃないでしょうか。

「会話と暴力」以外の要素を徹底的にそぎ落として、「やったやられた」の因果関係だけでストーリーを紡いでいく。奇抜さも突飛さもないのに、懐かしいけど新鮮で、見たことあるようでまったく初めてってていうすごい面白い手触りの映画だった。

前作よりも道化回しとしての小日向文世の役割が明確になったことで、各人のアクションの動機が単純に見えたのがよかった。だから、登場人物が多いわりにストーリーは単線的で、まったく消耗せずに見ることができる。おそらく作り手の意識も同じで、ストーリー(というか登場人物の事情や思惑)を単純にすることで、ディテールに注力できたというところはあるんじゃないだろうか。

料亭で残り物を食べる小日向文世とか、作業服の若者をいたぶる桐谷健太と新井浩文、乗り気じゃなかったたけしが挑発されたら火ついちゃうところとか、実に面白い。銀幕というよりはTVスターの印象が強い西田敏行や中尾彬の「芸」的な芝居だけでも見る価値あると思う。意図的ではないのかもしれないけど、三浦友和、加瀬亮サイドの演技がなんだか見ていて危なっかしいのは演出上は成功だろうけど、役者としてはどうなんだろう。寺島進と大杉漣が成分として足りないと思ったけどまあこれだけ勢ぞろいしてれば文句ないか。

余談だが、加瀬亮がキアロスタミに「芝居をするな」と言われたわけがわかる気がする。彼だけは「イキってる人」じゃなくて「イキってる人を演じてる人」に見えてしまう。さらに余談だが、小日向文世のマネが完成しそうなので、早く2回目を見に行きたい。

2012年10月8日月曜日

スーパーテロリスト鬱伝

「カルロス」オリヴィエ・アサイヤス

3部構成で合計5時間半の上映時間だったんだけど、こういうものは幕間なしでぶっ続けで見たい。国際テロリストのカルロスが、人間的魅力にあふれていて、本当に一瞬も飽きずに見た。僕は恥ずかしながらこの国際的に著名なテロリストのことをまったく知らなかったんですが、まず、ベネズエラ出身なのにイリイチというロシア風のファーストネームらしい、しかもモスクワの大学を出ているというところでかなり混乱して、「え、南米系のロシア人?」みたいな誤解をしたまま結構長いこと見続けていた。

ビンラディンみたいな人間がどうやって国境をまたいで移動できるのかという純粋な疑問にこの映画はわりと具体的な回答を示してくれている。東ドイツやポーランドにパレスチナ過激派がいかにして拠点を構えることができたのか?また大量の武器をどのようにして入手していたのか?そうしたひとつ一つが彼らにとっての「活動」であるということが非常に明瞭になる。「ビヨンド・ザ・マット」がプロレスのリテラシーを一気に高めてくれる映画だとしたら「カルロス」は国際テロリズムに関するリテラシーを一気に高めてくれる映画だといえる。

一方でこのカルロスなる人物が世代的にもそうなんだけどいわゆる昭和的な怪物で、とにかく欲望の総量がデカい。名誉欲、権力欲、性欲がすべからく強く、常軌を逸した行動力と根拠のない自信だけでのし上がっていく身近にいたらたまらないタイプの「豪傑」なのだ。だから見ている分には非常に面白い。そういう映画。

理念も語られるがそれが前景化されることはない。テロリズムの現場においては理念よりも、いかにして空港にロケットランチャーを持ち込むかの方が重要な課題だからだ。また、日本人のテロリストが既に故人であるポンピドゥーの肖像写真に銃弾を放つなどの無知が揶揄されているように、現場ではそれほど理念は重視されていなかったことが推測できるという点が面白い。マヌケと言っていいほど場当たり的で馬鹿な犯罪ばかりなのだ。

「一億総ツッコミ時代」じゃないけど世界的にこういう天然物の豪傑は出て来にくい時代だろうなあと思う。

2012年10月2日火曜日

Hunger, hunger, Franken!

「ハンガー・ゲーム」ゲイリー・ロス
ゲイリー・ロスには「カラー・オブ・ハート」という作品があって、それだけで他の映画も20点増しになっちゃうくらい大好きなんだけど、「ハンガー・ゲーム」もその補正が働けばかなり面白い映画だったんじゃないかと思う。

「バトル・ロワイヤル」の単なる焼き直しじゃないかっていう批判があるらしいけど、そこは根本的に違うと思う。「バトロワ」が同級生に殺し合いをさせることによって生じた人間ドラマにフォーカスしていたのに対して、「ハンゲ」の肝はこのゲームが圧政に苦しむ全国民のガス抜きとしてTV放映されているという大きな前提がある。つまりサバイバル・ゲームであると同時に(あるいはより大きな比重で)TVショーなわけだ。TVショーとしての側面、つまり、視聴者が何を欲しているかに対して敏感であることが生存につながる。この設定は悪くないじゃないか。

「視聴者に生存を望まれること」がこのゲームの勝利に直結している。主人公のカットニス(ジェニファー・ローレンス)は結局そのことに最も敏感だった。そして最後にはそれを逆手に取って、ショーをより刺激的な物に仕立てようとする制作者たち(つまりは為政者たち)から自分たちの命を守るわけです。伏線として大統領(ドナルド・サザーランド)が、「市民が勝者に見出すのは希望だ」的なことを言っているのも辻褄合わせっぽいけど、ちゃんとつくろうとしているなっていう意志は感じるので印象は悪くなかったです。原作がよくできているのかもしれませんね。カメラをイーストウッド組のトム・スターンにしたのもバカ映画にならなかった理由の大きなひとつだと思います。

ちなみにゲイリー・ロスの次作が「大アマゾンの半魚人」のリメイクっていうのはアツい。

2012年9月26日水曜日

メタ・ビヨンド・ベタ

「ライク・サムワン・イン・ラブ」アッバス・キアロスタミ
また、得も言われぬ映画を撮ってくれましたね、ミスター・キアロスタミ。

これまでいくつかの作品で虚と実の境界線上を綱渡りのようにして渡って見せてきたキアロスタミでしたが、今回はフィクションを俯瞰させる「メタ」な視点を劇中に導入することなしに、飽くまで劇中で完結させながらも、スクリーンに風穴を開けるような(リテラルにラストシーンを想起されることでしょう)とんでもない映画になっていたと思います。

そこで描かれているフィクションももちろん面白いんだけど、最終的にこの映画の面白さに寄与したのはプロットや演出や照明・カメラワークや録音(どれもものすごい高いレベルで達成されていたのだが)ではなく、「私(観客)は何を面白いと思ってしまったのか」というメタに連れて行ってくれるこの映画の構造なんじゃないかと思うんです。

これってまさに僕が「トスカーナの贋作」のときに本当はやってもらいたかったことだったんです。「トスカーナ」では旅先で偶然出会った男女が「夫婦のふりをする」というカギ括弧つきの「虚構性」によって観客をフィクションの世界に没入させないという意地悪なことをしていたと思うんですが、僕は意外性も感じなかったし、正直あまり面白いと思わなかったんですね。おそらく似たような理由でヘルマンの「果てなき路」もそれほど面白くはありませんでした。

で、今回この映画を見て「あ、これだ。これが見たかったんだ」と得心したわけです。劇中で奥野匡と高梨臨が期せずして「おじいちゃんと孫」を演じなければならない場面がありますが、これは「トスカーナ」のように登場人物の内面を通して観客に揺さぶりをかけるような嘘ではないわけです。奥野匡にとっては単なる方便ですし、高梨臨にとってはバレたら困る不安の種程度のものであって飽くまで劇中で処理されうる問題にすぎません。つまり、嘘はサスペンスとしては機能していても、観客にフィクションの傍観者として以上の視点を提供することはないわけです。

それなのに、それなのにです。おそらくこの映画を見終わった多くの観客は自分が単なる1本の劇映画を見たということには納得がいかなかった。確かに役者たちの演技は素晴らしかった。高梨臨がベッドに入る寝室での照明も素晴らしかった。柔らかい音で鳴るエラ・フィッツジェラルド、ボルボのフロントグラスに映る高速道路、狂気を感じさせる隣人。そうした忘れがたい細部の総和と私たちが最終的にこの映画から受け取った物が量的にも質的にもあまりにも違いすぎるということに戸惑わずにはいられなかったのです。

ここではこれ以上の詮索はやめておきますが、この作品が映画の可能性をまたひとつ押し広げてくれたということだけは間違いないと思っています。必見です。

2012年9月24日月曜日

爆笑する準備はできていた

「ディクテーター 身元不明でニューヨーク」ラリー・チャールズ
サシャ・バロン・コーエン主演作は実は初めてだったんだけど、これはどう捉えるかで大きく変わってきますね。日頃表現に関して不自由を感じている人は溜飲を下げられるのかもしれませんが、普段からヘイトを撒き散らしている僕のような薄汚れた人間はブラックユーモア的な物にはビビッドに反応できなかったですね。もちろん笑えなくはないですが、結局笑ったのは独裁者を揶揄する一連のギャグよりも、ラストの演説に代表されるように資本主義(新自由主義)の方が独裁よりも不自由を被ってるんじゃないの?っていう問題提起で、この映画の本分もそっちにあったんだと思います。言及している人も多いと思いますが「クロックス」と「チェイニー」のくだりとか笑いましたね。まあそんなもんです。秘宝系の“ready to laugh”な人たちの聞こえよがしな笑い声が鬱陶しいタイプの映画です。

「スミス都へ行く」とか「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」とか「アメリカ(階級関係)」とか映画的な参照項目がいっぱいありそうだけど、アメリカ(ニューヨーク)をフレッシュな第3者の視点で捉え直すっていうアングルは欠けてたかもね。そこもあればもっと面白かったかもしれない。

安全な家(原題直訳)

「デンジャラス・ラン」ダニエル・エスピノーザ
どちらかといえば閑職についていた若手CIA工作員(ライアン・レイノルズ)が領事館に投降してきた伝説的な元工作員(デンゼル・ワシントン)の逃亡劇に巻き込まれていく。舞台が南アフリカのケープタウンということで「インビクタス」「第9地区」を想起したが、この映画を含めていずれも政治劇(?)ということは、ドメスティックでもグローバルでもユニバーサルでも諸勢力のコンタクトポイントとして機能している、映画的に魅力ある土地なのだろう。

工作員ってもっとストイックなものだと思っていたんだけど、どうやら「普通の恋愛」も放棄していないらしく、パリジェンヌとイチャイチャしているオープニングから彼女を事件に巻き込まないために逃がすシーンまで、そんなことで国家の存亡を左右するような任務に就けるのかよ、と半ば本気で突っ込みたくなるようなアマちゃん加減だった。まあそういう脇の甘い新米という設定でもあったんだと思うけど、CIAには建て前だけでも「恋愛は御法度」みたいなルールはないのかね。しかも外国人の女と。かわいかったけど。

とまあ、そんな甘っちょろい彼がのっぴきならない事態に巻き込まれていくのが面白いという話でもあるわけです。しかしね、その背景にあるのはMI6、KGB、モサドを巻き込むデカい話なわけですが、そうした御歴々が非常に記号的にしか処理されていないわけですね。だから、主人公周辺だけがテンパってるみたいな感じにしか見えないわけです。その情報が実際に公になったら、実際どうヤバいの?ってこともイマイチピンと来ない。設定変えるか、はっきり見せるかどっちかした方がよかったですね。

ラストの宙ぶらりん感だけはリアルでした。

2012年9月11日火曜日

自由な映画、窮屈な映画

「ヴァージニア」フランシス・フォード・コッポラ
ヴァル・キルマーが売れないホラー作家ってだけでもう見るしかないって感じなんだけど、仕事早退してまで行く価値はあったかと問われると、あったとしか言いようがないんだわなこれが。
悪魔が棲むという時計台のある片田舎の町に、自著を手売りして歩いているホラー作家ボルチモアが訪れる。留置所に安置されている杭が刺さったままの少女の遺体。さらに、この土地で過去に起きた忌まわしい事件とこの土地を訪れたことのあるエドガー・アラン・ポーが、ボルチモアの夢の中に現れ事件の真相に導きつつ、作家指南もしてくれる。ってもう面白くないわけがないんだけど、その「最近の事件」と「過去の事件」、さらに「ボルチモアの死んだ娘」とかの関連性がビックリするくらい全然わからないんだわw
酩酊状態で夢を見ている主人公の夢の中を生きているようでその空気感は素晴らしく心地よいんだが、見たばかりの夢が思い出せないみたいな感じで、自分が何を見てたのか思い出せない。幽霊少女のエル・ファニング、ポーがベン・チャップリン。ナレーションにトム・ウェイツ。完璧でしょ。必見です。

「桐島、部活やめるってよ」吉田大八 
2回目見てきました。取り立てて大きな発見はなかったし、見え方が変わったというようなこともありませんでした。初見でも感じたこの映画の小品感、こじんまり感がより一層際立って見えたくらいで。
きょう日珍しい丁寧な仕事には敬意を払うし、その磨き込まれた表面はとてもキレイだと思うんだけど、吉田大八は「映画を信頼していない」っていう気がするのね。作家としての根本的なアティチュードの問題。
抽象的な喩えになるけど、「ヴァージニア」なんて映画っていう海の中で本当自由に泳ぎ回ってるのよ。海の果てまで泳いでみたけど、まだここも海(映画)じゃんっていう。次はもっと遠くまで行ってみようっていう野心というか何者にも縛られていない自由さを感じるのね。でも「桐島」は海の中のいけすで、ここからちょっとでもはみ出さないようにって用心してるようなせせこましさを感じるんです。まあだからそういう規定演技としてはすごいよくできてると思うけど、そんなルールで自分を縛る必要は端からないわけだからね。
僕はどこまでが映画なのか、映画はどこまで行けるのかっていう試みをしていないような映画にはあんまりワクワクしないです。もちろんそれだけが映画の面白さじゃないのはわかってるけど、フロンティア精神の欠けたクリエイターなんて何にも面白くないでしょ。
「桐島」は面白かったし、多くの人の心の琴線に触れるような作品だってことは確かだけど、映画の地平を切り開くような類の作品ではありませんでした。以上。

2012年9月5日水曜日

そうか、君らはエイリアン!

「プロメテウス」リドリー・スコット
タイトルをギリシャ神話から借用したり、オカルティックで哲学的な入(はい)りで観客を引き込んだりとか紛らわしいからやめてくれねえかな。最初からバカ映画だって言ってくれていればよかったのに。バカの皮を被ったシリアスは面白いけど、その逆はないですね。でも、そもそもが「エイリアン」なわけで、まあそうか、そういうことかと納得できます。だって「エイリアン」だもん。

このホログラムは何? とか何でこの人はそんなことを知ってるの?とかさっきの生命反応は何だったの?とか、そういう疑問が矢継ぎ早に観客に襲いかかり、数十分後には小さな疑問で蜂の巣になった観客は問いかけるのをやめるわけだ。そんなことはどうでもいい。目の前のこの祭りを楽しもうぜ!ってな具合いで。

というわけで、これはこれでいいんで、オカルティックで哲学的な切り口で「正調プロメテウス」をノーランに撮ってほしい。

共学あるある?

「桐島、部活やめるってよ」吉田大八
ツイッター周辺でザワついていたので、期待して見に行きましたが、これが予想以上に「映画」してました。

まず驚いたのがスクリーンサイズ、シネスコ。「スープ」のときもそうでしたが、ドラマ系の邦画でシネスコだと「え、何で?」ってなりますよね。で、見ていくうちに、画面の奥の風景とか人物の視線とかが非常に有効にストーリーテリングに寄与していて、ああそういうことかと納得させられるわけです。画面運びのなめらかさにしても、なんだ、やるじゃないかと。シネスコは部活もしくは体育館との親和性が高いというのもこの映画の大きな発見のひとつじゃないでしょうか。(「スープ」でも体育の授業がありました)

ストーリーはバレーボール部のキャプテンで県代表にも選ばれるほどの選手でおそらくは学校という世界の中で中心的存在として君臨していた「桐島」が突如姿を消したことによって、思春期特有の情動や脆弱な人間関係が浮き彫りになるという青春映画です。僕は中高男子校だったので、女子を含めた校内、もしくはクラス内ヒエラルキーみたいなものをほとんどSFとしてしか見ることができないと改めて痛感しました。まあ無難にヲタ目線で神木隆之介君に感情移入しながら見てしまうので、「鉄男」を見た後のあの感じ(ミルクティー一気飲みw)とか、ある種のやるせなさ、痛々しさは普通に感じるのですが、橋本愛のNo.1とNo.2に対する気の使い方とかはまるで未知の世界です。シンパシーゼロです。超現実的すぎてザワザワできない。観客として限界を感じました。

個人的な話はさておき、驚いたのがキャスティングと演出の正確さです。登場人物のキャラクターや演技プランが完璧にある一定の枠に収まっている。キャラ設定だけじゃなくて、俳優の「顔」、これもすごい正確でした。女子のNo.1(桐島の彼女)、No.2(ヒロキの彼女)の顔、吹奏楽部キャプテンの大後寿々花、橋本愛の友だち、そして、映画部の副部長(神木隆之介の友だち)。残酷なくらい顔つきがキャラに合っていて、すがすがしいくらいで、これは見ていてものすごく心地いい。こういうキャラ描写はコメディーとしては欠かせない要素ですね。

この映画には(裏)テーマとして「努力しても報われない奴」というのがありまして、バレーボール部の小泉君やバドミントン部の橋本愛の友だちの子(お姉さんが亡くなった)、野球部の主将なんかがその代表として描かれていました。映画部の神木隆之介君をそこに加えてもいいのかもしれません。恋愛においては吹奏楽部の大後寿々花もそうでした。「がんばってもできない奴はできない」という残酷な現実と「できないってわかっててもがんばっちゃう奴」の悲哀を好んで描いていた一方で、桐島や菊池系のセンス系=がんばらなくてもできちゃう(がんばればもっとできちゃう)には彼ら固有の苦悩があるというのを「桐島の不在」を中心に描いていました。僕はこの辺にはまったくシンパシー感じないんですが、それは男子校を卒業して20年近くも経つからそう思うわけで、学校が宇宙であったような時代に、相対的な視点を持てって言っても無理だし、この閉鎖的で近視眼的な視点で、「そんな風にしか考えられない。そんな風にしか振る舞えない」という一回性こそが、学校を青春の舞台たらしめているわけです。

この映画で最も感動的だったのが、何に対しても本気になれない菊池君が神木君の本気に触れてレンズカバーを渡しに行くシーン。ここはウルでしたね。夕暮れの屋上でややホモセクシュアルなやり取りを通じて、神木君の映画に対する情熱から何かを受け取る。そして、菊池君の目線で眺められる野球部の練習。タイトルクレジット。やるじゃないですか。

通底するテーマに頷きにくい部分がありましたが、全体的にすごい映画っぽい映画で大変好感を持ちました。欲を言えばもっとはみ出してもいいと思いましたね。上では褒めた部分ですが、キャラクターや演出が正確すぎて、そこから横溢する何かが足りないような気がしました。逆にこの収まりのよさ(ツッコミ代のなさ)が「現代的」と言えなくもないのかもしれませんけどね。

あと全然関係ないけど、吹奏楽部のフルートの子が山川恵里佳みたいでかわいかった。

丑島、闇金やめるってよ

「闇金 ウシジマ君」山口雅俊
原作厨というほどではありませんが、原作のファンなので見に行きました。結論から言うとテレビドラマのスピンオフとしては上出来の部類に入るんじゃないでしょうかね。キャスティングとか、原作の漫画のキャラクターに対する忠実度(似せ具合)とか結構絶妙なモノがありました。江崎とか高田、根岸、豚塚、肉蝮あたりは、本当に漫画の中のキャラそのままでしたね。なんかそういうところにばかり感心してました。

ストーリーはイベサー編に大島優子パートとして出会いカフェ編を付け加えたような感じでしたが、イベサー編が元々込み入った話なだけに、大島優子パートのオマケ感が結構色濃く出てしまいましたね。ただ、大島優子と黒沢あすかの母子は最高でした。団地の自室で売春している母親が娘に3Pに加わってくれないかと提案するシーンが最底辺描写でしたが、お客さん目線で考えると「いや、お母さんいいから。大島優子だけでいいから」って思っちゃったのはなんですか、人生経験がまだ足りないんですかね。

冒頭、成金パーティーでFXでたまたま当てただけの起業家が返済していないかった5000円のために、丑島たちにみんなのいる前で追い込まれるという、いわばフィクショナルな金持ちの側に焦点を描いていたんですが、僕の個人的な趣味としてはそれと対になるリアルな底辺描写をもっと見たかったんですね。まあ黒沢あすかがいい味出してましたけどザワザワし足りなかったですね。ゆるめのサロペット(死語)を履いた大島優子は本当にその辺にいそうな感じで可愛かったです。いいキャスティングだったと思います。

後半の肉蝮とのバトルシーンでつなぎ間違いにしか見えない(僕の記憶が一瞬飛んでしまったのでなければ)ところがあって、まあそういうのが決定的な瑕疵になるかと言われればそういう映画でもないんですが、あまりシーンとシーンとのつながりとかに脚本レベルでも絵づくりでも腐心した感じがありませんでした。「桐島」を見た後だから余計そう感じたのかもしれません。あと、金と心みたいなメッセージ的な部分を台詞で処理した感があったので、むしろバッサリなくてもよかった。本来なら出会いカフェのパートで大島優子がそういう風に感じたっていうことを言わせるんじゃなくて見せなきゃいけなかったんじゃないでしょうかね。

丑島が拘置所でオムライスを食べるシーンはちょっと声を出して笑ってしまいました。「アカルイミライ」のオダギリジョーの「唐揚げが小さい」を思い出しましたが、オムライスの方は絵で見せてる分笑えましたね。

2012年9月4日火曜日

ハレルヤ! 迷える魂



夜ごと身悶えた魂が君の鼓動に眠りつくさ

なんて歌われたら、ヤスのポエジーと歌声に身悶えちゃうよね。
ここで歌われているような世界を生きることはもちろん素晴らしいんだろうけど、
その世界をこんな風に表現しちゃうってこともとてつもなく素晴らしいんじゃないか。

畢竟、認識が解釈にすぎないなら、解釈の美しさを競い合いたいね。

2012年8月27日月曜日

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ6

だから、正しい信念なんてものはないんだよ。スピリチュアルの落とし穴はここにあって、熱心な人ほど正しい信念を増やしてしまっている。例えば、捨てなければいけないという新しい信念。それは今まで持ってたものに比べてきれいで魅力的に見えるかもしれないけど、新しい捨てるべきものでしかない。気づきにしたって別の視点が生み出した別の信念にすぎない。信念に優劣はない。上品も下品も正誤も霊性の高い低いもない。あらゆる信念から解放されたところにしか真に見るべき世界はない。

信念から解放されるために新しい信念を獲得するというプロセスは必要ない。宗教もヨガも瞑想もワークも何らかの信念に基づいている以上、その信念からの解放を遠ざけるものでしかない。もちろん信念は不要であるというドグマも。

ここまでわかったらやることはひとつ。すべての信念をひとつ残らず捨て去ること。すべてを一気に放り出すのも少しずつ削りとっていくのも好き好き。大事なのはいかなる信念の支配下にあるのか気づいていくということ。

思考を止めるべきというのは、あらゆる思考は何らかの信念に基づいているから。知識やノウハウが曇った目を余計に曇らせてしまうから。

自分を探したいならそこから一歩も動かないこと、あらゆる思考、精神活動をストップすること。すべての活動をやめて距離がゼロに戻ったところに「自分」はいる。

2012年8月26日日曜日

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ5

信念というものは結果的にそれが正解だったとしても、身をもって知ったものでない以上、世界を見る目を曇らせるものでしかないんだと思うよ。

2012年8月15日水曜日

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ4

—なぜあれほど熱烈に愛読していたスピリチュアル本を読むのをやめたのですか? 依存といっても過言ではなかったと思うのですが(笑)。
「もはや洞察を外側に向けるべきときは少なくとも個人的には終わったと感じています。助けになるだけの智恵はもう十分に手にしていると気づいたのです。1つ、パパジの教えによって『移動』が必要なくなったということが大きいでしょうか。『いまここ』はさまざまな局面で語られていますが、その究極的な謂いは『いまここ』という言葉でしか言い表せないものです。この『いまここ』という概念は覚醒のために私たちの身体や精神の移動が不要であることを示唆しています。文字通り、答えはいまここにある、いまここにしかないからです。いまここを追い求めて過去のあそこや未来のそこにいく必要はない。移動は不要である以上に、根本的に間違ったアクションだったのです。座禅でいう只管打坐という言葉も同じことを伝えていると言えるでしょう」

—そのままマスターぶってお答えください。では、ただそこに心身ともにとどまっていればいいと?
「そうです。ただそれが私たちにはとても難しく感じられるのです。一切の精神活動を一旦休止するということは多くの現代人にとっては不可能と思えることでしょう。そのためにさまざまな精神活動休止のための『手法』が考案され、売買され、人口に膾炙しました。それが昨今のスピリチュアル産業の隆盛です。しかし、今ではその『手法』そのものが過ちであると断言できます。いかなる手法でも、です。正しい手法というものはありません。楽しい苦役がないのと同じことです」

—『いまここ』にとどまるためのあらゆる手法が過っているとはどういうことでしょうか?
「簡単に言えば、何もしないために何かをする、というのがおかしいのです。何もしない、を実践するには、他の実践をとりあえず休止して、何もしないを徹底するだけです。やめるのはやめたいときにやめればいいだけです。呼吸や心臓の拍動を除いてあらゆる活動がそうです。やめ方などない、ただやめるだけです。しかし、やめる自由がないという錯覚がまず我々をいまここから遠ざけていると言えるでしょう。やめる自由がないという錯覚に私たちは捕らえられているのです」

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ3

スピ系説教の間に「トータル・リコール」の感想を紛れ込ましてやろうw

何となく楽しみにしてたんですが、忙しいだけでわちゃわちゃしてて騒がしくて面白くありませんでした。シュワちゃんのオリジナルの方や「ブレードランナー」「マイノリティー・リポート」がなぜ面白かったのかを今一度振り返ることでこの作品が改めるべき点が浮かび上がると思いますが、そこまでの愛がないので他の方に譲ります。

ちょうどこの映画を見た日の朝、悪夢を見ていました。それも覚醒夢。内容は、仕事でいなければならない場所に自分がいないというリアルでなくもないイヤな夢でした。それが大阪か名古屋だったのですが、自分は新幹線で東京の実家に戻ります。戻った実家が建て直す前の古いものだったので、なんだやっぱり夢か、とそこで胸をなで下ろすのですが、その世界から抜け出すことができずに、夢だってはっきりしたんだからもうこの世界から解放してくれよと意識しているにも関わらず、自然に目が覚めるまで不安と恐怖と義務感とに苛まれ続けるという最悪の状況でした。

どうしたら夢だとわかっているこの世界から目を覚ますことができるのか。これはこうして目を覚ましている今もまさに最も重要なテーマなわけです。「トータル・リコール」でもまさに同じような場面がクライマックスに用意されていて、ああこのシンクロには深い意義を感じるなどと一人悦に入っておったわけです。

どうしたらこの夢から目を覚ますことができるのか。自力で起きたいけどそのやり方がわからない。誰か叩き起こしてくれないだろうか。そもそも眠っている自分とはどこにどのような形で存在するのか? ぼくが今おぼろげに感じているのは遠くから目覚まし時計が鳴っているような、そんな気配なのです。

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ2

今朝の珈琲館のウェイトレスの方を見ていて思ったのは、人は「そう思われたい自分」を確実に演出することに成功してしまうということです。彼女の場合であれば「自分を忙しそうに見せること、一生懸命仕事をしている風に見せること」に100パーセント成功しています。しかしそれは決して彼女が「忙しいこと」や「一生懸命仕事をしている」ことと同義ではありません。このギャップこそを人は敏感に感じ取ってしまいます。

ぼくの会社にもいろんな人がいます。「仕事が暇だと思われたくない私」「重要な仕事をしていないと思われたくない私」「バカだと思われたくない私」みんな完璧にそういう自己演出に成功しています。みんながみんなちゃんと「そういう風に見られたい(見られたくない)人」に仕上がっているからです。そういう人とやり取りすると、すべてのメッセージにメタタグの様にそうした自己像が貼り付けられているので、受け手が余程鈍感でない限りそれは確実に周囲に伝わっていきます。ああ、この人重要な仕事を任されてる風に見せたい(ということは本当は大したことしてない)人なんだなぁ、とか、この人はバカだと思われたくない(ということは本当はバカな)人なんだなぁってね。それが当人の意図かどうかは別にして。まあ多くの場合は不本意でしょうけどね。また、鈍感な受け手というのも案外多いことがこの種の恥知らずが横行する一助になっているとも思いますが。

「思考は実現する」っていうのはスピリチュアル界でももはや根幹をなすコンセプトになっていると思いますが、引き寄せ厨とかポジティブ狂の人の脇が甘いなと思うのはこういうところですね。望むと望まざるとに関わらず思考は実現してしまうっていうことです。みんなこのことに対して無自覚というかお気楽なんだよなぁ。その思考、実現しちゃってますよ。

自分探しの旅 盆ボワイヤージュ

会社近くの珈琲館の中年女性店員はいつもあくせく働いている。混んでいても空いていても彼女の一挙手一投足は常に「あくせく」という印象を与える。前のめりで歩き、素早くテーブルを片付け、注文を取り、配膳する。しかし、その所作は間違っても「てきぱき」とは形容できないのだ。おそらくは動作の無駄、ときにその場に相応しくない過剰なスピードがどうしてもその所作から「あくせく」という副詞を想像させるのだろう。

スポーツや武道をかじったことのある人ならわかると思うが、素早い動作の集積が必ずしもスピードに繋がるとは限らない。リラックスしたたゆたうような動きで素人の半分の時間で正しい場所に移動し敵を打つ、あるいは球を打つ。その動作の与える印象は大抵の場合、美しさや優雅さであり決して速度ではない。そうした実例を何度も目撃している者として、この「あくせく」の印象を与える動作は最も避けるべき部類の動作だと直観する。

彼女に今すぐ実行できるアドバイスとして伝えたいのが、速さを意識せずにひとつひとつの動作を丁寧に行ってみてはどうかということだ。丁寧さや優雅さのもたらす印象は必ず彼女の仕事ぶりを一変させることになると思う。

喫茶店でコーヒーをお代わりしながらブログ執筆に休日出勤の朝を費やすおじさんの一席でした。

2012年8月9日木曜日

ノーラン=作務衣の店員


「ダークナイト・ライジング」クリストファー・ノーラン
最初に断っておきますが、僕は人並みにはこの映画を楽しみにしてたし、実際に楽しんだし、この夏何がお勧め?って聞かれたらこの映画を勧めるかもしれない程度には評価もしてます。その上で以下の感想。

常々「ノーラン演出の不穏さは化調(化学調味料)的」と言ってきたんだけど、これって完璧なギミックで、「過剰なシリアスさ=魚介系の出汁」+「人工的な造形物を広角レンズであおり=炙りチャーシュー」+「過剰なベース音=魔法の白い粉」を調合するといわゆる「ノーラン的な画=流行りのラーメン屋」になると思うんですよ。まあこれを手法として確立したってのはすごいのかもしれないけど、僕はフィクションでも現実でもユーモアが介在し得ないようなシチュエーションにあまり魅力を感じないんですよね。ユーモアの闖入によって脆くも崩れ去るような「シリアスという名の虚構」に鼻白むわけです。もっと言えば茶化したくなる。

「ライジング」というかノーランてそういうシリアス系の典型みたいな人で、「ダークナイト」でもジョーカーがサンデル教授的な命題を押しつけてきて「人はいかに善たり得るのか」みたいのを全力でウィズアウト・センス・オブ・ヒューモアでやっちゃうわけじゃないですか。そういうアティチュードに対してはどうしても少なからずツッコミ目線みたいのが芽生えてしまうわけです。冒頭の飛行機襲撃とかもね。そんなリスクの高い計画を全部計算ずくでやってるのかと。それだけの知性と行動力があるならもっとスマートにできるだろうと。まあそういうのは極力抑えて、ワクワクしながら見ますけどね。でもやっぱりノリノリにはなれないんだわな。野暮なこと言わずに楽しめや、っていうのは主張としてはよくわかるんだけど、それが成立するのは「ミッション・インポッシブル」や「崖っぷちの男」の「緩さ」があるからなわけですよ。ノーランにはその緩さがない。だから「ツッコミ」が「批判」として成立してしまう。これは観客ではなく映画のあり方の問題なわけです。

というわけで、ノーランはあまり得意ではないんだけどまあ楽しみにしてた分くらいは楽しめました。「ダークナイト」のときよりはノーランも成長してたと思うし、爆発とか処刑とかで人もいっぱい死んだしw。あの井戸の中の空間とかエピソードは好きでした。整体師=メンターが恐怖の処し方を教えてくれるのとかああいうのは好きです。あとは何と言ってもアン・ハサウェイですね。彼女は完璧でした。レズじゃなければw(すっかりハリウッド女優になってしまったマリオン・コティヤールは「ミッドナイト・イン・パリ」の方が芝居でもかわいさでも圧倒的に上いってました)

ネタバレになるのかもしれないけどラストのマイケル・ケイン、あそこはマイケル・ケインと男女の後ろ姿の切り返しで十分だったんじゃないですか? そういうところのセンスがないんですよ、ノーランは。

RESIGN=DESIGN


「戦火の馬」スティーブン・スピルバーグ
見てからちょっと時間がたっちゃったから鮮度が足りない。俺のエモーションの……。

ただ、この場違いなサラブレッドが農耕馬として働かされた経験が砲台を引くというおよそ似つかわしくない業務に抜擢されることで一命をとりとめたというエピソードは多くの絶滅収容所を生き延びた人々の証言を想起させる。ジョーイと名付けられた馬があの砲台に繋げられた太い首輪に疎んずることなく頭を通したシーンは「つまり世界とはそういうものなのだ」という積極的な宣言なのだ。それを「不条理」と呼んで諦念とともに受け入れることは誰にでもできるだろう。だがこの映画のスピルバーグは違う。条理を越えた因果律にすべてを明け渡し、手持ちの掛け金のすべてをそこ置いたのだ。おそらく本当は誰もがそうすることしかできない。違いはそれにどのように抗うのか、そのやり方だけだ。

ある一頭の馬に惚れ込んでしまうこと、岩と根っこだらけの荒れ地を開墾すること、そうした無条件の情熱(もちろんストーリーの中ではその成否によって物語の進行方向を大きく変えてしまうわけだが)だけが真実なのであって、一心不乱の努力が報われるといった安易な教育的指導とは根本的に趣を異にするものである。掛け値のない愛情も一心不乱の努力も報われないが、たまたま1頭のサラブレッドが鋤を引いて畑を耕したということだけが「原因」となるのだ。「結果」を生み出すために「原因」をつくるといった類の努力はこの世界では何の意味もなさない。だが「原因」は「結果」をもたらす。人はただそのルールに従うより他にないのだ。スピルバーグはそれに耐えろとも抗えとも言っていない。ただ世界はそうあるということをこの映画で描いている。僕は何よりもその勇敢さに心を打たれた。

観念的じゃない話もちょっと。第1次世界大戦と言えば塹壕なわけだが、この映画の塹壕描写は素晴らしい。ぬかるみに疲弊した兵士たちがよりかかり、倒れ込み、よじ登り、そして馬が疾走する。第1次世界大戦版「プライベート・ライアン」と言ってもさしつかえないだろう。野戦病院の混沌の中で、視力を失った主人公と馬との再会を端的な数ショットで見せる演出手腕にも感嘆せざるを得ない。

また、特に冒頭で、演出ミスと言ってもいいくらいのロケとセットの光線の違いがすごい気になったんだけど、「ジョーズ」の「追いかけっこしてる間に女がいつの間にかジーンズを脱いでいる描写」に通ずるような、ある種のリアリティーの尊重があるのだろうと納得させるだけの力強さがあった。

2番館ではあったが見逃さないで済んでよかった。スピルバーグ作品の中でも「宇宙戦争」に並んで重要な作品、ということは賞を獲ろうが獲るまいがすごい映画ってことだと思います。

2012年7月24日火曜日

出来の悪くないアメリカ映画

ゴダールが「出来の悪いブルガリア映画よりも出来の悪いアメリカ映画を見る」って言ってたけど、そういうことだと思うよ。マジで。

「リンカーン弁護士」ブラッド・ファーマン
せこい稼ぎ方はしてても決して悪徳ではないんだよね、この主人公の弁護士(マシュー・マコノヒー)は。他人の命なんて屁とも思わない悪党に対して、飽くまで両刃の剣である手持ちの「法」を持って立ち向かうっていうのは格好いいじゃないか。「旦那ならストリートでも生きていけまっせ」という黒人の運転手に「ここもストリートだよ」的なやりとりがあるけど、悪に勝利しうるものがあるとすれば、それは善なんかじゃなくてただ何があっても屈服しないという覚悟なんじゃないかな。ストリートってそういうところじゃん。こういうハードボイルド僕は好きだど。


「崖っぷちの男」アスガー・レス
どういう撮影したのか知らないけど、あんなところに何時間も立ってたなんて狂気の沙汰だよw。あれ、この人何やっちゃッてんのかなっていう「入り」はすごいうまいし、徐々に今何が起こりつつあるのかがわかっていく展開は、強引なところもあるかもしれないけど、悪くないじゃないですか。脚本が緻密(整合性が取れているという点で)でもつまらない映画なんて腐るほどあるんだから、緻密さと面白さは関係ないんですよ。

「悪い奴」というよりも徹底的に「イヤな奴」として描かれたエド・ハリスが素晴らしかった。ユダヤの不動産王=悪者=黒幕という図式も素晴らしい。そういう頭は良くないかもしれないけど気持ちはいい映画でした。逆なんか見たくないよね。


「蜂蜜」セミフ・カプランオール
映画祭で賞取る辺境系の映画なんですがパンチ足りなくねえか? トルコではなんで蜂の巣箱をあんなに高いところに設置するのか? まずはその辺を問い詰めたい。
ユスフ3部作の3作目で主人公の少年ユスフが段々若返っていってこれが幼少期の頃のユスフの話だってんだから、エピソード0だったってわけね。じゃあそれだけ見てもピンとこないかもしれないということを踏まえて、山の中で両親と暮らす吃音持ちの少年ユスフ。蜂蜜取りを生業にする父親との交流と父の死。小学校低学年くらいだと思うんだけど、いつもきれいなシャツ着てるのね。これが子どもなのに肩幅身幅袖丈のサイズ感がバッチリなの。それが異様にエスタブリッシュなイキフンを醸し出してて違和感があるのよ。おばあちゃんが編んでくれた茶色いセーターがこれまたオシャレでね。この時期なんてすぐ大きくなるんだから大きめ買って着せておけばいいんだよ的な貧乏臭さがまったくないの。そういうのはすごいいいんだけど、そのシャツのサイズ感が浮いてるんだよね。演出上の浮きならいいんだけどたぶん違う。だからなんか気になる。このシャツどうしたの? 買ったの、作ったの? トルコには既製品でこんなシャツ売ってるの? って問い詰めたい。
最初のショットでカメラが近いなって思ったんだけど、やっぱりなんか微妙に近い感じが終始つきまとった。逆にすごい引いた絵はメチャクチャ良かった(リボン落とした女の子が橋渡ってくところとか野外フェスみたいなお祭りとか)。

なんだこりゃーみたいな終わり方すると思ったら、「前作(第2作目)に続く」的なノリだったのねと納得。

2012年7月18日水曜日

ある七光り

「ヘルタースケルター」蜷川実花
この映画を見た帰りにサマンサ・タバサでバッグを買ったという瀧波ユカリのツイートを見たけど、「私の中の女子」が刺激されたっていうお客さんは結構いるみたいで、それって「ヘルタースケルター」としては失敗だったんじゃないのってことなんですよ。

だって「資本主義の狂騒の中心でむなしさを叫ぶ」みたいなテーマなわけでしょ、本来。だから女子力を喚起して購買に走らせるっていうのは、それはそれですごいとして、やっぱり失敗だったと思うんだよね。ティーン向けファッション誌とか読んでた子が「ああ、なんかもうカワイイとかどうでもいいわ」って映画館出たその足で出家させるくらいじゃないとダメでしょう。個人的にはこの手のセンスに刺激されるようなパートは自分の中にはまったくなかった。そもそも映画として出来がよくないし見てて楽しくないし、いろんなケチの付け方ができると思うけど、これくらいにしておきます。

ただ、これを見て岡崎京子の「リバーズ・エッジ」だけはこいつにはやらせまいと強く思いました。僕が今年中に脚本を書きます。誰であろうとあのポエジーを踏みにじっていい人などいないからね。

舐めたい背中

「苦役列車」山下敦弘
実は山下敦弘見たことありませんでした。イマイチ食指の動かない系の映画を撮ってて「リンダリンダリンダ」なんかは見ててもいいはずなんだけど、微妙に避けてました。それに納得した部分と、見ておいてもよかったなと思った部分があります。

原作の西村賢太は芥川賞の授賞式で「賞金で久しぶりに風俗に行きます」とか言っちゃう系の人だから、未読だけど大体の感じはつかめてて映画のテイストはその通りだった。実際は屈折の仕方が予想以上でそこが一番面白かったかな。中卒で人とまともな人間関係結んだことがなくて飯食ってタバコ吸って風俗行っての繰り返しが日常の日雇い肉体労働者。ちょっと責任の重い仕事割り振られたりするとすぐ逃げちゃうし、ルサンチマン丸出しでくだ巻いて絡むし最悪な奴なんだけど、こいつがちょっと人と違ったのはすごい本が好きだったってこと。

北町貫多という名前も西村賢太のあまり気の利いていないもじりだし、自伝的要素がふんだんに盛り込まれていることは想像に難くない。まあ、主人公が作家本人である以上、この映画の終着点が「書き始めること」であることもまた想像に難くないわけだ。だから、この映画は1本丸々書くことへの動機付けにならなくちゃいけない。ひとつひとつのエピソードは面白いし、森山未來のダメな奴芝居もすごく魅力的なんだけど、結局じゃあ何で書き始めたの?っていうところでその蓄積が足りてないんじゃないかと思うんだよね。

貫多が海岸で穴に落ちてアパートのゴミ捨て場に降ってきて、動物的に書き始める一連の描写はすごく好きなんだけど、あそこはもっとエモーショナルな盛り上がりがあるべきシーンだった。正直泣きたかったけど泣けなかった。その一因は書くことのモチベーションが十分に描かれなかったってことと、書き始めた森山未來の裸の背中にもあったんじゃないかという気がします。肉体労働者だから筋肉質なのはいいんだけど、森山未來の体にはだらしなさがまったくないのね。もちろん、ダンサーだから仕方がないんだけど、それが一番あらわになるのが背中だと思うんです。実際、すごい細かい筋肉が丁寧についてて、それは粗野なマチスモとはかけ離れた洗練を思わせる背中なんですよ。面白いもの書きそうな背中ではあるんだけどね。

というわけで、あのシーンは何か一枚羽織らせた方がよかったと思います。高良健吾の彼女(下北沢在住)を相手に居酒屋で、ヨダレを垂らしながら世田谷・杉並在住の田舎者・サブカル・ニューアカをまとめてディスるシーンは感動的でした。いい映画でした。

EXILE to a ZOO

「幸せへのキセキ」キャメロン・クロウ
見たのが10日も前なので、もはや記憶が定かではありませんがそこそこ面白かったように思います。妻に先立たれて仕事も子育ても行き詰まり感のある父親(マット・デイモン)が思春期の長男と幼稚園児くらいの娘を連れて、閉園中の動物園付きの家に引っ越して、動物園を建て直すことになるという実話ベースのお話です。

マット・デイモンはいわゆる「中年の危機」にあると思うんですが、買ったのがポルシェじゃなくて動物園だったために周囲は大変な厄介に巻き込まれてしまいます。さらに、母親を失って精神的に不安定な時期の息子との微妙だった親子関係もより微妙になってゆき、無邪気でかわいい次女だけが救いな感じです。

数々の人災・天災を乗り越えてお父さんの意外な頑張りは動物園のスタッフと家族との絆を深め、各々が成長していくさまは感動的ですらあります。お客さんは気がつけばマット・デイモンを応援し、空気の読めない長男にいらだち、意地悪な検査官に内心で悪態をつきながら見ている。動物園ならではの問題も頻出して絵にもストーリーにもオリジナリティーがある。

なのになんか普通。普通でもいいんだけど、すごい凡作っていう印象に終わっちゃう。なんでか? それはスカヨハがおしりもおっぱいも出してないからじゃないかと思うんです。以上、コラムでした。

2012年7月13日金曜日

前世のリグレット


「スープ~生まれ変わりの物語~」大塚祐吉 ★★★★★
再三この映画の素晴らしさについて、つぶやいていますが、言っても言ってもいい足りないくらいの感じです。おそらく、この映画を賞賛することに僕が躍起になっている理由は2つあって、ひとつはこの映画が文句なしに素晴らしいということ。もうひとつは、どうあがいてもこの映画が「ヒット」とは縁遠いということです。この2つ目の文脈においては、アレンの新作が素晴らしいとか、スピルバーグの新作がいまいちだとかいう必要はまったくないわけです。僕の感想なんて絶対に他の誰か、それも何百人も何千人もいる他の誰かと同じだから。だからこそ、僕はこの「スープ」の素晴らしさを語らないといけないという使命感を(勝手に)感じているのです。ヒットとは縁遠いというのは、資本主義的な要請によるものであって、作品としてはものすごい真正面から、ラブコメとしてSFとして親子ものとして、また女優を魅せる映画として素晴らしいのであって、決して「カルト的な人気を誇る」とかそういうところに落ち着くべきではないということをあらかじめ伝えておきたいと思います。

この映画の大きな軸になっているのは15の娘・美加(刈谷友衣子)を残して事故で死んでしまった父親・渋谷健一(生瀬勝久)が、あの世からこの世の(置き去りにしてしまった娘の)記憶を持ったままこの世に生まれ変わるというストーリーです。構成としては大きく3つの部分に分かれていて、1つ目が2年前に奥さんと離婚して娘と2人で暮らすお父さん(生瀬)のパート。2つ目がお父さんが死んでからのあの世パート(with 小西真奈美と松方弘樹)と残された娘のこの世パートが並行して進み、3つ目でこの世に生まれ変わった生瀬が高校生になってからの話。

僕は初見でこの3つ目のパート、主人公が生まれ変わって高校生になってからの話がいわゆる学園ものとして突出して素晴らしいと思っていたのですが、再見したらやはり、その3つ目のパートの素晴らしさを支えていたのは1つ目と2つ目のパートなんですね。だからもちろんそれも素晴らしいわけです。結局すべてが素晴らしいわけです。

しかし、ここではやはり3つ目の学園パートについて取り上げたいと思います。話の内容について詳述したくないのですが、学園パートの人物関係の描き方の繊細さは絶妙なキャスティングと演出と演技に支えられて本当に昨今の日本映画界最高度の達成と言うことができるのではないでしょうか。同じ教室にいたら卒倒するレベルの超絶美少女・広瀬アリスが、生瀬の生まれ変わりである朴訥青年の野村周平を遠巻きに眺めている数カットなんて、気もそぞろ感、男の子同士のいちゃつき感など、甘酸っぱくてほろ苦くて、でもその視線の意味は実は……って落としどころも面白いですし、そこに絡んでくる歯並びの悪い意地悪そうな美少女・橋本愛がまた絶妙な顔と声と表情と演技で彼女もまた過去生からのお付き合いに絡んでくるんですが、ここでは「生まれ変わり」という世間的には荒唐無稽な話が思春期の恋愛に最高のスパイスとして機能しているわけです。それもこの映画のやや鈍重に思えた前半部分があったからこそなんですね。

クライマックスはもうネ申展開としか言いようがない「秋刀魚の味」(および後期小津の父娘モノ)の変奏なわけですが、ここでオープニングのシーンが何を意味していたのかが明かされ、お互いに打ち明ける対象の不在という致命的な問題を抱えていた2人の積年の思いが語られるに至って、私たちは涙以外の何を持ってこのシーンに対峙しうるのでしょうか。

とにかくあらゆる人にとって、一刻も早くスクリーンで見るべき映画であることは間違いないです。激しくオススメです。

男だらけのフットボール大会


「ロンゲスト・ヤード」ロバート・アルドリッチ
この手の1970~80年代ハリウッドというのは意外にスクリーンで見る機会が少なくて、例えば「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ゴッド・ファザー」「ロッキー」などの古典化した名作ですら、そのチャンスは実に稀である。だから、このみゆき座の試みは実に価値があるものだと思う。

午前10時の映画祭:http://asa10.eiga.com/

などと言いながら初めて足を運びましたが、もう当たり前のように今かかってる凡百の新作よりは面白いわけです。映画としてのたたずまいというか格というか、もうそういうものが違うんですね。男に殴りつけられる女を見たぐらいで心がざわざわしている観客(自分のことです)の何と軟弱なことか。欧米的なポリティカル・コレクトネスの奴隷になってしまっているなぁと痛切に感じるわけですが、そういう軟弱化した草食男子のおケツをひっぱたいてくれるような素晴らしい映画でした。

私は基本的にはむさ苦しい男が画面を埋め尽くすタイプの潜水艦とか刑務所を舞台にした映画よりも、学校とかプロムパーティーの方が好きなんですがw、こういうのをたまに見るとお尻に何かを差し込まれたみたいに背筋が伸びますね。ちなみに何年か前にイギリスでリメイクした「ミーン・マシーン」は駄作でした。

ちなみに「サニー」の敵グループ「少女時代」の天然パーマは刑務所の事務員オマージュだったんですね。素晴らしい。

2012年7月6日金曜日

ルイジアナ・パパ


「ハングリー・ラビット」ロジャー・ドナルドソン

話としては「Y氏の隣人」とか「笑ゥせぇるすまん」的な「日常と隣り合わせの怖い非日常」ものですね。高校の国語の先生役のニコラス・ケイジが奥さんがレイプされたことをきっかけに、出来心で怪しいおじさんに犯人を脱法的に裁くことを依頼しちゃったら、あれよあれよという間におかしな話に巻き込まれてしまうっていう。それを周囲に悟られないように、逡巡し葛藤し、やがて、その巻き込もうとしていた主体を相手に戦うという話で、結構面白いです。

確か僕が2010年のベスト1に挙げたヘルツォークの「バッド・ルーテナント」もニューオーリンズが舞台でニコラス・ケイジが主役でしたね。おそらくハリケーンの影響で社会秩序が不安定になっている現状が、映画の舞台として自由度が高いというのはあるんでしょうね。今回もケイジはそういう街で生き抜くタフガイなわけですが、警官だった「バッド・ルーテナント」とは違って今回はカタギの市民目線で、性犯罪者を勝手に裁いちゃうアングラ自警団を相手にするのは結構荷が重いわけです。

元々は義侠心からよかれと思って始めたことなんだけど、組織化して行くにつれて今度は組織の存続自体が目的化してしまうっていうのは、多くの組織・団体にも同じことが言えるんじゃないでしょうかね。特に企業とか。本来の活動意義を見失って生き延びることが最優先事項になってしまう。ケイジもそういう存続自体が目的化してしまった組織の軋轢に巻き込まれるというか利用されてしまうわけですね。まあでも今回の「組織」も人の怒りとか悲しみにつけ込んでくるっていうのは新興宗教と同じで、元々の動機がなんであれ力を借りちゃいけない毒饅頭だったってことなんでしょうね。

ラストの大立ち回りの舞台になる廃墟になったショッピングセンターを個人的に生々しく感じたのは、先日気仙沼や陸前高田の津波に遭った地域で、ガワはそのままだけど中身は廃墟になってる大型のホームセンターやスーパーマーケット、紳士服販売店を見てきたからなんですね。資本が動かないと片付けたり壊したりすることさえできないっていう現状を見るにつけ、アメリカではもっとシビアなんだろうと推測しました。それこそ死体のひとつやふたつ転がってても当分見つからないって感じで。

ニコラス・ケイジとキアーヌ・リーブスは上手いとか下手じゃなくて芝居そのものが見ていて面白い「芸能」の域に達していますね。ニコラスの方が作品にも恵まれてるのに対して、「マトリックス」以降キアーヌはいつも微妙な役と作品ばかりですね。すごい好きなんだけど。

2012年7月2日月曜日

究極の NOT BAD

「一枚のめぐり逢い」スコット・ヒックス
たまたま拾った一枚の写真に写っていた女性を捜し歩くっていうテーマはトリュフォーの「逃げ去る恋」と同じなわけで、「シャイン」のスコット・ヒックスが監督ということもあって(「佳作臭」がプンプンしてたんですが)、これは見逃すわけには行くまいと思ってがんばって行きました。

すげー「悪くない」って全力で言いたい気持ち、わかってもらえるかなw イラクかアフガンかわかなんいけど、とにかく戦地帰りのザック・エフロンがね、もうやり過ぎってくらい格好いいの。体格よくて力持ちで、大きくて利口な犬がなついてて、寡黙で、働き者で、メカに強くて、優しくて、子どもの扱いもうまくて、影があって、知的な一面も垣間見せつつ、ピアノも弾ける……。

もういいってくらいモテ要素満載で、トラックの荷台から荷物を投げ降ろしてるところを見てるだけでも女子はポーっとしてジュンときちゃう。こいつが最初から最後までこれなんだ。つまんねーw

ヒロインのテイラー・シリングの前夫を演じるジェイ・R・ファーガソンが権力をかさにきたマッチョな保安官で最低野郎なんだけど、こいつが元嫁と息子と仲良くしてるザック・エフロンに嫉妬して越えちゃいけない一線を越えちゃうんだけど、ザック・エフロンに完璧なまでにいなされちゃうのね。ザック・エフロンとしては誰も傷つかないように配慮して完璧に振る舞ったはずなんだけど、ファーガソンにしてみればその振る舞いが完璧すぎて最高に屈辱的なわけ。ただでさえ切れやすい奴なんだから、そりゃ切れるよねっていう。

まあそういう男のパーフェクションを見せつけられ続け、上記のようなモテ要素を自分が1つも持ち合わせていないことを確認するのも「悪くない」です、ハイ。お母さん役のブライス・ダナーもものすごい勢いで「悪くな」かった。かわいい子役のバイオリンが「Not bad」って言われてましたけど、そういうことです。

もしもシリーズ。もしも溝口が現代パリで怪談を撮ったら

「愛の残像」フィリップ・ガレル
映画自体はめっぽう面白かったんですが、上映状態に大いに不満がありました。上映始まってから気づいたのですが、デジタル上映でした(@イメージフォーラム)。名カメラマンとして知られるウィリアム・ルプシャンスキーのモノクロ撮影ですから、それは美しい「フィルム」だと思うのですが、デジタルでは粗さが目立ち、とてもじゃないけど美しいとは言えない仕上がりになっていました。

シャブロルの「石の微笑」に出てたローラ・スメがヒロインを演じているのですが、彼女のフランス人的な恋愛イラチっぷりが前面に出ててよかったですね。愛に生きる男と女っていうのはどちらかといえば古典的なフランス映画のテーマだと思うんですが、後半の「怪談」っぷりがこの映画をフレッシュに見せてくれていると思います。ガレル版「雨月物語」と言っていいんじゃないかと思います。新作ですけどすでに古典的名作です。

ダメイジング・グレイス

「アメイジング・スパイダーマン」マーク・ウェブ
サム・ライミもそりゃ意外だったけど「500日のサマー」の監督が「スパイダーマン」っていうのもまたよくわからない人選だよね。サム・ライミは結果として職人監督としての腕前を余すところなく見せてくれたわけだけど、マーク・ウェブはどうだったかな。

僕が「500日のサマー」でイヤだったのは結局主人公の男があれだけの(と言ってもただの)失恋を経て、老境にさしかかりなお、自分をふった1人の女を許せないでいるっていう「成熟を受け入れない姿勢」だったんですね。いい年こいたおっさんがグチグチ昔話をして失恋を総括できずに未だに引きずってる相手の女をビッチ呼ばわりしないと気がすまない、そういう子どもっぽさを自嘲気味に冷笑するっていうのがこの映画の正しい見方だったんだろうけど、僕は映画でも現実でもそういう「子ども=成熟を受け入れない大人」はあまり見たくないんです。脇役ならまだしもそういうのが主人公とか勘弁してほしい。

マーク・ウェブというのがそういう映画を撮って出てきた人だってことを踏まえて今度の「スパイダーマン」を見ると、やっぱりそのルサンチマンに満ちた手つき(笑)が出ちゃうのね。ピーター・パーカーは元々ヲタで新聞部でメガネでどう考えてもぱっとしないキャラなんだよね。で、普段からピーターのことをぞんざいに扱うバスケ部でイキッってるヤンキーがいて、こいつに一泡吹かせる描写で溜飲下げるのはお約束なんだけど、これが何とも居心地が悪いというか、スッキリしないんですよね。端的に言ってやり過ぎなんです。クモに刺されてイケメンキャラになってくパーカーはいい(オドオドしてたヲタが1人の男に成長していくっていう話でもあるわけだから)として、あの相手のキャラをあんなに卑屈な奴にしていく必要はないんですよ。やり返したらそこからは対等でいいじゃないですか。メジャーの監督になってあのときのあいつに仕返ししてやるっていうボンクラ感丸出しなところがダサいんですよ(そういう自分が客観視できてないからやり過ぎが「芸」になってないんです)。

ヲタリュックから携帯を取り出すとかいうディテールでは笑いとろうとしてるけど、こういうリアルなルサンチマンが丸出しになってるとたまに面白いこといっても笑えないんですね。ライミはここの微妙なさじ加減が絶妙だったと記憶してます。なんというか、ライミは大人なんですよ。マグワイアのオドオド感残しつつ、いざって言うときには「俺が守る」的な男らしさをちゃんと見せるっていう。それが非常にうまかった。グウェンとの恋も、育てのおじさん、おばさんとの関係も、エモーショナルな変化をちゃんと物語の推進力にしてたんですよね。たまたま超能力を手に入れたヲタが調子づいてるだけの今作に比べてライミの方は大人の映画だったなと振り返ったわけです。

余談ですが、原作でどうなってるか知りませんが、糸を出すギミックをガジェットに頼ったのも個人的にいただけませんでした。あんなお手製の機械じゃいざっていうときに信用できないし、オーガニックでこそスパイダーマンじゃないですか? あそこまで身体能力上がって、壁にへばりつけて、糸だけはギミックって、遺伝子操作の意味がなくない?好みの問題は別にしても、「クモ人間」という怪物への変容を外的に示唆する唯一のシルシなわけじゃないですか、糸が出るっていうのは。だから、大袈裟かもしれないけど「手首から糸が出る」という描写はパーカーが「怪物」として生きることの覚悟を引き受けることでもあるわけです。そういう意味でも今度のウェブ版スパイダーマンは「異形」として生きる覚悟を引き受けていないから薄っぺらかったんだという言い方もできると思います(一カ所、「マキロンか!」というツッコミ待ちのシーンがありましたが、そこは笑いました)

さらに余談で、あのトカゲモンスターはレプティリアンの存在を示唆しているとかいうオカルト畑の人が絶対いると思いますが、その意見には基本的に賛成ですw まとめると、まあまあ面白かったので星4つ(無理あるか)。見には行くと思うけど、続編とかもういいぜ。

2012年6月27日水曜日

全身饒舌家


ミュージシャンでも作家でも漫画家でも映画監督でも芸術家でも芸人でもアスリートでも学者でも、本職以外のところで饒舌というか多弁な人にあまり惹かれない。ウォッチの対象として興味深いということはもちろんあるし、単純に言ってることが面白いとか正論だとか感じることはあるんだけど、なんか素直に笑えないし頷けない。

たぶんこれは僕自身に足りないストイシズムを彼らに求めてるからだと思う。一番格好いいと思うのは「自分、言いたいことは全部作品に込めてますから」的なアティチュードで(もちろんそれすら言わない)、メタ語りや自己(作品)言及などもってのほかっていうのが理想的だと思ってる。だって「作品」こそが自分(作家)にとって一番伝わる「伝達手段」のはずだから。

まあ今日びの表現者の多くは明治大学的な「前(のめり)へ」という姿勢が義務づけられているでしょうから、「露出」を避けるなんていうことは特権的な一握りの人にしか許されていない贅沢かもしれませんが、ああ、この人はツイッターをあくまでプロモーションツールとして捉えているなという職人根性(決して私情を吐露などしない)を見ると応援したくなりますね。

などと譫言のように申し上げましたが、内容云々ではなく「語り」という行為そのものが芸の域にまで達しておられる方もいらっしゃいますし、「作品」よりもインタビューやツイートの方が面白い作家さんもご本人は不本意かもしれませんがわたしゃ全力で愛してますよ。

2012年6月21日木曜日

気が利く人論 〜飲み食い編〜


いますね。居酒屋とかでグラスが空になった人(なりかけた人)とか見逃さないで「何召し上がりますか?」ってできる人ね。空いたグラスや皿を下げて、料理を小皿に取り分けて……。かく言うワタシトテ立場上そういうことをすることもあります。しかし、残念ながら決して気の利く方じゃないんですよ。ですから、そういうのは(より)適職の人がいたらお任せするんです、立場関係なくね。肉焼くのうまい人がいてその人が焼きたがってたら、それがたとえお客さんであっても社長であってもやらせて差し上げるんです。

そこまではいいんですけど、僕がツラいのは「気が利く人」の視線なんですよ。「ほら、お客様のグラスが空じゃないですか! 早く注いで差し上げて」とか「お客様に肉焼かせるとかあり得ないでしょ?」っていう。気が利く人っていうのは、当然他人にもそうした気遣いを要求してるんじゃないかと思ってしまうんです。被害妄想かもしれませんけど、少なくとも僕は気が利く人からそういうプレッシャーを感じて、そういう場でも楽しくおいしく飲み食いできなくなってるんですよ。一方で、後輩なんかに「お前もっと動けよ、何座って飲んでんだよ、こんなこと男に(先輩に)やらせんなよ、ホント気ィ利かねえなぁ」と思うこともありますけど、彼(女)を否定することは自分を否定することにもなるので(笑)、説教もしませんしプレッシャーもかけません。各々が自由にしてればいいんで、よっぽどのことがなきゃ放っておきます。空気読まずに自分が食べたいものだけ注文してる奴とか地味に応援してるくらいなんです。

結論から言うと僕自身は気遣いされること自体が鬱陶しいんです。うれしくもないんです。放っておいてほしいんです。人の注文センスには期待してませんし、食べたいものや飲みたいものがあれば注文しますし、店員も自分で呼べます。斯様な(過剰な)気配りを受けることにある種の気持ちよさを感じる人がいる(=そうされないことに不快感を感じる人がいる)ってことはもちろん知ってますけど、そんな奴どうせろくでもない糞野郎なわけでしょ。そんなことよりも正味の話をしたいし、冷めないうちに食べたいし、かわいい子を口説きたいんです。

まあいつもと同じ結論ですが、そういう「気配り」こそがおもてなしだと思ってる人は、自分こそがそうやってもてなされたい人なんだろうな。面倒くさい奴だなあってことです。そういう人には偉くなってほしくないですね。負のスパイラルが形成されるから。

もう1つの結論として、おそらくそういう風に「気が利く人」というレッテルを貼られてるような人は実際にダメな人で、本当に気が利く人はさりげなく気づかれないうちに自然にそういうことをしてる人なんだと思います。「○○君は気が利くねえ」なんて言われたら負けでしょ。そんな風に言われたいと思ってる人は最低でも3年は世の中と自分をROMった方がいいですね。

2012年6月13日水曜日

涙について私が知っているいくつかの事柄

「サニー 永遠の仲間たち」カン・ヒョンチョル
2回目なので、ディテールを十分に味わうことができました。思いっきりネタバレするので、これから見るつもりの人は見ない方がいいかも。まあ何いってんのかわかんないと思うけどw

■2カ月問題(1)
ナミがチュナの病室で夫からの電話を受けて突然の出張を知らされるシーン。そこでナミは「え、2カ月も(出張するの)?」って夫に聞き返すんだけど、その直前にチュナは余命2カ月を宣告されたってことをナミに話してるのね。そこで交わされる気まずい視線。「2カ月も会えない」と「2カ月しか生きられない」のギャップにウル。


■2カ月問題(2)
2カ月の夫の不在が主人公ナミの行動の制約をなくすためのご都合主義だっていう指摘はまあその通りだとしても、その料理の仕方がすごいうまい。出張帰りの夫を空港に迎えに行った帰りのタクシーでチュナの訃報を聞くっていうタイミングの絶妙さ。かつての通学路を横目に、サニーのメンバーとじゃれ合うチュナとタクシーの後部座席に座る現在のナミが切り返されるとき、つまりその視線の交差が描かれたとき、たまらずウル。


■タイムスリップ問題
この映画では何度かシームレスに過去と現在を行き来するような描写があるんだけど、これがいちいちうまい。まず母校を久しぶりに訪れたナミ。制服の少女たちがナミを追い抜いていく中で、突如、黄色いトレーナーの女の子が乱暴にぶつかっていく。そこでカメラがパンして80年代の私服の少女たちと田舎から転校してきた少女ナミ。現代の高校生のお行儀のよさ、80年代の少女たちの猥雑さ、期待と不安を抱えたナミの表情、これがワンカットってすごいでしょ。ウル。ちなみに職員室に入っていくところで現代に戻る。
朝寝坊して学校に間に合わないってわめく娘つながりで過去に戻るのもよかった。


■クムオクの姑問題
声だけの出演であれだけざわざわさせるのも大したもんだと思う。調度や美術、衣装もこの映画に魂を吹き込んでいた。


■パーマの子問題
個人的に、なのかどうかはわからないけど、あのライバルグループの小さい天然パーマの子はちょっとざわざわした。なんかスレスレだよなぁと。


■ちくわ問題
ダンス問題の後、スジの家を訪ねたナミ。スジの継母が筏橋出身の田舎者。2人で屋台のおでん屋に飲みに行くんだけど、なぜか2人とも赤い口紅を塗ってて、焼酎を飲みながら打ち解けて抱き合うナミの手に握られた串のちくわから湯気が立っててウル。この2人の関係はナミにとって「成長」を導く大きな礎となっている。この関係がエンドクレジット(以下「エンドクレジット問題」参照)のラストで最大級のウルを招く呼び水となっている。

■ベンチ問題(ジュノ問題)
夏のキャンプ、夜の湖畔でタバコを吸うジュノにナミが絵を渡そうと近づいていくと、スジが現れる。2人のキスシーンを目撃してしまったナミは泣きながらソウルに帰る。25年後にようやくジュノに絵を渡すことができたナミは、恋敗れてベンチでたたずむ少女ナミの隣に座りそっと抱き寄せる。ウル。ゲーテのドッペルゲンガーを思い出したがここでは関係ない。


■シンナー少女問題
場末の飲み屋でやさぐれてたポッキにもざわざわしたけど、やっぱり一番危なっかしかったのがシンナー少女サンミだった。スジとの対決に惨敗し、教師に楯突き、なおサニー参入を願う彼女の迫真の寄り目キメキメ芝居にはどこか「金八先生」というよりは「スクールウォーズ」的な退廃のにおいを感じた。彼女に関する問題だけはざわざわを残したまま終わってしまったので、彼女の安否を気遣う声は少なくない。


■ビデオ問題
少女たちが将来の自分に語りかける粗い画像にウル。もうみんな答え合わせができるから余計に悲しい。ポッキ、クムオクは特に。皆に催促されてポーズを取るスジ。大人になったナミに語りかける少女ナミ。決して不幸とは言えない現在が抱えてしまった虚無を少女ナミは浮き彫りにしてしまう。夫からの呼びかけ(テーブルの上で震えるiPhone)よりも少女時代の自分からの呼びかけに耳を傾けることで、彼女は自分の人生の「主役」の座を取り戻したのだ。このビデオをチュナに渡される前に、病室のベッドで向かい合って寝たナミとチュナの会話もウル。


■葬儀問題
安易なハッピーエンドを印象づける遺産相続だけど、ウル的に一番来たのは、ラストのショット。ナミが病院で描いていたチュナの遺影が、文化祭の時の青いスカーフのチュナの絵に替わってるっていう。あれはずるいわ。トドメの一撃だったね。


■エンドクレジット問題
トドメの一撃を食らった後だが、これほどエンドクレジットで席を立てない映画はなかったと断言しよう。サニーメンバーの各々の幸福といっていい顛末が、ナミのデッサンと思しき映像で示され、ラスト、チュナの墓標をセンターに並ぶメンバーたちが、年老いて1人ひとりその数を減らしていく。最後に残るのがナミとスジ。この年老いた最後のサニー2人の友情とそこに流れた年月を考えてウル。


■まとめ
これは「ものすごくうるさくて」のときにも似たようなことを書いたと思うけど、17歳の少女たちと42歳のナミが視線を交わすとき、そこには時間の現前とでも言うべきものが描かれてしまっているのだと思う(蓮實先生には怒られそうだけどねw)。観客はナミという女性の25年の生きられた時間を、一瞬のうちに「補填」するように要求されるわけだ。無論そんなことはできっこない。できないから仕方なく泣くのだ。だから、ここで流された涙は、人は他人の人生を生き得ないという当たり前の不可能な事柄にこそ捧げられているのだと思う。

波乗れないジョニー

「ダーク・シャドウ」ティム・バートン
なんか色々まずかったと思います。カメラのブリュノ・デルボネルは「アメリ」とかソクーロフの「ファウスト」とかけれんみのある映像づくりは得意なはずなんだけど、何かこの映画では空っぽな安っぽい画面になってましたね。

200年前のバンパイア化した名家の長男が現代に甦ってお家再建っていくらでも面白くなりそうな話なのに脚本もまとまってなかった。画面のテイストもプロットも終始散漫だったね。

個人的にイヤだったのはきれいなものとか古くから大事に使ってきた(という設定の)ものを大した意図もなく雑に壊すところ。エヴァ・グリーンとデップのアクロバティックな絡みとかも別に笑えないし(その後の壮絶な賢者タイムを生み出すための仕掛けと言えなくもないけど)、復興した屋敷とか工場を粗末に扱うのも、なんかもう生理的にダメでしたね。

結局、ものだけじゃなくて人の扱いも雑で、ただ金もらって息子を置いていなくなる親父とか何の落とし前もつけてないし、ヴァンプ化したヘレナとか、実は●●だったクロエとか、脈絡なさすぎでバートンにしてはまったく緻密さを欠いてましたね。バートンはあまり興味がないであろうエヴァ・グリーンのオッパイはよかったと思います。

2012年6月11日月曜日

黒沢清、女優を撮る

「贖罪」黒沢清
WOWOWで放映した湊かなえ原作の連続ドラマをオールナイトで鑑賞。「オチ」のひどさに目をつぶれば各女優のパートはメチャクチャ面白かった。でも本当は、脚本家であり演出家であったキヨシがオチを含めて原作をどう料理したかという、苦心の痕跡がありありと見える様がファンにはたまらないのだ。まあでも第5話はどう贔屓目に見てもわけわからんよね。

蒼井優と森山未來、小池栄子と水橋研二、安藤さくらと加瀬亮、池脇千鶴と長谷川朝晴。で、ラストに小泉今日子と香川照之。とまあ男女の話を主軸に25歳の女たちが15年前のトラウマにそれぞれの形で落とし前をつけて行く話なんだけど、オムニバスとして見ると、最初の4話は出色の出来映えだったと思うんです。

黒沢清がここまでまっすぐ「女優」撮ったことってなかったよね。このドラマを見たあとだと「叫び」の小西真奈美とか「LOFT」の中谷美紀とかもなくはなかったけど、いわゆる女性性の体現者という意味での女優ではなかったんじゃないかという気がしてきます。あくまで俳優っていうかね。(あ、洞口依子……。)

これってなんだろうって考えたときに一番わかりやすいのはやっぱり「テレビパワー」なんじゃないかなってこと。外的な圧力がどこまで働いたかは知らないけど、映画ファンじゃなくてテレビ視聴者に向けてつくるっていうのはもう無意識レベルでいろいろと違ってきてしまうと思う。

突出した作家性が一般性を獲得しようとしたとき、作家性は埋没してしまうんじゃなくて、よりその輪郭をくっきりと浮かび上がらせるんじゃないでしょうかね。否応なく出てしまう手癖みたいなものが突出して見えるんですね。結果、「テレビドラマ」とも「映画」ともつかないとても奇妙な傑作になっていたと思います。

トークショーに来ていた安藤さくらの、監督の意図に自分の拙いアイデアを乗せちゃうことで台無しにするのはもったいないと思ったから何もしなかったという趣旨の言葉にはとても聡明さを感じましたが、まさにその通りで、何もしないことで女優たちは演出家によって最良の部分を引き出されていましたね。

このドラマを撮ったことが少なからず映画監督黒沢清に影響を与えたと思うと、次回作以降がますます楽しみになります。

2012年6月7日木曜日

畏れと降伏と貪欲さ

マキタスポーツのメルマガから(以下引用)

「……話してて思ったのは、若くしてデビューしてさ、ちゃんと評価を得てきた人は、
妙な性格的な屈折とか、受け答えにおいての貧乏臭さがなくて、
あるのはそれぞれがそれぞれ違う個性での風格なんだよね。……」(以上引用)

これはマキタスポーツが奥田民生と初めて話したときの印象なんだけど、すごいよくわかるんだわ。普通の人はあるもんね、「受け答えにおいての貧乏臭さ」。俺なんかもそういうのすごいあったから。ひとかどの人物だと思われたいがために(そんなわきゃないのに)、思ったことをそのまま表現するってことができないんだよ。無駄にひねったり、こねくり回したり、盛ったりすんの。今でもたまにやっちゃうもんね。わかるわ〜。わかってちゃダメなんだけど(笑)

でもね、自分がそうだから言えるけど、別にナチュラルボーンストレートじゃなくても(そんなの希少種なんだから)屈折経て一周してストレートにもなれるんだよ。俺は人の目ばっかり気にして、周りのご機嫌を損ねないことだけを旨として生きてきたんだけど、30越えたくらいから開き直れたんだよね。自分どうこうよりも相手の強さとかポテンシャルを信じられるようになったんだと思う。人間、ちょっとやそっとのことじゃ傷つかない。これは自分の体験を通して気づいたのかもしれない。

特にインタビュー仕事を始めてからは、敬意と言うか、数十年自分とはまったく別の生を生きてきた人から得るものがないわけがないと本気で思うようになった。他人からそいういう「資源」を掘り出すことに興味がわいたのかもしれない。これはご機嫌うかがってるだけじゃ絶対に掘り出せないからね。こっちから掘りに行かないと。相手がお仕着せて来るものもあるけど、そういうのって大抵形骸化した概念でしかないんだよ。正直つまんない。

今じゃ偉い人にもそうじゃない人にも、周りが冷や冷やするような直球をよく投げる(らしい)んだけど、それなりに社会経験も積んで人並みに修羅場もくぐってきた人なら大抵の球は普通に打ち返せるんだよ。失礼のないようにってビクビクしながら、松井に「あなたこれちゃんと打ち返せますか?」って緩い変化球放るのなんてそれこそ失礼以外の何ものでもないでしょ。直球投げることを怖がってる人っていうのは結局自分が直球投げられたくないだけなんだよ。そのうえ相手のことを「自分と同じような小物」だと見積もってるってことを露呈させちゃってるわけ。そんなの最悪でしょ。

それよりは相手を心底畏れて信頼して委ねてれば(できなければ、そういうふりだけでもすれば)、多少言い回しが失礼だったとしてもそんなことはまったく問題にはならない(少なくとも当事者間では)。ちゃんと靴脱いで、揃えて、お邪魔しますって言って上がれば、何も失礼なことはないわけで、敢えて損得の話をするなら、そうやって相手のホームに上がり込んで話聞いた方が、垣根の外からビクビク眺めてるよりも「もらい」が大きいわけ。それで相手が気分を害するようだったらまあ残念だけど、そういう人だってことだよ。まあ得るべきものもなかったとあきらめるんだね。幸いそんな人に会ったことはないけどね。

俺が反省するのはもしかしたらもっと奥までいけたんじゃないか、もっとたくさん引き出せたんじゃないかってことだけで、間違っても失礼だったんじゃないかなんてことには考えも及ばない。でも実際はビックリするくらい繊細な、つまり成熟していない大人もいるよね。それはそれで残念ながら確実にいる。まあ日常相手にしなきゃいけないのはそっちの方だったりするのだが、そんな人からでも得られるものは確実にあるというのは好むと好まざるとにかかわらず事実なわけだから、「謙虚さ」を称揚するよりはむしろ「貪欲であれ」「もっと欲しがれ」っていうのが正解かもしれんね。

2012年6月6日水曜日

サニーサイドの生還者

「サニー 永遠の仲間たち」カン・ヒョンチョル
韓国のOBAさんたちがはしゃいでる予告編を見たときは「これはないな」と思ってスルーするつもりだったんだけど、ツイッターのTLで信用できる人たちがやにわに騒ぎ出したので、会社を早引けして慌てて駆けつけました。そうです、私はこういう「口コミで広がる情報の終着駅にいるおじさん」です(笑)

「韓国映画」を語れるほど本数は見てない、というかお墨付きをもらった数本のものしか見てないけど、今の韓国は間違いなく傑作と呼べる作品を相当数つくってるんじゃないだろうか。00年代頭の「子猫をお願い」くらいから始まって最近では「哀しき獣」まで、これらの映画には、やかましくて、直情的で、乱暴で、大袈裟で、恨みがましくて、お節介な「僕のよく知っている韓国」がきちんと映りつつも、優しくて、内気で、忍耐強くて、礼儀正しくて、大らかな「僕のよく知らなかった韓国」が映し出されている。そのどちらをも今や「韓国っぽい」って感じるんだけど、結局のところ「韓国っぽさ」っていうのは人間っぽさの謂いだと言ってもいいんじゃないだろうか。

つまり、韓国映画には振れ幅の大きな、あけっぴろげな民族性をありのままに描き出すことでむき出しの「ヒューマン」を描きやすいっていう特長があるんだと思う。これは「映画」にとってはこの上ない僥倖で、なかなか今の日本で同じことやろうと思っても難しくて、正直ちょっとずるいとすら思うんだけど、逆によくできた韓国映画は積極的にこのずるさを活かしているという側面もある。

この「サニー」もそういう「ずるい」映画の一本で、「面白いデブ」とか「アネゴ肌」とか「クールビューティー」とか、そういう戯画的なキャラが特に「過去」を描いた場面ではすごい生々しく見える。一方で、かつてのが戯画的なキャラの角が取れてのっぺりと平板化してしまった時代としての「現在」があって、不意に甦った過剰な過去が平板化した現在を大きく揺り動かす原動力になっているっていう物語の構造はシンプルだけどとても力強い。

この映画が恐ろしく涙腺を刺激するのは、ひとつには「過剰な過去が平板化してしまった」=「かつてそうであったものが今はそうではなくなっている」という当たり前のことを描いている(第一波)からなのだが、そのような変化を諦念とともに受け入れるだけではなく、「平板化した現在が過剰さを取り戻す」=「今もなおそうであってもいい」という事実を彼女らが受け入れていく様(第二波)を見せてくれたからなんだと思う。母や妻や嫁を演じることが「生」と同義語になってしまった彼女らが、何者をも演じずに生きていたリアルな生を取り戻すプロセスがまた感動的なのだ。

お客さんが多かったので努めて理性的に分析的に鑑賞しましたが、ほぼ全編にわたって容赦のない「ウル」トラップが仕掛けられているので、泣こうと思えばいくらでも泣けますね。泣くためだけにもう一回行きたいくらい。語りたくてしかたがないディテールについては、この映画を観たおじさんやおばさんらとオフラインで語らうとしよう。それもこの映画の大きな楽しみのひとつだからね。

僕の中では「モテキ」のように「今、スクリーンで観るべき映画」の筆頭に挙げられる1本ですね。あと、「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」もお忘れなく。最近すごい面白い映画しか観てない気がして怖い。

2012年5月31日木曜日

パリに萌えているか

「ミッドナイト・イン・パリ」ウッディ・アレン
1年くらい前からずっと楽しみにしてたこの映画。現代のアメリカ人の脚本家が20年代のパリにタイムスリップって聞いただけでうっとりしてたんだけど、見たらもっとうっとりしちゃったっていう。冒頭の観光名所を次々に見せてくシーンが結構長くつづくんだけど、見てるうちに「これで2時間でもいいな」と思っちゃった僕の負けですね。ベタなんだけどリアルな空気感のあるパリ。まず観光映画として満点。まあうっとり見てればいいだけだから、メタな視点で書くことは何もないんだけど。

パリが恋人たちにかける魔法っていうのはいわば両刃の剣で、魔法をかけると同時にそれまでかかっていた魔法を解いてしまうんですね。つまり、「恋に落ち」た男や女は今までいた場所を否定せざるを得なくなってしまう。画家や作家のグルーピーをやってるアドリアナ(マリオン・コティヤール)に一目惚れしたギルも同じで「つーか何であんな話の合わない女と結婚しようとしてたわけ?」って我に返っちゃうのもマジ・ドゥ・パリなわけです。

我に返りつつも見失ってるっていうジレンマをどちらかといえば積極的に楽しんでるように見えるのがものすごくアレンぽいところで、比較的アレン臭の薄い今作で、一目惚れした女のために婚約者の所有物をプレゼントしようとする一連のシーンはもっともアレン的で冷や冷やしながら笑いました。(台詞では「商工会議所にお礼状を書かなきゃ」とかはアレン的でしたね)

ラストにこれからのロマンスを予感させる、蚤の市でレコードを売ってた女の子は「ゴースト・プロトコル」で殺し屋を演じてたレア・セドゥですね。彼女もかわいかった。

芸術や文学の首都としてのパリっていうのが世間一般で知識としてどれくらい共有されているのかちょっとよくわかりませんが、 予備知識はあればあっただけ面白いでしょうね。ヘミングウェイの「移動祝祭日」くらいは読んでから行くと面白さ倍増で見られるかもね。(「若いときにパリで過ごすことができた者は幸運である」のくだりは世界中のこの映画の批評で何千と引用されていることでしょうw)

誰が出てくるかっていう楽しみもあるので敢えて固有名詞を排した感想にしました。ちなみにツッコミじゃないですけど、第2層(「インセプション」的な意味で)で「Parlez-moi d'amour(聞かせてよ、愛の言葉を)」がかかってましたが、これは時代考証的にあり得ないですよね。なんか特別な意図があったんならごめんなさい。

2012年5月30日水曜日

エクストリーム医療

「私の、生きる肌」ペドロ・アルモドバル
主人公のアントニオ・バンデラスが自宅に手術室とか実験室とか持ってるような、まあ紛う事なきマッドサイエンティストなんだけど、彼のマッドネスっていうのは遺伝子操作を医療に持ち込もうとするような「科学バカ」的なマッドさだけじゃないっていうのがこの映画の怖いところでしょうか。

セクシュアリティはアルモドバルの映画では常に重要なテーマとして扱われてきたと思うけど、今回のベラは特にクレイジーですよね。彼女自身がというよりは、彼女をそうさせてしまったロベル(バンデラス)がというべきなんだろうけど。いわば倒錯を身体に刻印されることで、精神的な倒錯を余儀なくされてしまったという。あまり書くとネタバレになりますが、こんな話思いつく奴が一番変態ってことで楽しんでいただけるんじゃないでしょうかね。バンデラスはスペイン語でしゃべるとセクスィーさが2割増しですね。

また、絵づくり的なところで、なんでこのショットとこのショットがつながるのかっていう映画における原初的な問いかけを持たざるを得ないようなモンタージュがいくつもあるんです。それをさも何事もなかったかのように平然とつなぐ。こんな人を人は変態って呼んでいいんだと思います。

そうそう、「裏切りのサーカス」に続いて、というよりもこちらの方が断然よかったですよ。アルベルト・イグレシアスの音楽。

2012年5月28日月曜日

脱北(関東)者の憂鬱

「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」入江悠
気にはしていたんだけどずっと見逃していて、3作目にしてやっと見ることができました。1作目から見とけばよかったというのが正直な感想ですが、この3作目は前日譚を知らずに単体としてみてもメチャクチャすごい映画です。

「ヒップホップ」や「地方都市」という要素からどうしても空族の「サウダージ」を思い出してしまうんですが、入江悠の「SR」の「映画してる感」にはたまらないものがありますね。フェスや面会の長回しとか、ある種のリアリティーをないがしろにしながらも「映画にとってのリアル」を思い切りよく追求している感じがものすごく好きです。だから、あそこで「何で極楽鳥は本気で追っかけてこないの?」とか「なんで看守はあんなに優しいの?」っていうツッコミは無粋なだけじゃなくて、残念ながらこの映画の醍醐味を味わうことに失敗してるという事実を露呈しているんだと思いますよ。そこで「リアリティーがあったらもっとすんなりと見れた」というアングルはわからなくはないですが、結論から言うと間違ってます。ここで見るべきは「リアリティーよりも優先させられた何か」なわけであって、それは両立するものじゃないんです。だって僕たちは「リアル」じゃなくて「映画」を見に来てるんだから。

前半はまだ笑って見ていられるところもあったけど、特に美保純以降はもうユーモアが入り込む隙間がまったくなくなってて、あののっぴきならない状況を数十分も見続けるのは正直つらい。つらいはつらいんだけど、そのつらさに耐えることでしか、あのラストを受容することはできなかったんじゃないだろうか。あの面会シーンだけを見たら絶対にコントか何かにしか見えないけど、あの流れの中だからこそ(おそらくは)彼らの原点である「ラップ」によって関係を修復する、いやむしろ新しい関係を構築することに成功したわけで、マイティだけじゃなくて観客も追い詰められる必要があったんじゃないかと思います。

あと、シネマハスラーで宇多丸さんが、バトルの決勝で八百っちゃう場面に「現実にはあんなことない」というようなことをおっしゃってましたが、僕は当初から「八百を強要されたことでメンタルが崩れちゃって全然勝負にならなかった」という描写だと見ました。まあ本職のラッパーに意見するほどのことじゃないでしょうけど、スポーツでもゲームでもメンタルが崩れて試合にならないっていうことはトップ選手でもしばしばあると思います。

余談ですが「サウダージ」のラストでBOØWYの「わがままジュリエット」が祝祭的かつ夢想的な映像とともに1曲かかるわけですが、入江悠がマキタスポーツのラジオ「はたらくおじさん」にゲスト出演したときにBOØWY(群馬県出身)の「マリオネット」をリクエストしたのも面白かったですね。商業映画でも絶対に面白い映画撮れる人だと思います。

2012年5月26日土曜日

ドトールのドは怒髪天を衝くのド

ドで思い出したんだけど、15年くらい前の日経ビジネスに当時伸びてきてたドトールの社長のインタビューが載ってたのね。そこでビックリしたんだけど、要約すると「ドトールは一度使った豆を再利用することでコストを下げてるんだ。すげえだろ?」みたいなこといってるわけ。コーヒー吹いたよね。

そのとき一番強く感じたのは救いようのない「品のなさ」「下劣さ」「頭の悪さ」でしたね。サンキュータツオに倣って「恥知らずが!」と言ってもいいでしょう。「いや、みなさん二番煎じを安くおいしく召し上がってらっしゃるんだからいいじゃないですか。何か問題でも?」的なね。しかも、そういう糞みたいな恥知らずの「ビジネス論」をありがたく頂いちゃう奴がいたんだよね。今考えればネオリベの走りというか、まあそういう風潮が生まれつつあったんだね。あそこで食い止めておけばよかったなぁw

もちろんこういう下卑た態度に対する感情的な反発も大きいんだけど、根本的に間違ってると思うのは、この種の「ビジネス」は「消費者の舌が肥えていないこと」を前提に成立してるってことなんだよね。もっと言えば、消費者の舌が肥えていなければいないほど儲かるっていう。。。こういう商売をしてる人たちが潜在的に望むのはもちろん「消費者の舌が肥えないこと」なわけです。消費者の舌を肥えさせてしまってはいけないわけです。

たまたまドトールを引き合いに出しましたが、これはコーヒーだけの話じゃないよね。見たり聴いたり触ったり嗅いだり、つまり、あらゆる感覚が鈍磨している消費者、モノの良し悪しがわからないスカポンチンこそがこの種の商法の一番いいお客さんなわけです。こんな人間の成長に寄与しないどころか、原理的に消費者が未熟であることを欲するようなシステムなんてものが正しいわけないじゃないですか。

こんな時代に多感な時期を過ごさなきゃならなかった人たちには同情しますし、感覚が鈍磨してるのもシステムの要請であったわけですから仕方ないとも言えるんですけど、結局これに抗うのは個人でしかないんです。まあ安くてまずいコーヒー飲むくらいなら、高くてまずいコーヒー飲んで頭に来るところから始めたらいいと思いますよ。

2012年5月24日木曜日

ドフランスのドはドレッドノートのド

イメフォで「フランス映画未公開傑作選」見てきました。去年、一昨年とロメール、シャブロルが鬼籍入りして1つの歴史が終わりつつある感がすごいありますね。ゴダールは無駄に長生きしそうだよなぁw

「ある秘密」クロード・ミレール
ドイツのユダヤ人が自らの出自を隠すために身につけたレニ・リーフェンシュタール的な、つまり非ユダヤ的な「健全な身体」が呼び起こした悲劇と言えるだろう。この映画の成功は華奢で小さく色の白いリュディヴィーヌ・サニエと日に焼けた頑強な体躯を持つセシル・ドゥ・フランスをひとつのフレームに収めたということに尽きる。ユダヤ的なユダヤ人が駆逐され、ゲルマン的なユダヤ人が生き延びるという入れ子構造は事の本質に迫っているのではないだろうか。

父親を演じたパトリック・ブリュエルは、どこかで名前聞いたことあると思ったら、90年代にシャンソンの名曲カバー集を出してバカ売れした「フランスの徳永英明」でした。当時、ドフランス系にはこっぴどくディスられていたが、思いの外いい役者だった。モテそうな伊達男でムカついたが。

「三重スパイ」エリック・ロメール
ロメールの遺作をようやくみることができたと思ったら、眠い眠い(笑)。大戦間のパリにおけるロシア元将校とその妻のおしゃべりでほぼ成り立ってるんだけど、早々に眠ってしまってついて行けなくなりました。また見ますが、白壁バックの絵づくりがなんだかゴダールっぽくてそれが不穏でした。

「刑事ベラミー」クロード・シャブロル
実はシャブロルって「いとこ同士」からつまらなかったことがなくて(多作だから半分くらいしか見てないけど)、かかってれば間違いなく見に行く監督の1人でした。でも、ものすごい好きかって聞かれるとそれほどでもない感じの代表なんだよなぁ。これも面白いんだけど変な映画で、ドパルデューが有名な敏腕刑事っていう設定なんだけど全然見えないし、ドパルデューの義理の弟の危なっかしさとか依頼人の整形男とか薄口のイザベル・ユペールみたいな奥さんといい、役者がみんなめちゃくちゃいい味出してるんだけど、何かそのよさが全然本筋と関係ないのよね。逆にそれがまたよくて。そもそも本筋も「十字路の夜」みたいなものでわかるようなわからないような話なんだけど、登場人物のカルマフルな面構え見てるだけで本当に面白いの。シャブロルみたいな監督が増えるってことが映画にとっては幸せなんじゃないかなと思ったのよね。

ちなみにイメージフォーラムでは引き続きカサヴェテスのレトロスペクティブが始まりますね。スクリーンで未見だった「チャイニーズ・ブッキー」などを見に行こうと思ってます。今週末にはアレンの「ミッドナイト・イン・パリ」とアルモドバルの「私の,生きる肌」が始まるよ。久しぶりのバンデラス主演だわ。ムフーッ!

2012年5月21日月曜日

キンカンババア



サングラスとコンパクトデジカメというナメた出で立ちで金環日食に参戦。7時半に間に合えばいいんだろ、とたかをくくっていましたが、七時半はリング状に見えるクライマックスなわけで、その前後数10分も祭りなのでした。祭りの前半には乗り遅れましたが、ぎりぎり7時25分くらいに地下鉄を降りて地上に出ることができました。

太陽を背にしながら青梅街道の歩道を歩きつつ、雲がいい塩梅にかかった瞬間にシャッターを押したら案外撮れてましたね。雲様様です。あわてて撮ったからピント合ってないけどね。

タイトルはお正月に僕の好物の金柑の甘露煮を毎年作ってくれた祖母へのオマージュ。

2012年5月11日金曜日

スパイは成功のもと


「裏切りのサーカス」トーマス・アルフレッドソン
この「裏切りのサーカス」が「ミッション・インポッシブル:ゴーストプロトコル」と同じジャンルの映画だっていうんだから、「スパイ映画」っていうのは懐が深いね。どっちもブダペストで始まるっていうのも面白い。

登場人物はそれほど多くはないんだけど、1回目に見たときはウトウトしてたもんで見終わってもわかんない部分が結構あったんだけど、その後すぐ2回目見直したら、まったくといっていいほど見逃した部分はなくて、ただ単に理解できていないだけだったというw でも必要以上に説明的にならないことを美学としてるから、親切な映画ではないと思う。今どきのお客さんのリテラシーだと厳しいんじゃないの? ただ、そうは言っても無駄もあるので、枝葉を刈り込んでもっとシンプルな話にしたら傑作になってたんじゃないですかね。

カメラワークでも演技でも極力「アクション」を排した静かな筆致で、老けメイクのゲイリー・オールドマンの背中越しに冷戦下の権謀術数を生きた男たちの物語を描かれるわけだが、脚本が祖国を捨てた男たちの友情というヒューマンドラマに焦点を当てているのに、演出はサスペンス色が強くてそこのアンバランスはちょっとあったかな。ぶっちゃけあんなにみんな怪しくなくていいと思いましたね。早々に死んじゃうジョン・ハートも主人公のゲイリー・オールドマンも顔の出てこない奥さんもみんな怪しい。「こいつは怪しい」っていう演出は簡単だけど、「この人は怪しくなありませんよ」っていう演出は難しいのかもしれんね。そんな風に見せれば見せるほど怪しんじゃうしw

よかったのはゲイリー・オールドマンが後にKGBのトップになった「カーラ」との邂逅を語るシーン。いわゆる「回想シーン」ではなく、カメラはマリファナで瞳孔の開いたオールドマンの顔を正面から見据えたままそのエピソードに耳を傾ける。顔アップとしゃべりだけであれだけ持って行ける俳優さんもいないと思います。

もうひとつこの映画のみどころは英国紳士たちのスーツの着こなし。三つ揃いのスーツ、トレンチコート、皮鞄に手袋に革靴とまったくすきのないトラディショナルスタイル。オーソドックスなゲイリー・オールドマンに対して、伊達男コリン・ファースの茶系のコーデュロイやスエードブーツっていうスタイルもコントラストが効いててよかったですね。衣装や美術も凝ってて金かかってる感がありました。

2012年5月7日月曜日

オートポイエーシスとしての映画

「未知との遭遇」でリチャード・ドレイファス(以下RD)がバリー坊やのお母さんと出会って、デビルズタワーの頂上に向かうというシーンで、頂上への道が急斜面ばかりで行く手を阻まれたかに見えたところでRDが「私の作ったデビルズタワーの模型ではもうちょっと行くと頂上につながる緩やかな斜面がある」みたいなことを言って、実際に頂上に行けちゃうんですね。

これ、何? すごい面白いんだけど、これは何が起こったの?

こんなときにいつも助けてくれるのがO先生。早速この問題について電話で尋ねると「君、それはミメーシスとポイエーシスだよ。アリストテレスを読みたまえ」と素っ気なく答えられたので、「もう少しヒントを」と食い下がると「創作(RDの粘土細工)が模倣ではなく創造だったということだろう」と。そこで「ああ、なるほど」とひざを打ったわけです。

バリー坊やのお母さんもRDと同じようにデビルズタワーのイメージに取り憑かれてたんだけど、彼女はそのイメージをずっと同じアングルからスケッチしてたんですね。かたやRDは立体で創作してたわけです。しかもかなり大きな縮尺で、リビングを埋め尽くすくらいの大きさの模型を作っていたわけで再現性が高かったと。ただ、ぼくが感じたのはそれはどちらも現実の模倣であったと同時に、RDがデビルズタワーを創造したとも言えるんじゃないかということです。

もうちょい頑張ると、五感でもそれ以上の感覚でも、そう見えた、そう感じたということ=世界をそのように認識したということは、そのような世界を創造したということと同義なのではないかと思ったのです。つまり、世界を創造しているのは思考の前に認識であると。ゴダール風に言えば「映画とは現実の反映ではなく反映の現実だ」と。とっちらかってますけど、アイデアの片鱗だけでも残しておきます。

2012年5月1日火曜日

エッセンシャル・リビング

「別離」アスガー・ファハルディ
キアロスタミ、マフマルバフ、マジディ、ジャリリらの出現で、イランは映画の辺境じゃないってことがばれちゃったわけだから、今更あわてて驚くような映画じゃないと思うけどね(アカデミー外国語作品賞受賞)。役者は子どもも含めてうまいし、撮影も編集も見たまんま辺境のそれではないんだけど、単にプロットがうまくないという点であまりノレなかった。観客が知りようのない事実が終盤で次々に明らかにされるっていうのはサスペンスとして成功してないし、ラストで「信仰心」を切り札にしたいならそのカードは中途半端に小出しにすべきじゃなかったと思う。


「哀しき獣」ナ・ホンジン
結構前に宇多丸師匠が絶賛してたシネマハスラーをポッドキャストで今更ながら聞いてあわてて見に行った次第。韓国ノワールとして最高の1本じゃないですか?

ディテールでつまずいてる人が多いみたいだけど、これはノリで一気に見ちゃうタイプの映画でしょ? 最初の殺人事件をきっかけに作動しちゃった「ノワールシステム」の暴走を誰も止められない様を眺めてればいいだけで、その中の因果関係とか追っかけててつまずいちゃったらもったいない。「何だかよくわからないけど面白い」と「何だかよくわからないから面白い」は紙一重だけど、どっちにしてもわからないことによって面白さは損なわれないという鑑賞態度があるってことは知っていて損はない。

僕が一番魅了されたのはミョン・ジョンハクという中国の朝鮮族暴力団の親玉で、こいつがすごいのは「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ」を地で行くような悪の山本五十六っぷりで、小悪党相手にも自ら手斧を持って戦うし、逃亡者が海に逃げれば真っ先に海に飛び込む。「バットマン」のジョーカーみたいに「悪の倫理」を振りかざさない徹底的な悪のプラグマティストにして、手近な武器は刺身包丁であれ牛骨であれ何でも手にして相手をぶちのめすが、自分に刺客を放った「教授」とは冷静に商談を交わすリアリスト。こいつがとにかく格好いい、そして怖い。

さまざまな思惑が飛び交う中で、徐々に各々の行動原理は己の利益を確保することから、単に生き延びること、つまり己の生命を確保することへと変化していく。主要な三人の登場人物がどんどん現世的な保身を諦め、生身の人間として生存をかけた戦いに身を投じていく中で、どんどんむき出しになっていく闘争本能には運命の悲哀よりも単にひとつの命として存在することの喜びがにじみ出ていると言っていいと思う。。

グラン・ギニョル的な(「冷たい熱帯魚」のような)露悪趣味ではなくて、この手の純粋な野蛮さに憧れちゃうっていうのはあるよね。あと、ミョン・ジョンハクのごとき無慈悲さの前で僕らはいかに無力かを想像することで、僕らがどんな慈悲によって生かされているのかを考えてみればいいよ。今日も生意気なこと言ってる僕を殺さないでいてくれてありがとう。替わりに、みんなのことも生かしておいてあげるよ。

早口で歌へアメージング・グレース

「未知との遭遇」スティーブン・スピルバーグ
「宇宙人ポール」グレッグ・モットーラ

早稲田松竹はわりとこういう誰もが考えつくようなベタな2本立てをやってくれるのでうれしい。

「未知との遭遇」は赤く褪色した傷だらけのひどいプリントだったけど、スクリーンで見ることができたのは素直にうれしかった。昔レンタルのVHSで見たときは、これほどリチャード・ドレイファスが追い詰められているという印象は受けなかった。記憶に焼き付いていて幾度となく真似をした「マッシュポテトでデビルズ・タワー」のシーンもコミカルな要素はまったくなく、むしろ家庭の破綻を決定づけるようなシーンだったのだ。

インドの僧侶たちの合唱から例の音階を導き出すトリュフォーの学会発表がまったくといっていいほど意味不明な上に拍手喝采で終わるというシーンがあんなに荒唐無稽だったかなとか、バリー坊やの演技がめちゃくちゃうまいとか、バリー坊やのお母さんとリチャード・ドレイファスが疑似恋愛的な関係にあったとか、ディテールで新たな発見ができたところは非常に面白かった。

「宇宙人ポール」は今年のベスト3には入る1本と思っていたのだが、「未知との遭遇」と並べてしまうとどうしてもその小品ぶりが否定しがたく浮き彫りになってしまう。面白いし、よくできてはいる。センスもいいし笑えるし泣ける。「未知との遭遇」のようなデタラメさや破綻はまったくない。それでもどちらが映画として面白いかと問われれば間違いなく「未知との遭遇」ということになってしまう。

何というか注ぎ込まれたエネルギーの総量が違うのだ。もちろん「ポール」をつくった人たちの「本気」もわかるし、希有な才能が結集しているということはよくわかる。ただ僕が心打たれるのはデビルズ・タワーのイメージに取り憑かれてしまったリチャード・ドレイファスのように「宇宙人との第3種接近遭遇を描く」ことに取り憑かれてしまった人々の情熱なのだ。その情熱は「感動」とも「観客動員数」とも無縁のところで制御しがたく作動してしまったものだ。どんなにいびつでも完成度が低くても、僕が好きなのはこんな風にして「できてしまった映画」なのだということを再確認した。

2012年4月26日木曜日

God spells

God spells
残り湯で洗濯して
ポケットティッシュを箱ティッシュに詰め替えして
パンツを裏返しに履いて
Tシャツに付いた塩をコツコツと貯めて
性格俳優に転身して
いかにもおばさんが喜びそうな発明をして
病気を理由に
裸になって股開いて
戸籍を売って
土下座するエネルギーで発電して
オナニーを我慢した分のエネルギーで洗濯機が回って
汚物を煮込んだ臭いを近所にばらまいて
その臭いに怒った住民のエネルギーで洗濯機が回って
テレビのリモコンにラップを巻いて
穴掘って
穴埋めて
二度寝して
腕をやたらグルグルグルグルグルグル回して
腕をグルグルグルグルグルグルやたら回して
金メダルを落として
童貞でいながらにして
醜い部分を晒け出して
宗教をつくって
恋をして
恋敗れて
女になって
子供を産んで
育てて

マキタ学級 「金もうけ」より

2012年4月17日火曜日

ラ・シオタ駅に横たわりたかった轢死体

最初の映画として知られるリュミエール兄弟の「列車の到着」(http://youtu.be/MsWYfb4uCzA)を見ていた観客がスクリーンの奥の方から迫り来る列車を避けるために席を立ち上がったという有名なエピソードを、スコセッシは「ヒューゴ」の中で3Dを効果的に使いながら描いた。

映画を観るのが「初めて」で映画を「知らなかった」人のフレッシュな反応として人口に膾炙したこのエピソードをなぜスコセッシは同じ映画の中で2度も描いたのか。おこがましい話かもしれないが、僕にはその理由がよくわかる。

しばしば単なる笑い話として処理されるこの手の話だが、ほのぼのエピソードを限られた尺の中で2度も見せるということは通常あり得ない。ではスコセッシは何がしたかったのか。おそらく彼は「最初の映画」を見て「列車を避けた人」その人になりたかったのだと思う。なんならスクリーンから飛び出してきた列車に轢かれたかったw 生まれたときから映画館があり、制作会社があり、撮影所があり、俳優や映画監督、さらには映画批評家なんていう職業がある時代に僕らは生きている。つまり、まったき未知としての映画と遭遇するという自由を、僕たちはあらかじめ奪われている。その事実がスコセッシには耐え難いのだ。

スクリーンの奥から迫り来る列車がこちら側に飛び出してくると信じて思わず立ち上がって避けてしまうという感性を僕たちはもう経験しようがない。もう彼らが感じた恐怖や焦りを体験することはできないのだ。列車の到着から数十年後に生まれた僕たちも、彼らのように驚きたかった。彼らのように映画と出会いたかった。「ヒューゴ」にはそうした切実な願いが通奏低音のように流れている。

2012年4月16日月曜日

既に黎明期に失われていた大事な何か


「アーティスト」 ミシェル・アザナヴィシウス
しばしば演劇的とも評されるサイレントの誇張された演技について考えてみた。

この映画で一番違和感があったのは、後半、火事に駆けつける警官の走り方だ。大きなストライドで走る警官の身体運用があまりに「サイレント的」ではなかったのだ。主役の2人がそれなりにサイレントっぽい演技をしていただけにこの警官の動きは突出して異彩を放っていた。別に動きとして不自然とか、おかしいということではない。こんな風に走る人はいくらでもいるだろう。ただサイレント的ではないのだ。極言すれば「リアリティー」がない。私の知っている1920年代のアメリカの警官はそんな風には走らない、のだ。

同じようなことを「エッセンシャル・キリング」のときにも書いた。あのときはヴィンセント・ギャロの身体運用があまりにアラブ的でなかったのだ。例えば、フランス人やドイツ人(という設定の人たち)が自国で英語でしゃべっていることよりも、この視覚情報の違和は圧倒的に大きい。「設定」としては飲み込めないのだ。

「なんで戦時中のドイツ人同士が英語しゃべってるの?」というツッコミはもちろん可能なのだが、それは虚構として飲み込める。一方、この身体運用に関する違和感「1920年代のアメリカ人はそんな風には動いていなかったはずだ」(というある種の信念)は咀嚼しきれずに口の中に残ってしまう。

手を開いた口に当てて後退りするという「サイレント的」な演技をするリリアン・ギッシュ、あるいは「帽子箱を持った少女」の冒頭で丘を駆け下りてくる鉄道員。彼らの動きのサイレント的な「自然さ」。その身体所作が音声の欠如を補うために誇張されているのだとしたら、それを演劇的と呼ぶことは果たして正しいのかという疑問が生じる。なぜなら演劇は音声を失ってはいないからだ。それでは真にサイレント的な身体運用とは何なのか。

無根拠に断定すればそれは「サイレント映画に固有の型」としか言い様のないものなのではないだろうか。役者の表情や身振り手振りは大仰であってもその演技は過不足ない唯一の表現としてある種のフレームに収まっていたのではないか。トーキーの出現でそうした「型」は不要になったのかもしれない。でも、この「型」を知っていた映画作家とそれ以降の映画作家の表現力の致命的な差(例えば小津や溝口と黒澤)を考えたときに、私たちが失ったものは単に不要になったものだったとは速断できない。

あ、この映画の話全然しなかったな。また今度。


「ヒューゴの不思議な発明」マーチン・スコセッシ
父親の不在や鍵と鍵穴をめぐるエピソードなど「ものすごくうるさくて」とかぶる部分が非常に大きい。しかし、この映画に作品賞と監督賞あげられなかったアカデミー=アメリカってなんなんだろう。

懐古主義者がしばしば見失う点だけど、リュミエールもエジソンもメチャクチャ新しいもの好きのエンジニアだったってことは忘れちゃいけない。グリフィスだってそうだ。黎明期の20年くらいの映画人は間違いなく機材においても撮影手法においても「ギミック命」だったと思う。リュミエールもエジソンも「映画作家」という自覚はなかっただろう。

マジシャン出身のメリエスにも同様のことが言える。彼にとっての映画は「芸術」よりも「奇術」に近かった。リュミエールに譲ってもらえなかったカメラを自作し、撮影技法や演出技法をゼロから開拓した。黎明期の映画作家は皆発明家たらざるを得なかったのだ。

見るまでは「なぜスコセッシがメリエスを?」という疑問がないではなかった。しかし、「タクシー・ドライバー」の誰もが忘れることのできないシーンに、すでに「ギミックの人スコセッシ」が表れていたことを思い出して得心した。

だが、事態はそう単純ではないのだろう。作り手に求められる技術は「人々の関心を集めること」から「観客を集めること」へ、さらに「出資者を集めること」に替わり、撮った作品の面白さよりも、これから撮る作品の面白さをいかに吹聴できるかへと移り変わってきた。私たちには見えないところでプロデューサーを口説くための新しいギミック(目くらまし)が開発され試用され、採用され、捨てられているのだろう。もちろんプロデューサーとしてクレジットされていたジョニー・デップは映画の人としてそうした動きに抗う1人だとは思うけど。

また映画の中身に全然触れなかったね。また今度。

2012年4月13日金曜日

人はなぜテレパシーを捨てたのか?

今よりも霊性が高い文明に人類が生きていた時代、彼らはテレパシーでコミュニケーションをとっていた、なんていう話はとても興味深くはあるのだけど、腑に落ちない点がある。それは、言葉を使う必要がなかったんなら、何でテレパシーが言葉にとって替わってしまったのか、という素朴な疑問だ。だが、今の言葉によるコミュニケーションのあり方を見ていると何となく、テレパシー衰退の原因がわかるような気がする。

というのも、現代人は言葉を使ってよりよく(より濃密に、より効率的に、明確な意図を持って)コミュニケーションしようとしているようには見えないからだ。多くの発話者は伝える内容の充実もそれを伝えるツール(言葉)の洗練にもまるで興味がないように見える。ただ、言質の獲得と自己愛の表出にしか使われない言葉は本当にもったいないし、かわいそうだ。そう考えると、テレパシーにも今の言葉のような衰退の過程があったということはわりと容易に想像できる。そのツールの持つ主たる機能(言葉の場合は伝達だ)を使わないことで、それはどんどん「使えない」ものになっていく。意図して使わないのならともかく、気づいたときには使おうと思っても使えなくなってしまっているのだ。

このまま言葉の持つ伝達・表現の機能をないがしろにしていけば、言葉はさび付き、思考もそれに合わせて縮小していくだろう。それでは、何が言葉にとって替わるのか。全人類が共通で数文字の表音文字と数種類のエモティコン(絵文字)を使うようになるという未来は案外簡単にやってきてしまうような気もする。

翻って、かつてはテレパシーで活発に(ここでいう活発さとはトラフィックの量ではなく、メタ情報を含む情報量の多さことだ)コミュニケーションが行われていたとすれば、その能力よりもそこで交わされていたやりとりこそが、知的・精神的に高度に洗練された素晴らしいものだったんじゃないかと夢想したくもなる。

思想やアイデアは母語を用いて表現したときに最大限にその伝播力を発揮するという当たり前の事実に基づけば、「言葉=母語を大切にする」というのは何も政治的・情緒的な話ではなくて、よりよく生きるために日々使う食器や工具を丁寧に扱おうという程度の当たり前の話だと思う。

2012年4月11日水曜日

わりとどうでもいいへ(^o^)へ

という心境がしっくりくる場面が日に日に増していくんだけど、この「どうでもいい」のポジティブな感覚を人に伝えるのが難しい。どうも投げやりさだったり無関心として伝わりやすいように思う。だが、それは全然違う。

すごく平たくいうと「不要なこだわりを捨てた状態」と言えなくもないんだけど、そう定義した瞬間に「不要なこだわりがあっても別にいい」というメタな視点が支配的に立ち現れてくる。結局こだわりのあるなしはこの「どうでもよさ」を決定づける要素ではなくなってしまう。つまり、この「どうでもよさ」すらどう定義されようとどうでもいいのだ。

あらゆる「べき」から解放されたまったき自由。あるいはあらゆる「べき」にがんじがらめにされる自由。ただ各人が己の選択した自由な状態にあるという現実に良いも悪いもない。ただ微笑んでいてもいいし、急に怒り出してもいいし、大好きだった人やものに対する興味を失ってもいいし、嘘をついてもいい。

本来こうした自由は誰もが生得的にもっているはずなのだが、多くの人は自らこの自由を捨ててきた。だが、ややこしいプロセスを経て僕たちはもう一度この自由を獲得しつつあるのではないだろうか。つまり被承認状態がデフォルトであるような自己をわざわざ肯定するという七面倒臭いことをしなくても済むようになる。トートロジックな結論になるが、この自由の中にたゆたう思いや感情を生きることでしか人は自由でいられないのだと思う。

2012年4月9日月曜日

ひと夏の経験

うろ覚えで申し訳ないけど、かつて愛読していた「シャーロック・ホームズ」の中にとても印象深く、その思想に深く影響を受けた言葉があった。何のエピソードかも忘れてしまったが、ホームズが解決を依頼された事件が二転三転して結局何が起きたのかわからなかったという終幕をむかえ、依頼者の婦人が探偵に問うのだ。
「結局この事件はなんだったんでしょう?」
そこでホームズはこう答える。
「ミセス、あなたは何よりも得難いものをこの事件から得ました。それは経験です」

中二の夏休み当時、この台詞の荒唐無稽な格好良さとともに、実にプラグマティックな側面にやられたのを覚えている。この考え方ならあらゆる艱難辛苦を乗り越えることができる、と。失恋も経験、落第も経験、エロ本見つかるのも経験……。実際、今でもそんな考え方が僕の底流にもある。

しかし、知的刺激が枯渇するとアヘン崫に足を運んでしまうようなニヒルな探偵にしてはえらくロマン主義的な言葉だ。婦人への優しさもあったのか? 今思えば、その言葉がロマン主義的に聞こえたというのはこちらの勝手な解釈だったようにも思う。一般的な解釈ではこの「経験」のくだりが意味するところは、「この経験を通してあなたは成長した」あるいは「あなたはこの経験をこれからの人生の糧にできる」だろう。

しかし、ある経験が真に尊いのは、この物語の中の依頼者の女性にとっての「事件」のように、それが他の経験とは代替不能のものであり、他のどんな経験にも似ない固有性を持つときだと思う。つまり、簡単に「次に生かせ」たり、「血となり肉となっ」たりしないような、(少なくとも即座には)役に立たない経験。孤島のように記憶や情報と断絶された経験。そんな経験が「私」の中に居場所を見つけ、沈潜していくとき、「私」は少しずつ世界に向けて広がっていくのだと思う。

2012年4月6日金曜日

ビギン君

そういえばまだ「人生はビギナーズ」についてまだ何も書いてなかったな。

ディテールを云々するような映画じゃなくて、ただスクリーンからの反射光を浴びて、涙していればそれでいいような映画なんですけどね。視線そのものが優しさであるような映画に対してあれこれ言う必要はないでしょう。

誰にとっても「この人生」は初めてなわけで、正確に言えばすべての人にとってまた世界にとってすべての瞬間が初めてなわけで、そういった意味では僕らは初めての瞬間しか迎えることができないわけです。

安心でも不安でもなく、希望でも失望でもなくただ「どうなるのかわからない」とつぶやいた時に世界は初めて真に開かれたものとなるのでしょうね。

Beginners

2012年4月3日火曜日

零点の星空

ちょうど去年の今頃、節電に燃える首都東京で会社からの帰り道、僕は毎日夜空を見上げながら歩いていた。東京の夜が暗くなればたくさんの星が見えるようになるかもしれないと思ったからだ。でも残念ながらちっともそんなことにはならなかった。まだまだ明るすぎるのか、そもそも空気が汚れているのか。とにかく空はいつもの無表情な冬の大四角形を見せてくれるばかりだった。

小学生の頃、星が好きだった。天板図を買ってもらってすべての星座を覚えていた。と自分では思っていた。5年生の夏、赤城山にキャンプに行った。生まれて初めて見る「満天の星空」。本当に星で空が埋め尽くされていて、東京のように「主要な星座」だけが見えるということはなかった。平均より若干明るいというだけの理由で神話から名前をもらったり、天板図に刻まれることになった星や星座から一気に興味が失せた。だって、空を埋め尽くしてるこれ全部星なんだぜ。

どの星がとかどの星座がというのではなく、文字通り空を星が埋め尽くしているということがすごすぎて、仰向けになったまま何時間も空を眺めていた。僕が星や星座の名前を覚えていたのは中学校受験の一環でもあったわけだが、子どもの頃から肉眼でこれだけの星が見える環境に育ったやつに勝てるわけがないと直感的に思った。彼らが星や星座の名を知っていようといまいと絶対に彼らの方が星に詳しいに決まっている。好きになろうにも僕にはそれが見えてすらいないんだから。

子どもっぽい情熱はそこで終わったかもしれないが、汚れた空気や雲の向こう側には太古から続く満天の星空があるということは知ってしまったわけで、それは今でも続いている。肉眼では確認できない無数の微弱な光が肌に突き刺すのを感じながら、今自分はたまたまそれが見えないところにいるのだということをたまに思い出したりするわけだ。

2012年3月15日木曜日

朝ログ

何か最近特に観念的に映画を見ることを積極的に自分に許している節があります。蓮實先生からの卒業と考えると、ちょうど小学校入学から大学卒業くらいまでですか。長かったですね。

というのも観念的に撮られた映画というのも普通にあると思うんですね。というかシネフィルじゃなくても映画は撮れるんだから。何も映画表現の固有性からのみ出発する必要はない。既成の文法にとらわれずに、撮りたい人が好きに撮ればいい。映画の愛し方っていうのは一通りではない。というか、愛してなくたって別にいいじゃん、と。俺とは愛し方が違うとか言ってわざわざ分離を生むようなことをするのはそもそも愛ではないんじゃないの、と。

この愛ではない一方通行の契約のようなものをより正確には執着と呼ぶわけですが、大抵の場合執着されてる相手っていうのは迷惑してますよね。映画も相当迷惑してるんだろうなぁとw

映画のようなメディアの場合、何かを「感じる」ということはすでに交感が成立していると思うんです。それってもう十分に愛っていう関係じゃないですか。まずはこの愛を享受すること。そこから出発すればまず間違いはないんじゃないかと思います。

ちなみにこの愛を受け損ねた人の愛の告白こそがヘイトであり呪いであるのだと思います。

2012年3月12日月曜日

耐えられない善人の鈍感さ

「ヤング≒アダルト」ジェイソン・ライトマン
大人になりきれない人たちを描いた映画にはもううんざりとか言いながらも、とかく饒舌に語りたくなるのはこの種の映画であるというあたりにワタスの限界があるんでしょうね。しかしこの「ヤング≒アダルト」、女優シャーリーズ・セロンの最高傑作じゃないでしょうか。

メイクも落とさずベッドの上に倒れ込むようにしておそらくは泥酔して寝ていたティーン向け小説(YA=ヤングアダルト)の作家メイビス(37歳独身)がミネアポリスの高層マンションの一室で目覚める遅い朝からこの映画は始まる。片付けられていないペットのえさの容器や、Tシャツの中に手を入れてヌーブラをベリベリと剥がす描写やプリンターの切れたインクカートリッジにあんなものを流し込んじゃうとか、ちょっと露悪趣味が過ぎるだろうって思って見てたんだけど、このくらいエキセントリックじゃないと、彼女の激しい「思い込み」が正当化されないという意味では正解なのかもしれない。前作の「マイレージ・マイライフ」よりも救いがないのは、ジョージ・クルーニーは男っていうのもあって彼が直面してたのは仕事一本で生きてきた男の所謂「ミッドライフクライシス」とも要約できるようなものだったと思うんだけど、今作は子無しバツイチ中年女ということでどちらかというと救いがない。美貌も翳り、ステディもおらず、人気連載も終了し、軽い自傷癖があり、心の友はアルコールと一匹の犬。救いは彼女の輝かしい青春時代にしかなかったというわけ
だ。

そんな折、輝かしい青春時代に付き合っていた元彼の第一子誕生の報をメールで受けた彼女は、元彼を取り戻すべく(この発想がまずおかしいのだがw)故郷マーキュリーに旅立つ。一夜を共にした男の腕を縄抜けのようにしてくぐり抜けたメイビスは寝起きの姿のままよれよれのキティちゃんTシャツでミニを走らせて故郷に向かう。故郷で最初に出会う知人が、この映画で唯一の良心とも言える、ハイスクール時代にメイビスとロッカーが隣だったというヲタ。こいつがただのヲタじゃなくてシャレにならないくらいの相当の訳ありで、青春暗黒時代とそこから逃れられない呪縛を背負ってしまっている。「プロムクイーンとして輝いていた」程度の女との対比としてはかなりバランスを欠いたカウンターパートなわけだが、このコントラストのアシンメトリーがマーキュリーでの物語の推進力にもなっているという点はとてもよくできていると思う。(この映画の真のラブストーリーとしての側面はそこにある)

このヲタ絡みの話で僕が好きというか嫌いというかとにかく見過ごせなかったのが、地元では一番イケてるというチェーンのレストランで元彼と再会してすぐのシーン。前述のヲタが店員として働いているために彼のことが2人の話題に上るのだが、ここでの温度差っていうのは非常に微妙で本来なら看過できないものであったはずだ。田舎のイケメン番長の彼は彼女が忌み嫌っているような田舎臭い無神経さ、鈍感さの象徴でもあったわけだ。ハイスクール時代には相対化できなかった「田舎臭さ」は以前と変わらないはずなのだが、「都会」で「(人気)作家」として生活するメイビスはそれを際立たせてしまう。だが彼女の病はそれを看過してしまう。彼女の目に映っていたのは青春時代の「彼」だったから。

クライマックスを待つまでもなく、この映画の「田舎ヘイト」描写は結構出色で、ファッションセンターシマムラみたいなところで「マーク・ジェイコブズはないの?」とか笑えるギャグはあるものの、基本的にはちょっと意地悪過ぎるんじゃないかっていうほど容赦ない。ただやっぱり「いい人」「悪気がない人」特有の無神経さはマジヘイトだよね(^_^;) 余談だけど、僕はこの手の話を見聞きする度に拳銃で自殺した兄を持つ弟に、その両親が弟を「喜ばせようと思って」拳銃をプレゼントしたというエピソードを思い出す。そこまでひどくはなくても想像力の欠如という意味では通底していると感じますね。

基本的にはメイビスは普通の人はまったく感情移入できないような鼻持ちならないクソビッチなんだけど、あるトラウマ体験の告白に至り、俺の中の「田舎者」ヘイトはメイビスと同時に沸点に達しましたね。メイビスの神経症的で都会的なシニシズムにどこか同情的だった俺勝利!w ラストの「カラー・オブ・ハート」を思わせるヲタの妹とのダイアローグはちょっと説明過多で要らないかなっていう気もしたけど、彼女のインスパイアがぶっ壊れたミニにかけられたエンジンだったと考えれば、故郷との決別を決定づけてくれた彼女の存在は必要だったのかもね。「ライフ・ゴーズ・オンもの」としてはかなり好きな部類の映画です。

念のためのエクスキューズだけど、ここで田舎っていうのはローカリティーのことじゃなくて、メンタリティーのことね。まあ両者は密接に関連しているのでエクスキューズにはならないかもしれませんね。(同じくらい都会の洗練やら社交やらも同じかもっとひどいくらいクソなんですが、それはまた機会があれば)

2012年3月11日日曜日

Fanatique ≒ Critique


たまには毛色の違った話も。

今日、知り合いに紹介してもらった仕立て屋さんで春夏物のジャケットを作ったんですが、初めてのフルオーダーで色々と教えてもらうことが出来ました。生地の話から、採寸の考え方、ボタンの位置、数、ポケットの仕様、切羽の起源などディテールの話も面白かったんですが、一番興味深かったのは日本の職人さんが絶滅の危機にあるという話でした。

生地を織る人、パターナー(型紙を作る人)、シャツ職人、スーツ職人、帽子職人、つまりファッションの分野で最高峰の技術を持つプロフェッショナルがそれぞれ数人ずつしかいなくてそれもみなさん高齢だというんですね。なんでそうなったか。理由は明らかなんです。

ユニクロに代表されるファストファッションの台頭ですね。一部ではファッションの敷居を下げたという評価を受けていますが、僕は当初からこの意見には反対でした。最近も別の分野の話で同じようなことを考えていましたが、間口を広げたから、つまりハードルが低くなったから入ってきた人たちっていうのは結局のところ深いところまで来ないんです。来れないし来るつもりもないんです。みんながみんな深いところまで来る必要はない、浅瀬で遊んでるのが楽しい人だっているんだっていうのはそのとおりだと思うんですが、浅瀬で遊ぶことの楽しさばかり喧伝することで、深いところに誰も来なくなってしまうんです。僕がハードルは下げるな、間口は広げるなっていうのはこのためです。

これまではどの世界でも中くらいのハードルっていうのがあったんですね。この中ぐらいのハードルをクリアしてきた人は、本来勝手にその世界の深いところまで行こうとするんだけど、低いハードルがあることで、そういう人たちまでもが深いところまで行かなくなってしまったんです。つまり、本当にいいものや面白いものに辿りつけなくなってしまった。

「消費者」の姿勢としてはそれで十分でしょう。本人が楽しければそれでいい。でも、本当にいいものや面白いものを知らない人っていうのは本当にいいものや面白いものを欲することができないんです。誰も欲しがらないから、それを作る人がいなくなりつつある。そしてジャンルの、業界の衰退、滅亡を招く。服飾だけじゃなくて伝統芸能でもエンターテインメントの世界でも同じことが起きている。と、まあそういうことです。

服の話に戻りますが、「洋服」の起源でもあるイギリスやイタリアでは国からの支援も打ち切られて(日本は元々ありませんが)、状況は日本よりも悪いそうです。ただ、このテーラーさんは採算度外視で職人さんの学校を設立して日本の服飾文化の存続に注力しているそうです。応援したいですね。どんな伝統のある文化・芸能も時代の趨勢にそぐわないものは淘汰されるべき運命にあるというのは簡単ですが、単純にそれってすごいもったいないことだと思いませんか?


余談になりますが、批評っていうのは「作り手が言われて面白くないことも含めて、あれこれ口出しすること」でそのジャンルの存続・繁栄に寄与することを旨としたプロフェッションだと思うんですね。逆に言えば批評家というのは「お前はみんなの役に立ってるから好き勝手言ってもいいんだよ」と、そういう資格を得た人のことですね。こういう仕事をしている人に私たちは「好き勝手言うだけの人」という烙印を押してしまった。そして、この「資格」にたいしても鈍感になってしまった。「批評家の不在」⇔「極めた人の不在」という負のスパイラルは、ジャンルの衰退という現象の断面図に大きな余白を作ってしまいましたね。

2012年3月9日金曜日

太陽フレアだなんだと言って

結局何も起きやしないじゃないか。
終末待望論者の無能ぶりにはもううんざりだ。

2012年3月5日月曜日

80分一本勝負

「おとなのけんか」ロマン・ポランスキー
アメリカに入国できないポランスキーがあえてニューヨークを舞台にした映画を撮るというのも面白いというか倒錯的なという気がするけど、舞台をロンドンにもパリにも変えないで、ニューヨークでアメリカ人の夫婦2組という設定でしか成り立たない脚本を選んだというのはこの映画を見ればよくわかる。この4人の人物造形は、アメリカ人であるということが前提にあるからね。

見所は何といってもケイト・ウィンスレットのゲロ。リベラルなインテリ風=ジョディ・フォスターが大切にしているココシュカ、ベーコン、フジタの画集に食べたばかりのコブラーとぬるいコーラのミクスチャーを盛大にかけるシーン。しかもリアルな吐瀉物の処理に結構な時間と手間をかけているのもよかったですね。「ゲロがリアルな映画にハズレはない」の法則がここでも発動してしまいました。

しかし、もはやこういう「痛い」キャラクター群を見せられても誰にも自己投影できないし共感もできない。響くところがない。あえて言えば、ジョディ・フォスターのスノビズムくらいなもんでw そうなってくるともういつ本音バトルが始まるのかとか冷や冷やしたりはできないんですね。誰のどんな発言が誰の琴線に触れようが、どんな顛末になろうがわりとどうでもいいヘ(^o^)ヘ。笑ってみてはいられるけど、まだそんなところにいるのかよ、もう2012年だぜって感じでね。すごいよくできてはいると思いますよ。

カルマとしてのアイドル

「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る 」高橋栄樹
2011年3月11日の震災の日から大晦日の紅白歌合戦までを追った2011年のAKBのドキュメンタリー。イベントやライブの舞台、舞台裏と別撮りのインタビューという構成。

総選挙と西武ドームという2大イベントを柱に、被災地訪問、ジャンケン大会、チーム4の結成とある事件などをはさみながら「アイドルであるということの過酷さ」をかなりの至近距離から見せた力作。伝説の(かどうか知らないけど)西武ドーム2日目なんて「プライベート・ライアン」の冒頭を彷彿とさせるような戦場さながらの様相で、暑さと極度の緊張の中で疲弊し混乱し限界を越えたメンバーたちが次々に倒れては起き上がりステージに戻っていく。極めつけは過呼吸を起こしたままアンコールのステージに戻ったあっちゃん。文字通りショウは続く。幕は降りてくれないわけです。一瞬前まで肩を上下させて苦しそうにしていたのに自らがセンターを務めるフライング・ゲットの一拍目の決めのポーズで笑顔で両手を広げて立ち上がるという奇跡的なシーンを舞台正面から望遠で押さえたショットには鳥肌立てながら泣きました。

この映画の謂いは「実はアイドルって結構大変なんですよ」なんてもんじゃないんですね。「あなたがたの消費は彼女たちのこのとてつもない苦しみの上に成立している。それでもあなたはアイドルファンであることを続けるか? つまり彼女たちが苦しみ続けることを望むのか?」という問いですね。確かにここまで描いたのはすごい。ただし一方で、これ以上はもう見せないよっていう秋元康の(?)マニフェストとも受け取れるんですね。もっとどろどろした部分もあるんだけど、そこは不問に付してくれという訴えにも見えてしまうわけです。ここまで見せたんだからもういいでしょう、と。

僕は個人的には、死人とか廃人が出る前にやめた方がいいと思いましたけど、「あの場所でしか輝けない人」がいるとしたらその権利を奪うというのも酷なのかなという気もする(あっちゃんとかたかみなを見ているとそれを強く感じる)。まあとりあえずの結論としては、プロデュースする側もコンシュームする側も後先考えずに焼き畑農業的に、享楽的にむさぼり食うのだけはやめようよっていうところかな。


「顔のないスパイ」マイケル・ブラント
確実に及第点はクリアしてきてるんだけど、あれこれいいにくい映画なんだよなぁ。元CIAのリチャード・ギアが追っていた伝説の殺し屋カシウスが10年ぶりに姿を現した(同じ手口の犯行で議員が殺された)ということで急遽古巣に呼び戻される。そこでカシウスを修論のテーマにしたという若いFBI捜査官(トファー・グレイス)と組まされて捜査に駆り出される。わりと序盤でカシウスの正体が明らかにされるんだけど、そこからのサスペンスもわりと見せるのでうまい作りだったと思う。以上w

2012年2月27日月曜日

私の中の風紀委員

土曜日の朝、意図的な体外離脱に初めて成功しました。

「汽車はふたたび故郷へ」オタール・イオセリアーニ
イオセリアーニ本人を思わせる若き映画監督が、「共産主義政府の検閲」から逃れるためにグルジアからフランスに亡命。そしてフランスで受けた「資本主義制作者の介入」。どっちもどっちじゃね? っていう話をナイーブな若き芸術家視点で描いている。実際のイオセリアーニはこうした軋轢を乗り越えてきたからこそ今でも映画を撮り続けているわけで、この若き芸術家のナイーブさはイオセリアーニが自身に許さなかったものだろう。だからこのナイーブさを描いた本作を評して甘いというのは的を射ていると同時に的外れでもあると思う。

象徴的だなぁと思うのは、グルジアの役人たちはみな彼の映画を愛しているのに「お上がこの作品の上映を許さないだろう」という理由で上映を禁止してしまう。一方、フランスのプロデューサーたちは監督の才能に惚れ込んだと言って出資しながら、彼から制作の主導権を奪うことに躍起になっている。「役人」と「プロデューサー」ではどちらが敏感か、もっと言えば観客の心に突き刺さるものを心得ているか、で言えば圧倒的に「役人」の方なわけだ。「けしからん」というリアクションはさておき、役人の方が正しく感応できていると思うのだ。

これを実際に痛感したのは、あのフランスでさえルノワールの「ゲームの規則」を風俗紊乱の廉で上映禁止にしたという感性の正しさだ。「これを多くの者の目に触れさせてしまってはならない」というのはおそらく「良識ある人々」にとっては誤りのない判断だろう。この「正しい感応」こそが本来プロデューサーやマーケッターに求められる資質ではないのか。本来それはコンテンツとしての出来不出来とも多くの場合マージするからだ。(ただのけしからん映画というのももちろんあると思いますがw)

一方で端から「売れる/売れない」だけを基準に考えているプロデューサーは自分の心のざわめきに対して不誠実になってしまうんじゃないでしょうか。彼が出資したのは例えば「旧ソ連から亡命してきた若き芸術家」というラベルに対してであって、決して映画監督の作家性や才能に対してではなかった。ひょっとしたら「けしからん!」と一刀両断したお役人こそがもっともよき芸術の理解者なんじゃないかしら。というわけで、共産主義国の風紀委員長みたいな人にプロデューサーをやらせたら面白いものができるんじゃないでしょうかね。

「観客が気に入るかどうかなんて関係ない。観客が何かを感じるかどうかが大事なんだ。観客に少しでも何かを感じさせたら、うまくいったなって思うね」ジョン・カサヴェテス


「果てなき路」モンテ・ヘルマン
上からの流れでヘルマンは内なる風紀委員を宿したある種の強さを持った監督だと思います。本作では、劇中劇、劇中劇の撮影風景、劇中劇の元になった実話、さらにこの映画の撮影風景という4つのレイヤーが境界線をときに曖昧にしながら進んでいく。と書きながら、曖昧なのをいいことにどの描写がどのレイヤーに属していたのかを曖昧にしか分かってなかったんじゃないかって疑心暗鬼になってしまうのもこの映画の面白さといっていいんでしょうか。

フレームのちょっと外にはマイクがあったり、カメラのこちら側には大勢のスタッフがいたりと当たり前のことですが、普段は私たちが「なかったことにしているそれら」をフレームに収めることで自らの虚構性を告発すると言ったら大袈裟ですが、「君たちは出来合いのものを見てるんだよ」っていうことを突きつけてくるわけです。

特に面白かったのは、映画を作る=虚構を語るということの2つのレイヤーの主は「映画を作る」という行為の方だと私たちは普段思い込んでいるわけです。虚構を作る現実があるのだ、と。しかし、実際には撮影という行為は実にインタラクティブなんですね。演出家と演者、カメラと被写体、それらは創造者と被創造物という関係ではないわけです。文句を言ったり、刃向かったり、想像以上のパフォーマンスを見せてくれたりするわけです。つまり、虚構という現実があって、虚構が自身に働きかけてその質を変化させている。そういうことに素朴に感心してしまいました。

いずれにしても、すでに仕上がっている映画を見るという予定調和でしかない行為を肯定してくれる者があるとすればこの虚構の虚構に対する働きかけなのかなという気がします。

2012年2月24日金曜日

Life is money

「TIME」アンドリュー・ニコル
まず、平日なのに満席だということに驚く。客層はほとんどが若いカップル。「たまにしか映画を見ない人たちがたまに見る1本として選ぶ映画」の基準が最近ますますわからなくなってきた。間違いなく面白そうなの見ようと思ったら普通見ないでしょ、「TIME」とか「三丁目の夕日」とかw 嗅覚以前にモチベーションが違うんだろうね。閑話休題。

「ガタカ」の監督ってことで少しは期待してたんだけど、「余命=通貨であるような世界」がなんら哲学的な命題を含意せずに見事に表層だけを滑っていく様はまさに「滑り芸」と評したいほどの完成度で、それはそれですごいと思うんだけやっぱりつまらない。ルール自体は明快でもそれを掘り下げていくとプリンシプルが歪むような生と密着したルール運用にハッとさせられるっていうことは、政治でもスポーツでも芸術でもあると思う。その掘り下げを忌避したことによって、この映画が何を獲得したか。作家性? ポピュラリティー?

否、何もない。「近未来のボニーとクライド」に徹するならその意匠のみで勝負すればよかった。けっして軽くはないテーマの掘り下げられることのなかった「暗部」は、この映画が必死にPOPに浮かび上がろうとしているのを「呪い」として阻止している。なぜそれを語らないのか、と。個人的には、貨幣を文字通り命に見立てるという試みによって、新たな地平を切り開いてほしかった。というか、それ以外に何も期待してなかったんだけど。面白くなるチャンスを幾度となく放棄していたので「退屈だった」以上の大きな虚無感に襲われましたね。

2012年2月22日水曜日

または子供十字軍

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」スティーブン・ダルドリー
東京大空襲と並び称されるほどの連合国側の暴挙として名高いドレスデン爆撃の不発弾が原因で声を失ったユダヤ系と思しき祖父(マックス・フォン・シドー)に、911で父親(トム・ハンクス)を失った息子(トマス・ホーン)が誰にも打ち明けることのできなかった思いの丈をぶつけるというにわかには図式的に理解しがたい複層的な事態に私たちは直面させられることになる。

私たちが直面しているのは父を失った一人の少年の喪失感とそれを埋めようとする激情だけではない。失われた声、失われた命、少なくとも六十余年という年月をかけて堆積した怒りや悲しみ、やるせなさを、少年の独白に耳を傾け無言でたたずむ老人の姿から想起することになる。六十余年の地層の上に新たに降り積もったものは歴史の厚みの前では粉砂糖程度のものかもしれない。しかし、粉砂糖が着地することによってその存在が明らかになった地層を前に、私たちはとりあえず涙という形でその厚みを受け止めるほかない。

2012年2月20日月曜日

オレもウツになりまして

「メランコリア」ラース・フォン・トリアー
映画と関係あるのかないのか微妙なところなんですが、見ている間中気持ち悪くって正確に2度ほどこみ上げる嘔吐感に席を立とうかと思ったくらい調子が悪かったんですが、そのわりには集中して最初から最後まで見ました。オープニングで荘厳なクラシックをBGMに超高速度カメラで撮った超現実的なスローモーションの「詩的映像」を流すっていう手法は「アンチクライスト」でも見ましたけど、何度もやるほど気に入ってるんですかね。わりと一発ネタっぽい手法かなと思ってたもので。しかも今回は序章じゃなくてダイジェスト版みたいな感じでしたね。初めにあらすじを教えてやるっていうオペラ的な手法なのかな。

僕はこの映画すごく楽しみにしてたんですよ。それはすごい幼稚と言えば幼稚だろうけど、空を見たこともない巨大惑星が埋め尽くすっていう絵がもうファンタジーでしょ。それが見たくてね。でも実際は空を見上げる人たちはたくさん映るんだけど、予算の関係なのか何なのか、空はあんまり映さないんですよね。虫とか馬とか電信柱とかちょっとした変化は描いているものの、重力とか大気とか普通に考えて「ザ・コア」的な天変地異が起きるだろうと。SFじゃないからってそういうのを割り切ってるところがやっぱりこの人映画好きじゃないんだなぁって思えてしまう。

繊細で気が弱くて感受性が強すぎる女の人ってこれまでもトリアーがたくさん描いてきた人物像だと思いますが、みんな判で押したように似たような演技をするのは演出力といっていいんでしょうか。あの口半開きで対象物を目で追う演技とかもはや「型」といってもいいくらい完成されていると思います。エミリー・ワトソン、ニコール・キッドマン、ビョーク、シャルロット・ゲンズブール、そして今回のキルステン・ダンストと、誰がやっても同じ表情、同じ演技するんだよなぁ。笑いながら見てるけど、本来はそういうのは退屈だと思っています。普通の芝居してるシャーロット・ランプリングの方が全然面白い。

壮大なセルフセラピー=オナニーという言葉は決してそのまま批判にはなり得ないと思うんですが、肝である壮大さが欠けていたらそれはどうなんでしょうね。キーファー・サザーランドが地球の危機を救うために奔走するハリウッドリメイク(笑)の方が素直に面白そうと思ってしまえる、そんな映画でした。


「ニーチェの馬」タル・ヴェーラ
僕はこの人、見たことなかったんです。「辺境のお芸術作家」というタルコフスキー的なイメージでね。やっぱり偏見はよくありませんね。

奇しくも「メランコリア」と2日続けて「世界の終わり」を描いた映画を見るハメになってしまいました。トリノ郊外で一匹の馬(通りでひどく叩かれているのを見たニーチェが死ぬ2日前にその首に泣いてすがったという馬車馬)と暮らす父と娘。吹きすさぶ風は止むことなく、2人の単調な生活を徐々に侵害していく。水は涸れ、火は燃え尽き、光も閉ざされていく。逆創世記といった趣。

冒頭の馬車が走ってるシーンから、本当にアホみたいな長回しばかりで、カメラがもうにっちもさっちもいかなくなるところまでカットが続く。だからここでカットは終わるしかないという絵で終わるから非常に分かりやすいと言えば分かりやすい。息が詰まるようなと書きたいところなんだけど、実際には美しい照明、考え抜かれたカメラワーク、テンポのよい演出、ほしい所で鳴るBGMなどによって高度に洗練された「商業映画」的なストレスのない画面運びになっているため、ぱっと見ほどの重苦しさはない(それでも観客の多くはぱっと見の重苦しさの方を優先させてしまうでしょうね)。

「メランコリア」がパライノイアックな「私の世界の終わり」だったとすれば、こちらは広がりを感じさせる世界の終わりを描けていると感じました。惑星の衝突という「大事」に対して、荒野の一軒家の中だけで描かれる終末がなぜ普遍的たり得るのか。それはおそらく遠景を排除された極私的な近景が逆説的に普遍性を獲得しているからでしょう。巨大惑星メランコリアが浮かぶ空をどれだけ多くの者が共有したとしても、それはどこか非現実的で曖昧な不安や恐怖の一表象という側面を持ってしまう。石造りの一軒家、父と娘が向かい合う食卓。一切の虚飾を排したストイックな光と影が「世界」を表象してしまうというのはこの映画のというよりも、映画というメディアのポテンシャルを引き出してくれたという気がしましたね。

ラスト、火も水もないのに食卓に上がったジャガイモを食べようとする親子を訝しく思いながら見ていましたが、あの「シャク」という咀嚼音ですべてを許しましたw

2012年2月17日金曜日

抑圧の心は父心


先日ちょっと書いたけど、僕が黒沢清の「六甲」という8ミリフィルムを見ていないことに不信と軽蔑を隠さなかった先輩は、決して「比較優位(お前が見ていないものを俺は見ている)」をつくり出すために未見であることを批判したわけじゃなく、ただ教育者として正しく振る舞っただけだったのだと思う。まあ結果として「比較優位(および劣位)」は醸成されてしまうのだけれどもw。

2012年2月16日木曜日

複製技術時代の芸術家

複製された芸術にはアウラは宿らない。

はたして本当だろうか。マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンが短命だったことと彼らの複製された声が世界中で再生され続けていたことが無関係だったとは私には到底思えない。

レコードであれば「消耗」は「針と溝」によって担われていたわけだが、CDやデジタルデータにおいては「消耗」の担い手はそこにはいない。幾ばくかの金銭と引き換えに「消耗=消費」の権利を得た者はレコードの溝の代わりに何を磨り減らしたのか。消費の権利は芸術家にとって呪いとして機能しなかっただろうか。大瀧詠一が訴える「すべての作品は未公開かPD(パブリックドメイン)にした方がいい」という主張は真のソリューションたり得るのかもしれない。

2012年2月14日火曜日

運動から遠く離れて

「メランコリア」の予告編でキルステン・ダンストの指先から青いオーラみたいのが出てるの見ただけで泣いちゃうアラフォー男子がお届けする映画3本分の何か。

「パーフェクト・センス」デビッド・マッケンジー
ユアン・マクレガーとエヴァ・グリーンなんだからそりゃ見に行くでしょ。ロンドンを舞台に、五感が徐々に奪われていくという奇病に世界中の人々が冒されていく様を描いたSFラブストーリー。深い悲しみと嗅覚の喪失、暴力的な飢餓感と味覚の喪失、激しい怒りと聴覚の喪失、多幸感と視覚の喪失。五感の喪失の前兆として描かれる病的な感情や欲求の描写が面白い。2人は多数の先行事例を前に、常に「自分の番」を待っている。そんな中で、感覚を喪失しながらも生きることにどれだけ前向きでいられるかという挑戦を描くことに主眼をおいているため、サスペンス、SF要素はやや希薄だ。(その辺でもっと面白くなるのにという不満もあるが)

「感覚を失っても愛し合うことは可能か」というのがこの映画の問いかけだ。嗅覚、聴覚、味覚を失い、さらに視覚を失う瞬間、最後に目にしたものが愛する人であれば、そこに行って触れることができる。だが触覚さえも失ってしまったらどうだろう。映画はその先を描いていない。しかし、誰もが想像してみることだろう。五感を失ってなお、人は決して無ではない世界とどのように対峙することができるのか。その恐怖、あるいは喜びをこの映画は描いていない。いや、映画には描けないのだ。それを想起させただけでもこの映画には意味があった。


「帽子箱を持った少女」ボリス・バルネット
運動そのものの持つ魅力を最大限に表現できた映画のひとつなんじゃないだろうか。冒頭で、駅と少女の家を結ぶ、あの雪の丘陵に渡された木の歩動を滑り落ちるようにして走ってくる鉄道員をロングショットで収めた絵がなぜあれほど感動的なのか。それが紛れもない映画だからだというトートロジックな説明しかできない。何でもそうだと思うけど、本当に素晴らしいものって言い換えが不可能なものだよね。


「ドラゴン・タトゥーの女」デビッド・フィンチャー(ネタバレっぽいこと書きます)
フィンチャーだからね、構図とかカットのつなぎとかそういうモノが一切のストレスなく見れるので、複雑なプロットを説明的にならずに、シャレ乙にw演出できる強さがありましたね。ディテールもよくできてて、あのヘーデスタの洋館と離れの仮住まいとか、あの一帯の雰囲気がめちゃくちゃいいですね。ストックホルム、ヘーデスタ、ロンドンっていう3つの都市(どこも寒そうだが)がちゃんと絵として描き分けられているのもよかった。でも、何よりも心打たれたのは変態サイコパスの台詞でした。

「なぜ危機を察知したのにお前は逃げなかった? 俺の機嫌を損ねるのが怖かったからだろう」

これには本当にズシーンと来ましたね。常に誰かの機嫌を気にしながら生きている僕のような小さな人間にはこれ以上ないくらいの衝撃だったんじゃないでしょうか。これには「他人の機嫌を損ねても大したことはない」という経験を繰り返し積み重ねるしかないんですね。僕も若い頃に比べれば随分気にしなくなった方です。僕が誰かの機嫌をとらなかったり、あるいは意図的に害することでことで気分を悪くしたり、傷ついたりしている人はいるかもしれない。でもその人たちも「僕と同じように大丈夫」だろうと思えるようになったんですね。信頼と言えば聞こえはいいですが、まあそういう事です。

映画と一見関係ない話になっちゃいましたが、リスベットというニュータイプのヒロインが受け入れられるのも、他人の機嫌を気にしてばっかりの人が多いからだという気がしますね。

2012年2月9日木曜日

祝福としての抑圧


内田樹の「呪いの時代」の冒頭で語られている「自分が知っている事柄を過大評価して自分が知らない事柄を過小評価する性向」がいかに反知性的な態度かということよく理解できるし、自分の知に対しての客観性を持つことが知のスタートだという指摘も至極もっともだと思う。また、そうした客観性の欠如こそが現代の病理だというのも実感としてよく分かる。

だからこそ、「お前はこんなことも知らないのか」というツッコミは、それがいかに発話者の反知性的な態度の発露であっても、相手にとっては「己が何を知らないのか」を知る好機になるのではないか。これは別に謙虚さを称揚したいわけじゃなくて、下品なツッコミに対してもシャッターを降ろさなければ知性を磨くチャンスはあるっていう貪欲さの奨励だと思っていただきたい。

「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」は最初は与えられた外圧として、次に内圧として、最後に与える外圧として機能する。そうした面倒くさい抑圧から無縁でいられれば一番よいのだが、どうもこの抑圧には負の側面ばかりではないのではないかと最近思い始めている。というのも、こうした抑圧のタガが機能していないところでの言論表現はあまりにも稚拙だからだ。

ぼくが敬愛するある映画作家が高校時代に撮った8ミリフィルムを見たことがないということを抑圧してくれた「先輩」にはすごい感謝している。半ば冗談ではあったけど(ということは半ば本気で)「あれを見ないで『好き』とか言ってるんだ。ふーん」みたいな感じで。

ある映画(に限らずなんでもいいんだけど)を見たことがあるかないかということとその人の知性との相関関係は一見ないように思えるが、その人の知性のあり方を揺るがすような映画というのは間違いなくあって、そうした経験を経ているかどうか、ということはその人の思考や言語運用に致命的な影響を与えうる。

それを経験的に知っている人は、自身の快楽のための「断言」はしても、決して「現時点での結論」など過大評価しないし、自己肯定のために自分が持った考えや自分の発した言葉の奴隷になるようなことはない。

あらゆる事物は「まだ経験されていない」限りにおいて開かれているが、既知の烙印を押され、もう経験の必要がないと判断された時点でそこから広がるかもしれなかった無限の可能性を閉ざしてしまう。

2012年2月7日火曜日

帰れソ連邦へ

見た順で。旧ソ連の監督シリーズということで。

■「騎手物語」ボリス・バルネット
「ジアードゥシュカ!」あの目が離れていて肩幅が広くて屈託の無い笑顔の女の子が何度も口にするロシア語で「おじいちゃん」を意味するこの語が耳を離れない。最初に少女が登場するあのバンジージャンプと電報の到着のほとんど荒唐無稽といっていい生の肯定感。「ピクニック」のブランコのシーンとか「新学期操行ゼロ」の枕投げのシーンとか、こんなんばっかり集めて「ニューシネマパラダイス」みたいに見ていたい。というのは退廃的すぎるんだろうか。

老騎手の捲土重来というストーリーには何の意外性もないんだけど、田舎に帰った老騎手が速い馬を見つけるくだり、車の運転が覚えられない女医さんからエゴールカを守るためのトリックとそのギミックに気づいていない老騎手が怒るところ、結局は女医がエゴールカを返しに来るっていう一連のお約束的な流れがなぜこうもいきいきと描けるのか。競馬場意外はほとんどのシーンが田舎のロケだと思うんだけど、このロケーション撮影の素晴らしさは特筆モノだと思う。

撮影に関して言えばやはり走る馬を撮ることに対する大胆なチャレンジは見ものだった。牽引でタイヤの後が残ることや車上の撮影スタッフの影の写り込みなどお構いなしに、迫力優先でレースを撮ったのは英断だったと思う。繋綱馬車というらしいが、あのジョセフ・ジョースターとワムウの対戦を彷彿とさせる騎手が乗った車を引かせるタイプのレースというのがまた緊迫感があってよかった。

競馬場でいつもスって帰るおじさん2人組、レストランの店員、太った女医さん、床屋のおじさんなどなど脇役の繰り返されるギャグがいちいち面白い。引退した老騎手が意地を見せて復帰するんじゃなくて、若い奴に継承するっていうのも(共産主義的になのかどうかは別として)素晴らしい。


■「蝶採り」オタール・イオセリアーニ
朝寝していた男の部屋に朝日が差し込むとテーブルの上に乱雑に放置されたままの食器や食べ残しがセザンヌの静物画のように映し出される。その奥に薄汚れた下着姿の男がゆっくりと起き上がり、流し口で吐瀉し、上着を羽織るとその黒い法衣で男が神父であったということが示唆される。男はゆっくりと、テーブルの上のグラスのひとつを取り上げ、グラスの底に残ったワインを床に捨て、新たなワインをビンから注いで飲み干し、重い足取りで出口の戸を開けて外へ出て朝の礼拝へと向かう。ここまでワンカット。

特にフランスに移ってからのイオセリアーニを見ると、本当の贅沢っていうのはこういうことを言うんだよなぁっていつも思う。森茉莉みたいな、というかビジュアル的には藤子ヘミングみたいな元貴族のばあさんが2人古城に住んでて、教会でオルガン弾いたり、地元のブラスバンドでトロンボーン吹いたり、庭で銃打ったり、池の鯉を弓矢で釣ったり、古いアンティーク家具を売ったりと、それはまあ自由に暮らしてるんだけど、その自由なさまが本当に板に付いていて、脱サラした人とか都会から田舎に居を移した人とかとは桁違いの、筋金入りの、ちょっとやそっとじゃ真似できないレベルの圧倒的な自由さを感じるわけだ。「没落」の悲壮感なんて微塵も感じさせない。というかそんなものは「こちら側」が勝手な想像の産物でしかなかったのだろう。私だけが栄華の中にいて何が悪い、とでもいわんばかりのその態度には清々しさが漂っている。

こういう亡霊のような貴族的な振る舞いっていうのは、その現前でぼくらの現実を圧倒してくれる。とにかく粋で洒脱で洗練されてて、無粋や野暮を徹底的に排除する気高さを矜持とすることで細々としかし連綿と続いてきた文化、というよりもスピリット。ぼくらはそれを文化遺産のような形でしか愛することができなくなってしまったのだ。

罵倒も侮辱も軽蔑も、その底流に滔滔とたたえられた愛があれば諧謔でしかない。映画ってまさにそういうスピリットを表現するためのメディアなんじゃないかっていうのは言い過ぎかもしれないけど、ぼくが心底好きな映画っていうのはこういう映画です。


■「歌うツグミがおりました」オタール・イオセリアーニ
なんだろう。もうまんまヌーベルバーグって感じの画面。グルジアの首都トビリシを舞台に、ほとんど多動性障害の女好きのティンパニ奏者の日常を追った作品。もろ「アデュー・フィリピーヌ」の前半みたいな感じなんだけど、「アデュー」が1962年だから、1970年のこの映画が直接的な影響下にあったってことは考え得るわけですね。ヌーベルバーグには「都市で映画をとること」という強い側面があったんだなと再確認した次第です。


■「四月」オタール・イオセリアーニ
トーキー初期の実験的要素に満ちた映画なんだけど、草原に自生していた一本の樹が、タンスになりテーブルになり棚になりベッドになり、つまり「物質」文明に取って代わっていく様を、団地の一室に住まうことになった一組のカップルを通して批判的に描いてる作品という一面が興味深いですね。カップルの追いかけっこを通して描いた立体的造形物として魅力的な下町とフラットでスクエアな団地の退屈さとの対比。62年でにこの境地に達してたっていうのは結構すごいんじゃないかな。


■「ここに幸あり」オタール・イオセリアーニ
免職になった大臣がパリの地元で古くからの友人たちと飲んだり食ったり歌ったりしているだけといえばだけなんだけど面白いんだよなぁ。なぜかミシェル・ピコリが主人公のお母さん役やってて「そんなにでかいババアがいるか」(北斗の拳より)という感じなんだけど、そのすっとぼけ具合と妙なはまり具合が絶妙で納得してしまう。イオセリアーニの描く家族って、もちろん仲はいいし、甘えるところは甘えるんだけど、どこかお互いに敬意のようなものが根本にあって、それがすごく風通しがいい。デプレシャンの正反対っていうかね。まあみんな大人ってことなんだろうと思う。女たちが一堂に会するトリュフォー的なラストも暗さはちっともなくて、ただあったかい人たちが集まってるって感じがすごくいい。


■「レスラーと道化師」ボリス・バルネット
これも以前見ていて2回目のはずなんだけど、カラーだったとは驚いた。随分褪色して赤くなってるから、これデジタル修復とかしてくれたらうれしいなあ。話は結構ヘビーで、レスラーの恋人になったブランコ乗りのミミが駆け落ちした座長の娘の代役でぶっつけで危険な演技に挑戦させられて命を落としてしまう。レスラーはそのトラウマを抱えながら生きていくんですね。一方の道化師は役人批判とかしちゃうような反骨精神あふれる義士で、あんまり本筋には絡んでこないんだけど、なんとなくレスラーの影となり日向となり、その成功をサポートする。

絵を見ていて分かったのはバルネットは西部劇がやりたかったんだってこと。影がある強くて優しい男とそれに思いを寄せる田舎娘っていう構図もそうだし、何よりレスラーが帰郷したときの宴会の様子とスカーフをかぶったマレンカの衣装がまさに西部劇インスパイアでした。50年代のロシアでホークスやフォードに熱狂していたであろうバルネットを思い浮かべるとまさに胸熱ですね。

「騎手物語」でも思ったけど、モスクワ生まれのバルネットは都市の雑踏と自然豊かな地方の描き分けがすごくうまい。どちらもすごい魅力的に撮るんですね。また「騎手物語」でもそうでしたが、コメディリリーフみたいのがメチャクチャ面白い。しつこいくらい出てくるんだけど、出てくる度に笑いが大きくなるっていうのはすごいうまうよなって感心する。

ちなみにレスラーが組みにくいように体にオイルを塗るっていう違反行為は結構歴史があるんですね。あのシーンで桜庭の「すっごい滑るよ」を思い出した人は結構いたんじゃないでしょうか。脈絡なく思いだしたこと書きますけど、自分をひどい目に遭わせた興行主を出し抜いて懲らしめるっていうのはリアルスティールでもほとんどいただきみたいなくだりがありましたね。


■「ビーストリー」ダニエル・バーンズ
「人は見た目が10割」と公言して憚らないブロンドイケメン高校生のカイルが魔女とあだ名されるオルセン姉妹をからかって1年以内に誰かに心から愛されないと元に戻らないという呪いをかけられて醜悪な容貌に変えられてしまう。街の外れのアパートで黒人の家政婦と盲目の家庭教師と……ってあらすじ説明しても意味ないからやめるわ。

こういうのをつくるのは大体ハイスクール時代に虐げられてたギークやナードじゃないとダメなんだけど、その辺のルサンチマンが圧倒的に足りない。少なくとも現場の半分以上はそういう人たちという状況で作り直したらもうちょっと面白くなるんじゃないですかね。まあそれでも見には行かないけどね。

本気で「人は見た目じゃない」を言いたいんだったら、ブス2人でつくらなきゃウソだよ。お姫様は醜い男に真の優しさを見出したかもしれないけど、王子様はお姫様の容貌に惹かれてるんだから。俺だったら、呪いをかけたオルセン姉妹(容姿端麗な主人公に惹かれていないブスという設定)が「私を本気にさせてみなさい。できたら元通りにしてあげる」っていうアレンジで、ラストは心も醜いオルセン姉妹が捨てられるっていうひどい話にするけどね。

2012年2月6日月曜日

モンパルナスとルヴァロワ

もしある人がその人の人生を揺るがすような「作品」に出会う機会を逸していたとしたら、それは単にその人のセンスなり嗅覚なり運なりが足りなかったってことだと思うんです。宛先がちゃんと書いてある手紙は必ずその人のところに届く。手紙が来なかったっていうことはその人の宛先は書いてなかったっていうだけのこと。

これは単なる運命論ではなく「消費」に関する命題でもあります。「作品」をそのまま「商品」と言い換えれば、本当に自分が必要なものを知っている消費者のところには必ずその商品は届く。すべての消費者はその覚悟を前提としているべきだし、作り手も売り手もその消費者の覚悟を信用すべきだと思いますね。

戦友的な?

最近バルネットとイオセリアーニでユーロスペースに足繁く通ってるんだけど、たまにそういう特集上映系に行くと知り合いではないんだけど10年以上前から何度も見たことある人というのが何人かいて、映画見始めて20年近くになりますが、内心(何だお前まだ映画見てんのか?)的な一方的な旧交の温め方をしてひとりほっこりするわけです。

映画祭とかフィルムセンターとかからは随分足が遠のいてしまったけど、東京の映画館で見かけなくなっちゃった人も大阪やパリやニューヨークやロサンゼルスで見続けてるのかもしれないなあなんて思ったりして。

2012年1月30日月曜日

そうさぼくらはエイリアンズ

「宇宙人ポール」 グレッグ・モットーラ
イギリスからUFOスポット巡りのためにアメリカに旅行に来たSFオタクのボンクラ2人組が、軍の施設から逃げ出してきたグレイタイプの宇宙人が母星に帰るのを助けるというシンプルなストーリーにして、コメディーであり、ロードムービーであり、ラブストーリーであり、SFであり、成長譚であり、どれもちゃんとジャンルのオーソドックスを踏み外さないで見せてくれる本当に良質なエンターテインメントですね。何度か声出して爆笑したし、最後はボロ泣きでした。

ディテールに言及している人はたくさんいるだろうから他に譲りますが、フレンドリーな異星人っていうのは(代表作として「E.T.」がありますが)敵対的な異星人に比べて圧倒的に少ないんですね。これは単に「ロサンゼルス最終決戦」みたいな国威発揚映画の方が(アメリカが)盛り上がるからというのがぼくの推測です。だからというのもあるのかもしれませんが、打率でいうと「フレンドリーな異星人」ものの方が面白いものが多いと思うんですね(もちろん「スペース・バンパイア」とか「宇宙戦争」とか敵対的な異星人ものの傑作もいくらでもありますよ)。これって何でかなって考えてみたんです。

おそらく異星人を「敵」と設定した時点でコミュニケーションの可能性が閉じられてしまうんですね。一方で、敵対が前提でないというだけで異星人という恐ろしく自己とはかけ離れた他者との間にコミュニケーションの可能性が一気に開く。前者が同胞(軍隊、家族、国民)とのホモソーシャルな絆を深めるというドラマにしか発展しないのに対して、後者は常識の枠を壊すことによってしかコミュニケーションが成立しない。つまり、何が起こるかわからないわけです。どちらが映画として面白くなりうるかと考えたら、それはもう圧倒的に後者になるはずなんですね。後は作り手次第。(「地球が静止した日」なんていう異星人目線の映画もありましたね。あれも面白かったですが)

要は、敵対というアティチュードが相手とのコミュニケーションの可能性を閉ざしてしまうということだと思うんです。やらないとやられる。俺は家族を守る。国民を守る。まあ間違いではないし、有無をいわさず攻めてきたらそうなってしまうのも致し方ないんですが、理想論を言えば、そうなる前にあちら/こちらという線引きを無効化するようなコミュニケーションを試みましょうよってことですね。そのためには知性とユーモアが必要なんだよ、というのがこの映画の謂だったように思います。

あと余談ですが、この映画のイギリス男2人と異星人っていう構図はイギリス女2人と移民男(エイリアン)っていう「J・エドガー」の逆ですね。主人公2人に「何だお前らホモか?」とけんか売ってくる2人組の男たち(いかにも中西部的なタフガイ)の方がよっぽどホモっぽく見えるというシーンがありましたが、閉鎖的な同質性よりはヘテロセクシュアル(異性愛=異星愛?w)の方が本当の意味でセクシャリティーとしてはゲイ(喜ばしき性)なんじゃないかなぁと思いましたね。


「青い青い海」 ボリス・バルネット
いわゆる「ルビッチ状態」(男2人に女1人)が「宇宙人ポール」から続きました。カスピ海南岸のコルホーズを舞台にしたルノワールの「ピクニック」を思わせる恋の鞘当て的なお話ですが、牧歌的度合いにおいてはこちらの方が優っていますね。

冒頭、主人公たちが漂着した島の浜辺で、潮干狩りか何かをしている女たちがなぜかがかがんで身を低くしている。次のカットで猟銃を持った男が鳥を狙っているんだけど、全然当たらない。この男の銃の腕前が信用ならないために、銃声がするとみんな習慣として隠れていたという、これ以降のストーリーと何の関連もない牧歌的なエピソードが、場違いなくらい鮮やかに自由に突出していて、映画ってこれのことだったんじゃなかったっけという思いが頭をもたげる。

メインのお話はヌーベルバーグ的といっていい1人の女を巡る2人の男の葛藤。そりゃもちろん面白いんだけど、それに通底している天真爛漫な「人間愛」としか言い様のないものがどのシーン、どのカットの、どの齣の、どの部分を見ていてもフィルムに浸透しているようで、それを客観的にしか感じることができない自分をどこか恨めしく感じてしまう。何で自分はこういう風に自由じゃないんだろう、何で自分はスクリーンのあちら側にいないんだろう、と。共産主義政権下のソ連の方が今の日本よりも全然風通しよくて楽しそうじゃん。

これって北朝鮮のプロパガンダ映画にやられちゃった人と同じなの?w

2012年1月29日日曜日

あるいは「THE END OF AMERICA」


イーストウッドという人はこれまでも様々な形でアメリカという国の病理を告発してきた。ときに冗談めかし(「ブロンコ・ビリー」「スペース・カウボーイ」)、ときに深刻な面持ちで(「ミスティック・リバー」「グラン・トリノ」)。そしてついに、事ここに至って彼はついにアメリカという国を「総括」してしまった。「ヒアアフター」の日本公開から2週間後にあの地震が起きたことを考えれば、この公開時期は恐ろしいほど時宜に適っているというほかない。

民主主義国家の一政府機関の首長が専制国家の君主のように48年もの任期を務めた(ムバラクよりもカダフィよりも金日成よりも長い!)というだけでもその事態の異常さが透けて見えるだろう。この映画はFBI長官のJ.E.フーバーがその人生の終幕にさしかかり、おのが虚飾に満ちた人生の最後の包装紙としての「自伝」を綴るという形で描かれる。

母に英国女王たるジュディ・デンチ、そしてその息子に移民の子レオナルド・ディカプリオを配役することで、イーストウッドがフーバーその人にアメリカを体現させていることは言うまでもないだろう。

いわゆるオカマが女性よりも女性らしいと言われるように、演じられた者は常に過剰さを身にまとう。フーバーがその母によって演じることを強いられた「強い男」の過剰さ(らしさ)は虚勢、排他性、攻撃性、性倒錯としてドラマチックに表現され続けた。そして、その過剰さにイーストウッドはアメリカの似姿を見出したのだ。「我々はかくも狂気に満ちていた」と。

母と妻(ジュディ・デンチ、ナオミ・ワッツともに英国人)という二人の女性によって拒絶され去勢されつつ、なおもマチスムを強要されるというアンビバレンツを生きなければならなかったという不幸こそがアメリカだった。「繊細な野暮ったさ」を身にまとったフーバーを陰とすれば、アメリカの陽の部分をいかにも西海岸的な「野蛮な洗練」を身にまとったアーミー・ハマーが演じているという点も興味深い。

「アメリカ映画」においてこれだけの辛辣さが許されるのは、アメリカ人の鈍感さの上に胡坐をかいているというだけではなく、この映画が大上段に国家や政治を語ることを周到に避けていたからだと思う。あくまでジョン・エドガー・フーバーその人のテリトリーからこの映画は一歩も外に出なかった。キューバ危機はおろか、第二次大戦すらまったく触れられることなく半世紀を生きたアメリカの政府機関の長の人生を語るという離れ業をこの映画は素知らぬ顔でやってのけた。だがそれはこの映画の倫理である以上に、フーバー=アメリカの相似形をより際だたせるための手法として見事に機能した。

加えて、この映画のあからさまに失敗している特殊メイクと照明は、フーバーという男がまとってしまった「不自然さ」を強調するという役目を図らずも担うことで、この映画の完成度を高めることに貢献していたともいえる。

ともあれ、イーストウッドがこんな映画を撮ってしまった以上、もうアメリカは終わるしかない。

2012年1月28日土曜日

なぜサイレントは3Dよりもつまらないか?

なぜかくもサイレント映画にアクセスする機会が奪われているのかと考えるが、それはあまり意味のある考察にはなりそうにない。ただ単にそれは私たちが3Dの方がサイレントよりも面白いと感じているからだ。言い換えれば情報の「量」だけを志向しているからだ。

だが、ひとつ注目したいのは提示されている情報「量」と私たちが享受できる情報「量」の間に相関関係はないということだ。チャーハン特盛りを頼んでも一口しか食べないで残してしまえば、半チャーハンを完食した人よりもいただいた「量」は少ない。それは畢竟、食べ手の食欲や胃袋の大きさの問題になってしまうのだ。それをリテラシーとパラフレーズしてもあながち間違いではないだろう。

ぼくは「量」を志向する性向は別に悪くないんじゃないかと思っている。ぼく自身も「量」に対して貪欲なところがある。ただそれは目の前に出された料理の量じゃなくて、自分がおいしくいただける最大「量」のことだ。

「できるだけたくさん、おいしく食べたい」と言うとき、たくさんは絶対量ではなく、あくまでその人個人の受容可能量に依存する。そして、おいしく食べたいと考えたときに初めて「質」(これも個人の嗜好に依存する)への要求が生まれる。本来ならそこがスタートラインになるんじゃないのかね。

生まれてから一度も豚肉を口にしたことがないというイスラム教徒が、あるレストランで「何だ!この料理には豚肉が入ってるじゃないか!」と怒るというジョークがあるけど、まあ食ったことがないものは食ってみるのが面白いんじゃないかということで。

2012年1月27日金曜日

いい人であるということ

「国境の町」 ボリス・バルネット
戦地の最前線で塹壕から出てきた兵士たちが敵国の兵士たちと互いに手を取り抱き合うという夢想的なシーンのナイーブさと、バルネットのソ連邦における自死とが直截的に結びつきすぎてツラい。かくも自由で優しく繊細な感性には、この世界はさぞ生きにくかっただろうということが容易に想像できてしまうのだ。そこで描かれている友愛の精神が力強く無垢であればあるほど、それは友愛の精神に満ちていない現実を生きる私たちにとって残酷さを増して見える。

たとえば「アタラント号」のバケツのシーン。全然悲しいところじゃないんだけど、あの見るに堪えない純粋さが、「それを描いてしまった者」に対する共感や畏怖としてスクリーンの外側に立ち現れてくる。無視しがたい「メタ」が表出してしまうのだ。そして、事後的にだがその純粋さはそれを描いた者の夭折や自死とこれ以上ないくらいの説得力を持って結びつき、私たちの心に沈潜する。そんなとき私たちは「ああ、やっぱり」とうなだれるほかない。

おそらくこれはエンターテインメントとしては完全に失敗だ。そこで描かれている世界に私たちが没頭できないという意味において。しかし、エンターテインメントにおいて観客の没頭が消費と同義であるなら、この没頭とは別種の経験こそが映画なのかもしれない。

2012年1月24日火曜日

効率という病

大学生の頃、中野の公園でフリスビーのフォアハンドスローを成城大学アルティメット部の部員に習ったことを思い出した。2人でキャッチボールならぬキャッチディスクをしていたところに、そのフォームがあまりに美しく、そして不可解だったので思わず教えを乞うたのだ。

右足前のスタンスで、ひざの高さでバックスイングをとって、右足加重のまま投げるというのだ。当時の私は、そうした動きが「フォーム」として理論化、言語化されていたことにまず驚いた。実際にやってもらうとわかると思うが、日常生活の中ではまったく似たような動きがなくひどく不自然に感じられた(今思えばナンバの動きやカットマンのフォアカットに近い。現代日本人の生活になじみがないだけということなのかもしれない)。特にディスクを前に投げ出す推進力が得にくいのだ。素振りを真似するだけでもギクシャクしてしまって、何度もおかしなところを指摘された。勘所の悪い私にアルティメット部員の1人はまずは理屈で納得させようと「重心を下げる力を回転運動に変える」という言葉で説明してくれたのだが、余計混乱したことを覚えている。垂直方向のエネルギーが何で水平方向のエネルギーに変わるんだよと。

しかし、教えを忠実に守りその後も素振りや投擲を含む練習を一人のときも続けたところでひと月くらいでその動きが不自然ではないと感じられるまでになった。「重心を下げる力を回転運動に変える」というやり方も実感としてわかるようになった。そしてわかったことは、畢竟「フォーム」とはすべて文化的なコードに縛られている「不自然な」動きだということだ。人は訓練によって「不自然な」動きを体得するのだと。今読んでいる内田樹と成瀬雅春の対談本に同じようなことが書いてあってふとそんなことを思いだした。

形(かた)を真似ることで本質が宿るという理屈も、形は結果に過ぎないのだから真似ても本質には到達できないという論も、どちらも本当だと思う。原理主義者としてはなんとしても本質(原因)を探り当ててそこから必然的にたどり着く結果に向けて出発したいという強い願望があるのだが、効率や明快さを求めることで失われる有形無形の情報やエネルギーも少なくないという自戒もある。結局は夢中であれこれやっているうちに気がついたらできていた、そこにたどり着いていたというのが一番の近道なんだと思う。効率的にゴールにたどり着くためのメソドロジーを確立することに躍起になるよりは、素直に「始めてみる」「やってみる」ことの方が何百倍も「効率的」なのだ。

2012年1月13日金曜日

もっとわかりやすく書いてけろ

http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php
http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1518.php

この2度にわたるブログエントリーで樹先生は、ロラン・バルトの「零度のエクリチュール」について『「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会から事実上隔離されているのである。』とそのエクリチュールの構造的な矛盾を指摘し、『バルトの言語についての知見は、できるだけ多くの読者にリーダブルなかたちで示されるべきものであった。』と結論づけている。

激しく同意である。だからこそ樹先生の共同体の在り方についての知見もできるだけ多くの読者にもっとリーダブルなかたちで示されていいと思う。はっきり言って樹先生が採用しているエクリチュールは多くの市民には届かない。まだまだ「高踏的」過ぎる。もっと意地悪に書けば、高踏的なエクリチュールによって「大学教授」たり得ている部分がある。

大学という職場や樹先生の著書を自分からすすんで手に取る読者との間では、高度に知的なエクリチュールによってコミュニケーションが成立しうる。また、そのような高度に知的なエクリチュールでしかコミュニケーションが成立し得ない場所として大学があると言ってもいいのかもしれない。樹先生がどれだけ市井のリテラシーを過大評価しているのかわからないが、今の書きっぷりでは社会の垂直的な流動性が促されることはない。むしろ、バルトやブルデューがそうであったように、その意図に反して、高度なエクリチュールによって階層の固定化に拍車をかけてしまう。また、共同体の成員には必ず「アホ」もいて、彼らだけを相手にしないということはその共同体か小さくなればなるほど避けられないことになっていくはずだ。

樹先生がバルトやブルデューに望んだように、私も、内田樹のようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望む。

2012年1月10日火曜日

日本立て

「女めくら物語」 島耕二
16のときに病気で視力を失い、荒木町の置屋で按摩として身を立てた若尾文子のラブストーリー。置屋の主人で若尾の師匠に中村雁治郎。置屋に転がり込んでくる目明きのズベ公に渚まゆみ。こいつが若尾とは対照的な自己中心的な女性を痛快なくらい遠慮なく演じていて非常に腹立たしいw。置屋の居間で按摩さんたちがこたつに入ってくつろいでいるところで、雑誌に飽いた渚が突如ラジオを大音量でかけてゴーゴーを踊り出すところとかすさまじかったです。主軸になっている若尾とビジネスに失敗して難儀している宇津井健とのメロドラマとかどうでもいいんだけど、運命に翻弄される女という成瀬的な側面に非常に惹かれました。メロドラマの象徴的な舞台となる石段のセットがこれまた素晴らしかった。置屋はオープンセットだったと思うけど、こっちも魅力的な空間になっていました。こんな面白い映画のタイトルすら聞いたことがなかったなんてアンテナ低いですね。

「幕末太陽傳」 川島雄三
デジタルリマスタープリントということできれいだったんですが、そんなに騒ぐほどの名作か? と思ってしまったのは「女めくら物語」の後だったからでしょうか。落語「居残り佐平次」の翻案ですが、お調子者で機転の利く佐平次が肺病やみという設定がちょっとくらい影を落としていて、その第一印象とは異なって底抜けに楽しい映画になることを阻止してます。そこが引っかかりつつも魅力的な映画でしたね。石原裕次郎って若い時から本当に大根というか情緒を欠いた人だったんだな。

悪について

内田先生のメルマガ(http://yakan-hiko.com/uchida.html)インスパイアだけど、「邪悪さ」っていうものを設定したとして、それって場所(ポジション)に紐づけられてるんじゃないのか。あちら側に「邪悪」を設定することで無謬性を獲得していたはずのこちら側がそのポジションを取って代わったときに邪悪になってしまうという必然。座りたいと思ったら、椅子はあちら側にしかない。しかし、椅子そのものが「邪悪さ」によって規定されているのだとしたら「座りたい」という欲望をもう一度吟味すべきじゃないだろうか。それはとりもなおさず「邪悪になりたい」という欲望と等しいのだから。

ぼくがいわゆる「陰謀論」から足を洗ったのは「世界は自分の外側にある」=「自己は環境によって規定される」という諦念というか他力本願が陰謀論の根本にあるからだと思う。ぼくは直感的にこれは間違っているとあるときに気づいた。世界は実は自分の内側にある。

もうひとつは内田先生が書いているように、人間はおしなべて頭が悪い。それに気づいたからだろう。「愚民ども」を組織的に「支配」できるほどの緻密な知性と抜かりない行動力を持ち合わせている特権的な人たちなんていないってことだ。見ればわかるでしょう、「支配者たち」の杜撰なこと。だからもし自分が思わしくない状況にいるんだとしたらそれは幸い思わしくない状況にいない側の人も含めて、自分の、自分たちの頭の悪さが原因なんだということに気づけばいいんだと思う。

あなたの世界を窮地に陥れているものが自分の外側にある邪悪なものであると考えている以上、あながた邪悪に取って代わっても世界の窮地は変わらない。結局、ぼくらは自分たちの頭の悪さを引き受けるところからスタートするしかないと思うんだよ。

「悪」をナルシズムと看破したドイツのユダヤ人社会学者フロムは、ナチスの「糾弾」に終始した知識人とは一線を画していたと思う。

2012年1月6日金曜日

OSHOが通

アセンションイヤーのはじまりはじまり。

■「マネーボール」 ベネット・ミラー
「カポーティ」の監督だ。そういえば見逃したてたな。演出はうまいけど絵が記憶に残らない。ひとつひとつは面白い断片的なエピソードがエモーショナルな高まりを喚起しない。「そういう風につくってるから」って言うなら「そんな風につくるなよ」って言いたい。

■「永遠の僕たち」 ガス・ヴァン・サント
蓮實重彦がどこかで書いてたと思うんだけど、ガス・ヴァン・サントが撮っても撮らなくても映画史は変わらない。まさにその通りだと思うんですよね。嫌いじゃないんだけどさ。作品のひとつひとつのクオリティーはそこそこ高くても、あんまりそれに対してどうこう言おうっていう気にならない。文学作品の映画化じゃなくて、映画で文学作品つくろうとしてるみたいな、よく言えばタルコフスキー的な「野心」を感じるんですよね。ぼくは「文学っぽい」のも鼻白んだりせずにどっぷりアゴまで浸かって見れる方なので「死体ごっこ」も「モルグでデート」も「不治の病」(という概念)も嫌いではないんですが。アトラクション=上映時間が終わったらこういう白けたことしか書けないんですw 文学趣味をちゃんとやるなら加瀬亮の(文字通りの)霊的成長をもうちょっとちゃんと描いてほしかったですね。

■「脂のしたたり」 田中徳三
昔の日本映画って女優が本当に半端じゃなくきれいなんだよなぁ。「東京暮色」の有馬稲子とか「浮草」の若尾文子とか。この映画では冨士眞奈美でした。つくりの美しさっていうのももちろんあるんだけど、美人ていうだけじゃなくてちゃんとそう見えるように撮ってるんだよ。でもたぶんもうそういうノウハウが受け継がれてない。あるいはカラーになったときに御破算になった(これはたぶんウソ)。
イントロでは冨士眞奈美がファムファタル的な描かれ方してるんですが、これもはまってます。フィルムノワールの導入でちゃんと仕事をしてるんですね。サングラスかけてて素性が知れない、でも何か悪事に荷担してる怪しげないい女ってことで。ま、「死刑台のエレベータ−」のジャンヌ・モローですね。演出だけじゃなくて音楽もカメラも。しかしシネスコっていうのが味噌だよな。長身の田宮二郎と横たわる女、あるいは死体。
しかし今の女優だとこういうのが様になる人いないもんね。スタイルいい影のある美人、例えば黒木メイサとかがやっても戯画的になっちゃうでしょ。はまる背景がない。つくれない。それにしても田宮二郎、冨士眞奈美、久保菜穂子、成田三樹夫、金子信夫とみんな役どころと顔貌が驚くほどマッチしてるのね。
あとそっち系の人が喜びそうな「三国人」にリベンジする話でもあるので、そういった方向で溜飲を下げたい向きにもお勧めです。