2012年7月24日火曜日

出来の悪くないアメリカ映画

ゴダールが「出来の悪いブルガリア映画よりも出来の悪いアメリカ映画を見る」って言ってたけど、そういうことだと思うよ。マジで。

「リンカーン弁護士」ブラッド・ファーマン
せこい稼ぎ方はしてても決して悪徳ではないんだよね、この主人公の弁護士(マシュー・マコノヒー)は。他人の命なんて屁とも思わない悪党に対して、飽くまで両刃の剣である手持ちの「法」を持って立ち向かうっていうのは格好いいじゃないか。「旦那ならストリートでも生きていけまっせ」という黒人の運転手に「ここもストリートだよ」的なやりとりがあるけど、悪に勝利しうるものがあるとすれば、それは善なんかじゃなくてただ何があっても屈服しないという覚悟なんじゃないかな。ストリートってそういうところじゃん。こういうハードボイルド僕は好きだど。


「崖っぷちの男」アスガー・レス
どういう撮影したのか知らないけど、あんなところに何時間も立ってたなんて狂気の沙汰だよw。あれ、この人何やっちゃッてんのかなっていう「入り」はすごいうまいし、徐々に今何が起こりつつあるのかがわかっていく展開は、強引なところもあるかもしれないけど、悪くないじゃないですか。脚本が緻密(整合性が取れているという点で)でもつまらない映画なんて腐るほどあるんだから、緻密さと面白さは関係ないんですよ。

「悪い奴」というよりも徹底的に「イヤな奴」として描かれたエド・ハリスが素晴らしかった。ユダヤの不動産王=悪者=黒幕という図式も素晴らしい。そういう頭は良くないかもしれないけど気持ちはいい映画でした。逆なんか見たくないよね。


「蜂蜜」セミフ・カプランオール
映画祭で賞取る辺境系の映画なんですがパンチ足りなくねえか? トルコではなんで蜂の巣箱をあんなに高いところに設置するのか? まずはその辺を問い詰めたい。
ユスフ3部作の3作目で主人公の少年ユスフが段々若返っていってこれが幼少期の頃のユスフの話だってんだから、エピソード0だったってわけね。じゃあそれだけ見てもピンとこないかもしれないということを踏まえて、山の中で両親と暮らす吃音持ちの少年ユスフ。蜂蜜取りを生業にする父親との交流と父の死。小学校低学年くらいだと思うんだけど、いつもきれいなシャツ着てるのね。これが子どもなのに肩幅身幅袖丈のサイズ感がバッチリなの。それが異様にエスタブリッシュなイキフンを醸し出してて違和感があるのよ。おばあちゃんが編んでくれた茶色いセーターがこれまたオシャレでね。この時期なんてすぐ大きくなるんだから大きめ買って着せておけばいいんだよ的な貧乏臭さがまったくないの。そういうのはすごいいいんだけど、そのシャツのサイズ感が浮いてるんだよね。演出上の浮きならいいんだけどたぶん違う。だからなんか気になる。このシャツどうしたの? 買ったの、作ったの? トルコには既製品でこんなシャツ売ってるの? って問い詰めたい。
最初のショットでカメラが近いなって思ったんだけど、やっぱりなんか微妙に近い感じが終始つきまとった。逆にすごい引いた絵はメチャクチャ良かった(リボン落とした女の子が橋渡ってくところとか野外フェスみたいなお祭りとか)。

なんだこりゃーみたいな終わり方すると思ったら、「前作(第2作目)に続く」的なノリだったのねと納得。

2012年7月18日水曜日

ある七光り

「ヘルタースケルター」蜷川実花
この映画を見た帰りにサマンサ・タバサでバッグを買ったという瀧波ユカリのツイートを見たけど、「私の中の女子」が刺激されたっていうお客さんは結構いるみたいで、それって「ヘルタースケルター」としては失敗だったんじゃないのってことなんですよ。

だって「資本主義の狂騒の中心でむなしさを叫ぶ」みたいなテーマなわけでしょ、本来。だから女子力を喚起して購買に走らせるっていうのは、それはそれですごいとして、やっぱり失敗だったと思うんだよね。ティーン向けファッション誌とか読んでた子が「ああ、なんかもうカワイイとかどうでもいいわ」って映画館出たその足で出家させるくらいじゃないとダメでしょう。個人的にはこの手のセンスに刺激されるようなパートは自分の中にはまったくなかった。そもそも映画として出来がよくないし見てて楽しくないし、いろんなケチの付け方ができると思うけど、これくらいにしておきます。

ただ、これを見て岡崎京子の「リバーズ・エッジ」だけはこいつにはやらせまいと強く思いました。僕が今年中に脚本を書きます。誰であろうとあのポエジーを踏みにじっていい人などいないからね。

舐めたい背中

「苦役列車」山下敦弘
実は山下敦弘見たことありませんでした。イマイチ食指の動かない系の映画を撮ってて「リンダリンダリンダ」なんかは見ててもいいはずなんだけど、微妙に避けてました。それに納得した部分と、見ておいてもよかったなと思った部分があります。

原作の西村賢太は芥川賞の授賞式で「賞金で久しぶりに風俗に行きます」とか言っちゃう系の人だから、未読だけど大体の感じはつかめてて映画のテイストはその通りだった。実際は屈折の仕方が予想以上でそこが一番面白かったかな。中卒で人とまともな人間関係結んだことがなくて飯食ってタバコ吸って風俗行っての繰り返しが日常の日雇い肉体労働者。ちょっと責任の重い仕事割り振られたりするとすぐ逃げちゃうし、ルサンチマン丸出しでくだ巻いて絡むし最悪な奴なんだけど、こいつがちょっと人と違ったのはすごい本が好きだったってこと。

北町貫多という名前も西村賢太のあまり気の利いていないもじりだし、自伝的要素がふんだんに盛り込まれていることは想像に難くない。まあ、主人公が作家本人である以上、この映画の終着点が「書き始めること」であることもまた想像に難くないわけだ。だから、この映画は1本丸々書くことへの動機付けにならなくちゃいけない。ひとつひとつのエピソードは面白いし、森山未來のダメな奴芝居もすごく魅力的なんだけど、結局じゃあ何で書き始めたの?っていうところでその蓄積が足りてないんじゃないかと思うんだよね。

貫多が海岸で穴に落ちてアパートのゴミ捨て場に降ってきて、動物的に書き始める一連の描写はすごく好きなんだけど、あそこはもっとエモーショナルな盛り上がりがあるべきシーンだった。正直泣きたかったけど泣けなかった。その一因は書くことのモチベーションが十分に描かれなかったってことと、書き始めた森山未來の裸の背中にもあったんじゃないかという気がします。肉体労働者だから筋肉質なのはいいんだけど、森山未來の体にはだらしなさがまったくないのね。もちろん、ダンサーだから仕方がないんだけど、それが一番あらわになるのが背中だと思うんです。実際、すごい細かい筋肉が丁寧についてて、それは粗野なマチスモとはかけ離れた洗練を思わせる背中なんですよ。面白いもの書きそうな背中ではあるんだけどね。

というわけで、あのシーンは何か一枚羽織らせた方がよかったと思います。高良健吾の彼女(下北沢在住)を相手に居酒屋で、ヨダレを垂らしながら世田谷・杉並在住の田舎者・サブカル・ニューアカをまとめてディスるシーンは感動的でした。いい映画でした。

EXILE to a ZOO

「幸せへのキセキ」キャメロン・クロウ
見たのが10日も前なので、もはや記憶が定かではありませんがそこそこ面白かったように思います。妻に先立たれて仕事も子育ても行き詰まり感のある父親(マット・デイモン)が思春期の長男と幼稚園児くらいの娘を連れて、閉園中の動物園付きの家に引っ越して、動物園を建て直すことになるという実話ベースのお話です。

マット・デイモンはいわゆる「中年の危機」にあると思うんですが、買ったのがポルシェじゃなくて動物園だったために周囲は大変な厄介に巻き込まれてしまいます。さらに、母親を失って精神的に不安定な時期の息子との微妙だった親子関係もより微妙になってゆき、無邪気でかわいい次女だけが救いな感じです。

数々の人災・天災を乗り越えてお父さんの意外な頑張りは動物園のスタッフと家族との絆を深め、各々が成長していくさまは感動的ですらあります。お客さんは気がつけばマット・デイモンを応援し、空気の読めない長男にいらだち、意地悪な検査官に内心で悪態をつきながら見ている。動物園ならではの問題も頻出して絵にもストーリーにもオリジナリティーがある。

なのになんか普通。普通でもいいんだけど、すごい凡作っていう印象に終わっちゃう。なんでか? それはスカヨハがおしりもおっぱいも出してないからじゃないかと思うんです。以上、コラムでした。

2012年7月13日金曜日

前世のリグレット


「スープ~生まれ変わりの物語~」大塚祐吉 ★★★★★
再三この映画の素晴らしさについて、つぶやいていますが、言っても言ってもいい足りないくらいの感じです。おそらく、この映画を賞賛することに僕が躍起になっている理由は2つあって、ひとつはこの映画が文句なしに素晴らしいということ。もうひとつは、どうあがいてもこの映画が「ヒット」とは縁遠いということです。この2つ目の文脈においては、アレンの新作が素晴らしいとか、スピルバーグの新作がいまいちだとかいう必要はまったくないわけです。僕の感想なんて絶対に他の誰か、それも何百人も何千人もいる他の誰かと同じだから。だからこそ、僕はこの「スープ」の素晴らしさを語らないといけないという使命感を(勝手に)感じているのです。ヒットとは縁遠いというのは、資本主義的な要請によるものであって、作品としてはものすごい真正面から、ラブコメとしてSFとして親子ものとして、また女優を魅せる映画として素晴らしいのであって、決して「カルト的な人気を誇る」とかそういうところに落ち着くべきではないということをあらかじめ伝えておきたいと思います。

この映画の大きな軸になっているのは15の娘・美加(刈谷友衣子)を残して事故で死んでしまった父親・渋谷健一(生瀬勝久)が、あの世からこの世の(置き去りにしてしまった娘の)記憶を持ったままこの世に生まれ変わるというストーリーです。構成としては大きく3つの部分に分かれていて、1つ目が2年前に奥さんと離婚して娘と2人で暮らすお父さん(生瀬)のパート。2つ目がお父さんが死んでからのあの世パート(with 小西真奈美と松方弘樹)と残された娘のこの世パートが並行して進み、3つ目でこの世に生まれ変わった生瀬が高校生になってからの話。

僕は初見でこの3つ目のパート、主人公が生まれ変わって高校生になってからの話がいわゆる学園ものとして突出して素晴らしいと思っていたのですが、再見したらやはり、その3つ目のパートの素晴らしさを支えていたのは1つ目と2つ目のパートなんですね。だからもちろんそれも素晴らしいわけです。結局すべてが素晴らしいわけです。

しかし、ここではやはり3つ目の学園パートについて取り上げたいと思います。話の内容について詳述したくないのですが、学園パートの人物関係の描き方の繊細さは絶妙なキャスティングと演出と演技に支えられて本当に昨今の日本映画界最高度の達成と言うことができるのではないでしょうか。同じ教室にいたら卒倒するレベルの超絶美少女・広瀬アリスが、生瀬の生まれ変わりである朴訥青年の野村周平を遠巻きに眺めている数カットなんて、気もそぞろ感、男の子同士のいちゃつき感など、甘酸っぱくてほろ苦くて、でもその視線の意味は実は……って落としどころも面白いですし、そこに絡んでくる歯並びの悪い意地悪そうな美少女・橋本愛がまた絶妙な顔と声と表情と演技で彼女もまた過去生からのお付き合いに絡んでくるんですが、ここでは「生まれ変わり」という世間的には荒唐無稽な話が思春期の恋愛に最高のスパイスとして機能しているわけです。それもこの映画のやや鈍重に思えた前半部分があったからこそなんですね。

クライマックスはもうネ申展開としか言いようがない「秋刀魚の味」(および後期小津の父娘モノ)の変奏なわけですが、ここでオープニングのシーンが何を意味していたのかが明かされ、お互いに打ち明ける対象の不在という致命的な問題を抱えていた2人の積年の思いが語られるに至って、私たちは涙以外の何を持ってこのシーンに対峙しうるのでしょうか。

とにかくあらゆる人にとって、一刻も早くスクリーンで見るべき映画であることは間違いないです。激しくオススメです。

男だらけのフットボール大会


「ロンゲスト・ヤード」ロバート・アルドリッチ
この手の1970~80年代ハリウッドというのは意外にスクリーンで見る機会が少なくて、例えば「E.T.」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ゴッド・ファザー」「ロッキー」などの古典化した名作ですら、そのチャンスは実に稀である。だから、このみゆき座の試みは実に価値があるものだと思う。

午前10時の映画祭:http://asa10.eiga.com/

などと言いながら初めて足を運びましたが、もう当たり前のように今かかってる凡百の新作よりは面白いわけです。映画としてのたたずまいというか格というか、もうそういうものが違うんですね。男に殴りつけられる女を見たぐらいで心がざわざわしている観客(自分のことです)の何と軟弱なことか。欧米的なポリティカル・コレクトネスの奴隷になってしまっているなぁと痛切に感じるわけですが、そういう軟弱化した草食男子のおケツをひっぱたいてくれるような素晴らしい映画でした。

私は基本的にはむさ苦しい男が画面を埋め尽くすタイプの潜水艦とか刑務所を舞台にした映画よりも、学校とかプロムパーティーの方が好きなんですがw、こういうのをたまに見るとお尻に何かを差し込まれたみたいに背筋が伸びますね。ちなみに何年か前にイギリスでリメイクした「ミーン・マシーン」は駄作でした。

ちなみに「サニー」の敵グループ「少女時代」の天然パーマは刑務所の事務員オマージュだったんですね。素晴らしい。

2012年7月6日金曜日

ルイジアナ・パパ


「ハングリー・ラビット」ロジャー・ドナルドソン

話としては「Y氏の隣人」とか「笑ゥせぇるすまん」的な「日常と隣り合わせの怖い非日常」ものですね。高校の国語の先生役のニコラス・ケイジが奥さんがレイプされたことをきっかけに、出来心で怪しいおじさんに犯人を脱法的に裁くことを依頼しちゃったら、あれよあれよという間におかしな話に巻き込まれてしまうっていう。それを周囲に悟られないように、逡巡し葛藤し、やがて、その巻き込もうとしていた主体を相手に戦うという話で、結構面白いです。

確か僕が2010年のベスト1に挙げたヘルツォークの「バッド・ルーテナント」もニューオーリンズが舞台でニコラス・ケイジが主役でしたね。おそらくハリケーンの影響で社会秩序が不安定になっている現状が、映画の舞台として自由度が高いというのはあるんでしょうね。今回もケイジはそういう街で生き抜くタフガイなわけですが、警官だった「バッド・ルーテナント」とは違って今回はカタギの市民目線で、性犯罪者を勝手に裁いちゃうアングラ自警団を相手にするのは結構荷が重いわけです。

元々は義侠心からよかれと思って始めたことなんだけど、組織化して行くにつれて今度は組織の存続自体が目的化してしまうっていうのは、多くの組織・団体にも同じことが言えるんじゃないでしょうかね。特に企業とか。本来の活動意義を見失って生き延びることが最優先事項になってしまう。ケイジもそういう存続自体が目的化してしまった組織の軋轢に巻き込まれるというか利用されてしまうわけですね。まあでも今回の「組織」も人の怒りとか悲しみにつけ込んでくるっていうのは新興宗教と同じで、元々の動機がなんであれ力を借りちゃいけない毒饅頭だったってことなんでしょうね。

ラストの大立ち回りの舞台になる廃墟になったショッピングセンターを個人的に生々しく感じたのは、先日気仙沼や陸前高田の津波に遭った地域で、ガワはそのままだけど中身は廃墟になってる大型のホームセンターやスーパーマーケット、紳士服販売店を見てきたからなんですね。資本が動かないと片付けたり壊したりすることさえできないっていう現状を見るにつけ、アメリカではもっとシビアなんだろうと推測しました。それこそ死体のひとつやふたつ転がってても当分見つからないって感じで。

ニコラス・ケイジとキアーヌ・リーブスは上手いとか下手じゃなくて芝居そのものが見ていて面白い「芸能」の域に達していますね。ニコラスの方が作品にも恵まれてるのに対して、「マトリックス」以降キアーヌはいつも微妙な役と作品ばかりですね。すごい好きなんだけど。

2012年7月2日月曜日

究極の NOT BAD

「一枚のめぐり逢い」スコット・ヒックス
たまたま拾った一枚の写真に写っていた女性を捜し歩くっていうテーマはトリュフォーの「逃げ去る恋」と同じなわけで、「シャイン」のスコット・ヒックスが監督ということもあって(「佳作臭」がプンプンしてたんですが)、これは見逃すわけには行くまいと思ってがんばって行きました。

すげー「悪くない」って全力で言いたい気持ち、わかってもらえるかなw イラクかアフガンかわかなんいけど、とにかく戦地帰りのザック・エフロンがね、もうやり過ぎってくらい格好いいの。体格よくて力持ちで、大きくて利口な犬がなついてて、寡黙で、働き者で、メカに強くて、優しくて、子どもの扱いもうまくて、影があって、知的な一面も垣間見せつつ、ピアノも弾ける……。

もういいってくらいモテ要素満載で、トラックの荷台から荷物を投げ降ろしてるところを見てるだけでも女子はポーっとしてジュンときちゃう。こいつが最初から最後までこれなんだ。つまんねーw

ヒロインのテイラー・シリングの前夫を演じるジェイ・R・ファーガソンが権力をかさにきたマッチョな保安官で最低野郎なんだけど、こいつが元嫁と息子と仲良くしてるザック・エフロンに嫉妬して越えちゃいけない一線を越えちゃうんだけど、ザック・エフロンに完璧なまでにいなされちゃうのね。ザック・エフロンとしては誰も傷つかないように配慮して完璧に振る舞ったはずなんだけど、ファーガソンにしてみればその振る舞いが完璧すぎて最高に屈辱的なわけ。ただでさえ切れやすい奴なんだから、そりゃ切れるよねっていう。

まあそういう男のパーフェクションを見せつけられ続け、上記のようなモテ要素を自分が1つも持ち合わせていないことを確認するのも「悪くない」です、ハイ。お母さん役のブライス・ダナーもものすごい勢いで「悪くな」かった。かわいい子役のバイオリンが「Not bad」って言われてましたけど、そういうことです。

もしもシリーズ。もしも溝口が現代パリで怪談を撮ったら

「愛の残像」フィリップ・ガレル
映画自体はめっぽう面白かったんですが、上映状態に大いに不満がありました。上映始まってから気づいたのですが、デジタル上映でした(@イメージフォーラム)。名カメラマンとして知られるウィリアム・ルプシャンスキーのモノクロ撮影ですから、それは美しい「フィルム」だと思うのですが、デジタルでは粗さが目立ち、とてもじゃないけど美しいとは言えない仕上がりになっていました。

シャブロルの「石の微笑」に出てたローラ・スメがヒロインを演じているのですが、彼女のフランス人的な恋愛イラチっぷりが前面に出ててよかったですね。愛に生きる男と女っていうのはどちらかといえば古典的なフランス映画のテーマだと思うんですが、後半の「怪談」っぷりがこの映画をフレッシュに見せてくれていると思います。ガレル版「雨月物語」と言っていいんじゃないかと思います。新作ですけどすでに古典的名作です。

ダメイジング・グレイス

「アメイジング・スパイダーマン」マーク・ウェブ
サム・ライミもそりゃ意外だったけど「500日のサマー」の監督が「スパイダーマン」っていうのもまたよくわからない人選だよね。サム・ライミは結果として職人監督としての腕前を余すところなく見せてくれたわけだけど、マーク・ウェブはどうだったかな。

僕が「500日のサマー」でイヤだったのは結局主人公の男があれだけの(と言ってもただの)失恋を経て、老境にさしかかりなお、自分をふった1人の女を許せないでいるっていう「成熟を受け入れない姿勢」だったんですね。いい年こいたおっさんがグチグチ昔話をして失恋を総括できずに未だに引きずってる相手の女をビッチ呼ばわりしないと気がすまない、そういう子どもっぽさを自嘲気味に冷笑するっていうのがこの映画の正しい見方だったんだろうけど、僕は映画でも現実でもそういう「子ども=成熟を受け入れない大人」はあまり見たくないんです。脇役ならまだしもそういうのが主人公とか勘弁してほしい。

マーク・ウェブというのがそういう映画を撮って出てきた人だってことを踏まえて今度の「スパイダーマン」を見ると、やっぱりそのルサンチマンに満ちた手つき(笑)が出ちゃうのね。ピーター・パーカーは元々ヲタで新聞部でメガネでどう考えてもぱっとしないキャラなんだよね。で、普段からピーターのことをぞんざいに扱うバスケ部でイキッってるヤンキーがいて、こいつに一泡吹かせる描写で溜飲下げるのはお約束なんだけど、これが何とも居心地が悪いというか、スッキリしないんですよね。端的に言ってやり過ぎなんです。クモに刺されてイケメンキャラになってくパーカーはいい(オドオドしてたヲタが1人の男に成長していくっていう話でもあるわけだから)として、あの相手のキャラをあんなに卑屈な奴にしていく必要はないんですよ。やり返したらそこからは対等でいいじゃないですか。メジャーの監督になってあのときのあいつに仕返ししてやるっていうボンクラ感丸出しなところがダサいんですよ(そういう自分が客観視できてないからやり過ぎが「芸」になってないんです)。

ヲタリュックから携帯を取り出すとかいうディテールでは笑いとろうとしてるけど、こういうリアルなルサンチマンが丸出しになってるとたまに面白いこといっても笑えないんですね。ライミはここの微妙なさじ加減が絶妙だったと記憶してます。なんというか、ライミは大人なんですよ。マグワイアのオドオド感残しつつ、いざって言うときには「俺が守る」的な男らしさをちゃんと見せるっていう。それが非常にうまかった。グウェンとの恋も、育てのおじさん、おばさんとの関係も、エモーショナルな変化をちゃんと物語の推進力にしてたんですよね。たまたま超能力を手に入れたヲタが調子づいてるだけの今作に比べてライミの方は大人の映画だったなと振り返ったわけです。

余談ですが、原作でどうなってるか知りませんが、糸を出すギミックをガジェットに頼ったのも個人的にいただけませんでした。あんなお手製の機械じゃいざっていうときに信用できないし、オーガニックでこそスパイダーマンじゃないですか? あそこまで身体能力上がって、壁にへばりつけて、糸だけはギミックって、遺伝子操作の意味がなくない?好みの問題は別にしても、「クモ人間」という怪物への変容を外的に示唆する唯一のシルシなわけじゃないですか、糸が出るっていうのは。だから、大袈裟かもしれないけど「手首から糸が出る」という描写はパーカーが「怪物」として生きることの覚悟を引き受けることでもあるわけです。そういう意味でも今度のウェブ版スパイダーマンは「異形」として生きる覚悟を引き受けていないから薄っぺらかったんだという言い方もできると思います(一カ所、「マキロンか!」というツッコミ待ちのシーンがありましたが、そこは笑いました)

さらに余談で、あのトカゲモンスターはレプティリアンの存在を示唆しているとかいうオカルト畑の人が絶対いると思いますが、その意見には基本的に賛成ですw まとめると、まあまあ面白かったので星4つ(無理あるか)。見には行くと思うけど、続編とかもういいぜ。