「宇宙人ポール」 グレッグ・モットーラ
イギリスからUFOスポット巡りのためにアメリカに旅行に来たSFオタクのボンクラ2人組が、軍の施設から逃げ出してきたグレイタイプの宇宙人が母星に帰るのを助けるというシンプルなストーリーにして、コメディーであり、ロードムービーであり、ラブストーリーであり、SFであり、成長譚であり、どれもちゃんとジャンルのオーソドックスを踏み外さないで見せてくれる本当に良質なエンターテインメントですね。何度か声出して爆笑したし、最後はボロ泣きでした。
ディテールに言及している人はたくさんいるだろうから他に譲りますが、フレンドリーな異星人っていうのは(代表作として「E.T.」がありますが)敵対的な異星人に比べて圧倒的に少ないんですね。これは単に「ロサンゼルス最終決戦」みたいな国威発揚映画の方が(アメリカが)盛り上がるからというのがぼくの推測です。だからというのもあるのかもしれませんが、打率でいうと「フレンドリーな異星人」ものの方が面白いものが多いと思うんですね(もちろん「スペース・バンパイア」とか「宇宙戦争」とか敵対的な異星人ものの傑作もいくらでもありますよ)。これって何でかなって考えてみたんです。
おそらく異星人を「敵」と設定した時点でコミュニケーションの可能性が閉じられてしまうんですね。一方で、敵対が前提でないというだけで異星人という恐ろしく自己とはかけ離れた他者との間にコミュニケーションの可能性が一気に開く。前者が同胞(軍隊、家族、国民)とのホモソーシャルな絆を深めるというドラマにしか発展しないのに対して、後者は常識の枠を壊すことによってしかコミュニケーションが成立しない。つまり、何が起こるかわからないわけです。どちらが映画として面白くなりうるかと考えたら、それはもう圧倒的に後者になるはずなんですね。後は作り手次第。(「地球が静止した日」なんていう異星人目線の映画もありましたね。あれも面白かったですが)
要は、敵対というアティチュードが相手とのコミュニケーションの可能性を閉ざしてしまうということだと思うんです。やらないとやられる。俺は家族を守る。国民を守る。まあ間違いではないし、有無をいわさず攻めてきたらそうなってしまうのも致し方ないんですが、理想論を言えば、そうなる前にあちら/こちらという線引きを無効化するようなコミュニケーションを試みましょうよってことですね。そのためには知性とユーモアが必要なんだよ、というのがこの映画の謂だったように思います。
あと余談ですが、この映画のイギリス男2人と異星人っていう構図はイギリス女2人と移民男(エイリアン)っていう「J・エドガー」の逆ですね。主人公2人に「何だお前らホモか?」とけんか売ってくる2人組の男たち(いかにも中西部的なタフガイ)の方がよっぽどホモっぽく見えるというシーンがありましたが、閉鎖的な同質性よりはヘテロセクシュアル(異性愛=異星愛?w)の方が本当の意味でセクシャリティーとしてはゲイ(喜ばしき性)なんじゃないかなぁと思いましたね。
「青い青い海」 ボリス・バルネット
いわゆる「ルビッチ状態」(男2人に女1人)が「宇宙人ポール」から続きました。カスピ海南岸のコルホーズを舞台にしたルノワールの「ピクニック」を思わせる恋の鞘当て的なお話ですが、牧歌的度合いにおいてはこちらの方が優っていますね。
冒頭、主人公たちが漂着した島の浜辺で、潮干狩りか何かをしている女たちがなぜかがかがんで身を低くしている。次のカットで猟銃を持った男が鳥を狙っているんだけど、全然当たらない。この男の銃の腕前が信用ならないために、銃声がするとみんな習慣として隠れていたという、これ以降のストーリーと何の関連もない牧歌的なエピソードが、場違いなくらい鮮やかに自由に突出していて、映画ってこれのことだったんじゃなかったっけという思いが頭をもたげる。
メインのお話はヌーベルバーグ的といっていい1人の女を巡る2人の男の葛藤。そりゃもちろん面白いんだけど、それに通底している天真爛漫な「人間愛」としか言い様のないものがどのシーン、どのカットの、どの齣の、どの部分を見ていてもフィルムに浸透しているようで、それを客観的にしか感じることができない自分をどこか恨めしく感じてしまう。何で自分はこういう風に自由じゃないんだろう、何で自分はスクリーンのあちら側にいないんだろう、と。共産主義政権下のソ連の方が今の日本よりも全然風通しよくて楽しそうじゃん。
これって北朝鮮のプロパガンダ映画にやられちゃった人と同じなの?w
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