2013年4月26日金曜日

不敗の美学

 昔、四谷大塚だったと思うけど、算数の問題で「100人が参加するトーナメント戦では試合数はいくつになるか?」というのがあった。

 解法というかロジックがわからないと、わけもわからずに数えたりしてみるんだけどわかってみれば至極単純な話なんだよね。

 答えは99試合。優勝する1人以外は1試合につき1人が必ず負けるから。

 こういうスパーンっていう目から鱗っていうか目から鼻に抜けるっていうかロジックの明晰さに感心したっていうのもあるんだけど、僕は何というかその「文学的」な側面に心打たれたんだよね。

「1人だけ1度も負けないヤツがいる」「1試合につき必ず1人の敗者が生まれる」

 スポーツでも囲碁でも将棋でもいいんだけど、たぶん「公正に」強さを測るならリーグ戦で総当たりとかやればいいんだよね。で白星が一番多い人が勝ち。でもほとんどのスポーツで、1番強いヤツを決める方法って最後はなぜかトーナメントなんだよね。

 だから僕らは平均点が高い選手よりも、爆発力がある選手や瞬間最大出力の値が大きい選手を「強い選手」として選ぼうとしてるんだよね。勝ち上がってくる相手がわからない、しかも1発勝負。それってすごいロマン主義的じゃない? 興行的な要請ということも含めて僕らにそういう指向性があるっていうことだよね。まあ総当たりのリーグ戦じゃ盛り上がらないのは想像に難くない。派手な選手よりも手堅い選手が勝ちやすいしね。

 でも、鳥山明が「ドラゴンボール」の最後の方でもう天下一武道会とかほっぽり出しちゃうじゃない。あの感じ今ならすごいよく分かるんだわ。その場、その時の対戦相手に対する比較優位なんて「強さ」の要素のほんの一部じゃん。

 トーナメントで勝つことの意義とかそのための努力っていうのはもちろん素晴らしいものだと思うんだけど、でも強いってそういうことじゃなくね? それだけじゃなくね? ってことに気づいたと思うんだよ。鳥山明先生は。

「キン肉マン」にしても「男塾」にしても、我々ジャンプ世代はトーナメントの美学にこれでもかってくらい毒されてるよね。まあ、1回負けたら終わりっていう潔さは日本人の武道的な精神とは親和性が高いのかもね。これといった代替案もみつからないし別にいいけど。結局何が言いたかったかっていうと、僕らの多くはプラクティカルな強さそのものよりも天才エピソードとかレジェンドとかが好きなんだよねってこと。

2013年4月16日火曜日

チャラン・ポ・ランタンはきっと来てしまう

そもそもミュージシャンのライブに行くという習慣がまったくなかったので他のアーティストやイベントと比べることはできないけど、4月9日新宿ロフトのチャンラン・ポ・ランタンのワンマンライブはすごかったんじゃないだろうか。

2月に川崎でやってた屋外の無料ライブで初めてチャランポ目撃してから近所でやってたラジオの収録で1回見ただけだけど、それは両方とも「唄とアコーディオン」の2人編成で、やっぱりベース、ドラム、テナーサックス、アルトサックス、トランペット、バイオリンが入った編成は聴き応え見応えが全然違う。

この日はヴォーカルももの二十歳の誕生日、さらに三部作のアルバムの三作目の発売日の前日ということで姉の小春(アコーディオン・コーラス・作詞・作曲・編曲・イラスト等々)をはじめとしたメンバーも気合いが入ってたんじゃなかろうか。休みなしで1時間半22曲ノンストップで翌日に発売されたアルバム「ふたえの螺旋」の曲をメインに演奏しまくって、歌いまくってた。

陶然と聴いていただけなので全く批評性のあることは言えないんだけど、感覚的にこの時の「夢の華よ」(アルバム「ただそれだけ」収録
https://itunes.apple.com/jp/album/tada-soredake/id386755086 )のユニゾンとラッパは本当に素晴らしく歌詞の通り「夢の華よ枯れないで」
と思いながら聴いてた。他に印象深かったのは「最期の一錠」「三人の男」「今更惜しくなる」「世界のフルコース」「Oppai Boogie」「ライムライトを浴びて」など。「Oppai Boogie」は小春が書く曲にしては珍しく素直に乗りやすい曲でこれからライブでは定番になりそう。というかなって欲しい。

この日の主役は二十歳を迎えたヴォーカルのももだったんだけど、僕はチャランポを知って以来、小春に比べてももを軽視していた部分があった。でもライブでの表現力を目の当たりにして考えを改めざるを得なかった。曲の世界観を構築してる演出家はもちろん小春なんだけど、ももの透明性(アーティストとしての自我の希薄さ)がある種の巫女的な役割を果たしているということに気づいた。このまま行けるのか、いつまでもこのまま行くのがいいことなのかはわからないけど、とにかくこの時の二人の関係性、ももの自我のあり方というのも含めてこの時しか聴けない音だったんだと思う。そういうのも含めてライブの一回性という怪物に今更のように打ちのめされたのです。何か悔しいけどキャッチーなところがあるからこの二人は結構すぐ売れちゃうと思う。

2013年4月11日木曜日

世界は映画のためにある……的な

「ホーリー・モーターズ」レオス・カラックス
リムジンの後部座席を拠点に「俳優」たちがある役柄を演じることで世界を映画たらしめていると。まさに狂人の発想だと思うんだけど、今回はなんか凄みを感じなかったんだよな。ドゥニ・ラヴァンは文句のつけようがないくらい素晴らしいし、すべての役を完璧に演じきっていたと思うけど、カラックスの狂気が何かダウンサイズしたような印象を受けた。それはデジタルのせいかもしれないし、予算のせいかもしれないし、歳のせいかもしれない。


あと「オールド・ボーイ」と「親切なクムジャさん」をiPadで見て「イノセント・ガーデン」の予習をした。週末に見る予定。パク・チャヌクとクローネンバーグとチャラン・ポ・ランタンの週末か。。。悪くないw

2013年4月4日木曜日

俺、毎日映画見てるし。iPadで。


★番外編(iPadで鑑賞)
「レボリューショナリー・ロード」サム・メンデス
すげー気になってたんだけど「タイタニック」のあの二人が再び!みたいなフレコミがアホくさくてスルーしてしまっていたのだった。鈍いね。遠いね。ハリウッド版「お茶漬けの味」って言ったらいいかな。

アメリカのミドルクラスの閉塞感っていうのは日本なんか比じゃないほど外圧が強そうでツラい。いきなり「パリ」って言っちゃう気分も分からなくはない。でもパリっていいだしたところで、ひょっとしたらパリに引っ越して「自分」も見つかって家族が楽しく暮らすっていうオプションもあるわけじゃないですか。そっちですよね。僕なんかはそっちのイメージに引っぱられすぎて、アメリカで続く現実がもうあんまり入ってこないわけですよ。パリの話にしてもよかったんじゃねえの?ってそればっかり気になって。

困るとシルシツキを登場させて「本当のこと」を言わせるっていうのは手法としてはちょっと安直だよな。不動産屋のキャシー・ベイツと数学者の息子とかああいうのも含めてアメリカの症候なわけだけど。だれかパリバージョン作ってくれよ、と思ったけど、ひょっとしたらウッディ・アレンの仕事っていうのはトータルで考えた時にそういうことなのかもしれないね。


「ミスト」フランク・ダラボン
スーパーマーケットといえばロメロの「ゾンビ」なわけですが、そういうところをきちんと分かってやってるのがいいですね。スティーブン・キング + フランク・ダラボンと言えば「ショーシャンク」「グリーンマイル」の非ホラー路線だったわけですが、キングの本懐であるホラーで初めてその歯車が噛み合ったという気がします。まあ次々に人が死んでいくわけですが、そこには映画の文法であったり、観客が納得できるだけのエクスキューズがあったりしてうまくできてるなあと感心してました。でも最終的には、そういう因果律=「悪いことをしたから死ぬ」「軽率なことをしたから死ぬ」「弱いから死ぬ」が見事に崩壊していく。観客はその試練に耐えられるかっていうことなんですね。僕は耐えられなかったというか、彼らの死にあまりに説得力がなかったと感じたんです。最後は「すげえがんばったけど、もう無理」という設定でしたが、いやいや無理じゃないよ。粘ろうよ。勝負はこっからだよ。と思って見てたものですから、あの引き際にはちょっとがっかりでした。それにしても面白かった。最初に出てったおばさんが生き残ってたり、あんなワンカット(ほんの一瞬)でザワザワさせるのもうまいなと思いました。


「それでも恋するバルセロナ」ウッディ・アレン
iPadで寝ながら見るのがすごい楽しくなってきた。アレンがバルセロナを舞台にハビエル・バルデム、スカヨハ、ペネロペ・クルスで撮ったラブコメです。96分でこれだけ濃ゆいものがつくれるってことを若い監督は心して見ろよ。まあでも真似できない名人芸なのかもしれんね。ある程度の人には少なくとも目指してほしい境地ではあるけど。相変わらずアレンはつまらない男やペダンチスト、アーティスト気取りに厳しい。でもホンモノの芸術家とフワフワしてる普通の人には寛容というか、愛のある描き方をしてあげてるよね。結局それって自分のことじゃんって思わなくもないけどw
この作品でちょっとざわざわしたのが、ヴィッキーの結構年行ったおばさんが不倫してるってとこでした。彼女がスペイン人みたいに開き直ってればいいんだけど、すごい自己保身に走るんだよね。ああいう方が男1人女2人で仲良く暮らすとかよりもよっぽどざわざわ来ちゃう。やっぱり最近のアレンはちょっと笑えない要素をちょいちょい放り込んでくるんだよね。そこもすごい好きなんだけど、老境に至ってファンタジーよりもリアリズムに走るっていう感性がすごいと思う。

2013年4月3日水曜日

あんたがたホフマン


「ザ・マスター」ポール・トーマス・アンダーソン
俳優ホアキン・フェニックス感を味わう2時間。猫背とかはもちろん芝居だろうけどさ、手の爪がほとんどないとかああいうのは芝居ではないじゃない? ホアキンが逸脱しちゃってるのも戦争のせいっていう入りではあるけど、実際はどこまで本当なんだか分からない。そういうメタを含めて、むしろ、ナチュラル・ボーン・ストレンジャー感の方が強く漂ってる。

その分、フィリップ・シーモア・ホフマン感はかなり希薄だ。希薄というか普通だ。カルトの教祖が社会に受け入れられるためには世間的な真人間たり得ないといけないというジレンマを生きている息苦しさ。怪優の競演みたいのを期待してた部分があったんだけど、カルトの教祖であるホフマンが普通の人サイドにいるわけで、全然変な人じゃない(変ならいいってわけじゃないけど)。周辺を身内で固めて、理論武装して、批判には過剰反応してってメチャクチャ小物なわけですよ。俺みたいにニート気質がサラリーマンやってるとそういうのはすごく共感できる。世間の「こうあるべき」という規範に必要以上に従順になってしまうんですね。カルトの教祖なのにw

そんな小物だからこそ、逸脱しっぱなしホアキンに惹かれるっていうのはすごいよく分かる。ホアキンを飼い慣らしたいという支配欲と自分も規範から自由になりたいっていう解放への欲求。そのアンビバレンツに引き裂かれるホフマンに振り回されるホアキンという構図。それは反対側から見れば、ホアキンが持つ支配されることへの欲求と自由を与えることへの欲求への答えでもあるわけだ。だから噛み合ってしまう。「人は愛のみによって結びつくのではない」っていうのはこういうことなんだな。

まあそういったわけで、我々は陰鬱な煮え切らない男たちの葛藤に2時間付き合わされるわけですが、当然楽しい結末っていうのが想像できない。文字通り息が詰まりそうになりながら見てました。ホアキンもすごいよ。ホフマンも、監督もすごい。でもそれが何なんだよ。こんなもん作ってどうしたいんだよって思ってしまうのよね。でももう一回くらい見てみたい見たいなっていうw

船から降りてすぐのセッションのときにお客さんがしつこく「Excuse me!」って言ってくるところとかすごいイライラするんだけど、あの男の顔がまた映画的に適切でねw 2度と忘れられないようなツラしてましたね。唐突に砂漠に2人で行くところとか、バイクのシーンとか結構好きです。あと全然気持ちよくなさそうな手コキもね。



「フライト」ロバート・ゼメキス
ゼメキスって作家像が自分の中で結べてないんだけど、iPhoneの着信のときの軽いミスタッチとか、タラップで躓くとか、第一声で声がちゃんとでないとか、そういうの要る? 最初はワシントンが勝手にアドリブでやってるのかと思ったんだけど、どうやら演出なんだよね。そういうのって映画においてはまったくリアリティーに結びつかないんだよね。少なくとも今回はそうでした。

最初から最後まで飲みまくってるデンゼル・ワシントンに法の裁きが下るのは当たり前なんだけど、罰って意味ではもうとっくに食らってるんだよね。本当は。「酩酊の演技」に透けるデンゼル・ワシントン感が僕は苦手です。この映画を飛行機の中で上映したら面白いだろうね。


「キャビン」ドリュー・ゴダード
愛のない映画でしたね。愛していない対象のパロディってこんな感じですよね。愛もないし腕もない。大仕掛けなわりにはやってることはせせこましくて退屈でしたね。神木君じゃないけど「ロメロぐらい見とけよ」って本気で言ってやりたい。