2013年6月26日水曜日

走れスミス

「アフター・アース」M.ナイト・シャマラン ★ネタバレあり
冒頭に出てくる「ゴースト」の設定にまずやられるでしょ。地球を放棄した人間が移住しようとした惑星の先住民が人間を抹殺するために放った猛獣アーサ(URSA)。視力のないアーサは人間の「恐怖」を嗅ぎ分けて認識するんだけど、とてつもなく強くて残忍で人間は太刀打ちできない。この状況を打開したのが「ゴースト」と呼ばれる恐怖心を制御できる人間。その最初のゴーストになったのがレイジ(ウィル・スミス)というわけだ。

設定とかストーリー展開の無理のなさっていうのももちろん特筆すべき出来のよさだと思う一方で、この映画の何がすごかったのかなと考えたんだけど、キタイ(ジェイデン・スミス)がシルシツキじゃないってところだったのかなと。ちょっと走るのが速い普通の男の子なんだよね。

もちろんお父さんは初代ゴーストではあるんだけど、ゴーストには血筋とか関係ないのね。ゴーストたるにはちょっとは恐怖心を自制できるとかじゃ駄目で、ゴーストかゴーストじゃないかは0か100なわけだ。それ以前に息子はレンジャーにもなれないくらい、特に精神的にまだまだ未熟な存在で、とてもじゃないけどゴーストになれる保証なんかない。でも父親は息子がゴーストになる方に賭け金を置くしかないような状況に追い込まれるわけです(ストーリー上はアーサの生死は確認されてませんが、もちろん生きているに決まってるわけでw)。

1歩も動けなくなった父がひたすらゴールを目指す息子キタイに語る「ゴースト誕生秘話」も感動的だけど、やっぱり息子の覚醒の瞬間にはぐっと来るものがありましたね。「覚醒=アーサがキタイの存在を認識できない」をどういう絵として見せるか。これは父親の話がほぼ「語り」だけだった分、そのビジュアルの力強さが感じられました。絵としてはこの上なく鈍重なんですが、メチャクチャアガります。

少年の成長譚という意味ではシャマランの前作「エアベンダー」を踏まえての今作ということになると思いますが、確実に前作での経験が生きたんじゃないかと思います。


ただ、余談ですが、「覚醒」を「成長」と位置づけるかどうかはスピリチュアル的な視点からははなはだ疑問でして、先ほども述べたように「ゴーストか否か」は0か100かだと思うんです。おそらく、ゴーストというのはスピリチュアル的にはより良いとかより強い状態ではなく「Altered State」なわけです。感じ方や考え方、世界の捉え方がそれまでとはまったく異なる状態という意味で、そのような状態になること(変容)と「成長」という直線的な概念は相容れないものがあるのではないかと思いました。もちろんいままでできなかったことができるようになることを成長というのも間違ってはいないと思いますが、成長譚であるよりは「マトリックス」のような覚醒譚という方がより正確に近いのではないかと思います。まあこの辺を突き詰めて考えると、親子である必要も、地球である必要もないわけだけど、そういう物語性を剥いでも単に「1人の人間が覚醒する話」として成立する次元までたどり着いているかなという気はしますね。

2013年6月13日木曜日

101人目のトム

「イノセント・ガーデン」パク・チャヌク
なんだろう。ガス・ヴァン・サントの「永遠の僕たち」的な内向的な文系少女の思春期ものには違いないんですよ。耽美的な映像表現であるとか、ポエジーあふれる独白とか。で、少女の孕んでいた狂気のポテンシャルを目一杯引き出しに叔父たるメフィストフェレスが、父親を失った少女の元に現れるわけです。脚本はハリウッド的な洗練を経てはいると思うけど、どうもパク・チャヌクの魅力である荒々しくとがったところが角が取れてしまったように感じましたね。ありきたりの描写に収まってしまったというか。話は怖いし、見せ方次第ではモンスター性の継承っていうテーマをもっと前面に見せてもよかったのかなぁと。耽美的な映像表現も自己目的的なところがあってなんかちょっと「古い」感じになっちゃいましたよね。


「オブリビオン」ジョセフ・コシンスキー
SFリテラシーが低いので色々わかってない部分がありましたが、「たまたま目覚めちゃった個」っていうテーマがツボでした。顕在化されたクルーズ感自体は希薄だったかもしれませんが、潜在的なクルーズ感は地表を覆うほど満載だったわけで、ある種の目眩を感じることはできました。暗闇の中で葉巻に火をつけるという登場シーンが似合うフリーマン感も素晴らしいものがありましたね。ダイレクトな感動ではありませんが、シェルドレイク的な命題を思わせるラストもすごい好きです。

2013年6月5日水曜日

不穏パレード

「リアル 〜完全なる首長竜の日〜」黒沢清
黒沢清の5年ぶりの劇場公開作品とあっては初日に駆けつけないわけには行くまい。前日夜にチャランポの当日券が出ると知り、日帰りで名古屋から戻ったところで、まだ最終回に間に合うじゃないか!と品プリに駆け込みましたよ。

画面を横切るもののこの不穏さ、間違いなく清。それもジャンル不問の過剰な不穏さ。霧、カーテン、水。それらの不透明さは黒沢清においては、何かを覆い隠すのではなく、その中から何かが現れるためのものだ。そして今回もさまざまなものたちが姿を現した。

僕はたまたまこの原作を読んでいたんだけど、原作者はよくぞこの「翻案」に寛容であってくれたと思う。ほぼセンシングというギミックのみの抽出を許してくれたその太っ腹に感謝したい。姉弟が恋人になり、単なるいちモチーフだった首長竜が廃墟で暴れ、中谷美紀に風が吹く(「ドレミファ娘」の洞口依子が股から発光したシーンと呼応している!)。 間違いなく僕が見たいのは、こんなふうに映画の地平を広げようとしている映画なんだなと改めて感じ入った。あと何回か見に行く予定。