2012年6月27日水曜日

全身饒舌家


ミュージシャンでも作家でも漫画家でも映画監督でも芸術家でも芸人でもアスリートでも学者でも、本職以外のところで饒舌というか多弁な人にあまり惹かれない。ウォッチの対象として興味深いということはもちろんあるし、単純に言ってることが面白いとか正論だとか感じることはあるんだけど、なんか素直に笑えないし頷けない。

たぶんこれは僕自身に足りないストイシズムを彼らに求めてるからだと思う。一番格好いいと思うのは「自分、言いたいことは全部作品に込めてますから」的なアティチュードで(もちろんそれすら言わない)、メタ語りや自己(作品)言及などもってのほかっていうのが理想的だと思ってる。だって「作品」こそが自分(作家)にとって一番伝わる「伝達手段」のはずだから。

まあ今日びの表現者の多くは明治大学的な「前(のめり)へ」という姿勢が義務づけられているでしょうから、「露出」を避けるなんていうことは特権的な一握りの人にしか許されていない贅沢かもしれませんが、ああ、この人はツイッターをあくまでプロモーションツールとして捉えているなという職人根性(決して私情を吐露などしない)を見ると応援したくなりますね。

などと譫言のように申し上げましたが、内容云々ではなく「語り」という行為そのものが芸の域にまで達しておられる方もいらっしゃいますし、「作品」よりもインタビューやツイートの方が面白い作家さんもご本人は不本意かもしれませんがわたしゃ全力で愛してますよ。

2012年6月21日木曜日

気が利く人論 〜飲み食い編〜


いますね。居酒屋とかでグラスが空になった人(なりかけた人)とか見逃さないで「何召し上がりますか?」ってできる人ね。空いたグラスや皿を下げて、料理を小皿に取り分けて……。かく言うワタシトテ立場上そういうことをすることもあります。しかし、残念ながら決して気の利く方じゃないんですよ。ですから、そういうのは(より)適職の人がいたらお任せするんです、立場関係なくね。肉焼くのうまい人がいてその人が焼きたがってたら、それがたとえお客さんであっても社長であってもやらせて差し上げるんです。

そこまではいいんですけど、僕がツラいのは「気が利く人」の視線なんですよ。「ほら、お客様のグラスが空じゃないですか! 早く注いで差し上げて」とか「お客様に肉焼かせるとかあり得ないでしょ?」っていう。気が利く人っていうのは、当然他人にもそうした気遣いを要求してるんじゃないかと思ってしまうんです。被害妄想かもしれませんけど、少なくとも僕は気が利く人からそういうプレッシャーを感じて、そういう場でも楽しくおいしく飲み食いできなくなってるんですよ。一方で、後輩なんかに「お前もっと動けよ、何座って飲んでんだよ、こんなこと男に(先輩に)やらせんなよ、ホント気ィ利かねえなぁ」と思うこともありますけど、彼(女)を否定することは自分を否定することにもなるので(笑)、説教もしませんしプレッシャーもかけません。各々が自由にしてればいいんで、よっぽどのことがなきゃ放っておきます。空気読まずに自分が食べたいものだけ注文してる奴とか地味に応援してるくらいなんです。

結論から言うと僕自身は気遣いされること自体が鬱陶しいんです。うれしくもないんです。放っておいてほしいんです。人の注文センスには期待してませんし、食べたいものや飲みたいものがあれば注文しますし、店員も自分で呼べます。斯様な(過剰な)気配りを受けることにある種の気持ちよさを感じる人がいる(=そうされないことに不快感を感じる人がいる)ってことはもちろん知ってますけど、そんな奴どうせろくでもない糞野郎なわけでしょ。そんなことよりも正味の話をしたいし、冷めないうちに食べたいし、かわいい子を口説きたいんです。

まあいつもと同じ結論ですが、そういう「気配り」こそがおもてなしだと思ってる人は、自分こそがそうやってもてなされたい人なんだろうな。面倒くさい奴だなあってことです。そういう人には偉くなってほしくないですね。負のスパイラルが形成されるから。

もう1つの結論として、おそらくそういう風に「気が利く人」というレッテルを貼られてるような人は実際にダメな人で、本当に気が利く人はさりげなく気づかれないうちに自然にそういうことをしてる人なんだと思います。「○○君は気が利くねえ」なんて言われたら負けでしょ。そんな風に言われたいと思ってる人は最低でも3年は世の中と自分をROMった方がいいですね。

2012年6月13日水曜日

涙について私が知っているいくつかの事柄

「サニー 永遠の仲間たち」カン・ヒョンチョル
2回目なので、ディテールを十分に味わうことができました。思いっきりネタバレするので、これから見るつもりの人は見ない方がいいかも。まあ何いってんのかわかんないと思うけどw

■2カ月問題(1)
ナミがチュナの病室で夫からの電話を受けて突然の出張を知らされるシーン。そこでナミは「え、2カ月も(出張するの)?」って夫に聞き返すんだけど、その直前にチュナは余命2カ月を宣告されたってことをナミに話してるのね。そこで交わされる気まずい視線。「2カ月も会えない」と「2カ月しか生きられない」のギャップにウル。


■2カ月問題(2)
2カ月の夫の不在が主人公ナミの行動の制約をなくすためのご都合主義だっていう指摘はまあその通りだとしても、その料理の仕方がすごいうまい。出張帰りの夫を空港に迎えに行った帰りのタクシーでチュナの訃報を聞くっていうタイミングの絶妙さ。かつての通学路を横目に、サニーのメンバーとじゃれ合うチュナとタクシーの後部座席に座る現在のナミが切り返されるとき、つまりその視線の交差が描かれたとき、たまらずウル。


■タイムスリップ問題
この映画では何度かシームレスに過去と現在を行き来するような描写があるんだけど、これがいちいちうまい。まず母校を久しぶりに訪れたナミ。制服の少女たちがナミを追い抜いていく中で、突如、黄色いトレーナーの女の子が乱暴にぶつかっていく。そこでカメラがパンして80年代の私服の少女たちと田舎から転校してきた少女ナミ。現代の高校生のお行儀のよさ、80年代の少女たちの猥雑さ、期待と不安を抱えたナミの表情、これがワンカットってすごいでしょ。ウル。ちなみに職員室に入っていくところで現代に戻る。
朝寝坊して学校に間に合わないってわめく娘つながりで過去に戻るのもよかった。


■クムオクの姑問題
声だけの出演であれだけざわざわさせるのも大したもんだと思う。調度や美術、衣装もこの映画に魂を吹き込んでいた。


■パーマの子問題
個人的に、なのかどうかはわからないけど、あのライバルグループの小さい天然パーマの子はちょっとざわざわした。なんかスレスレだよなぁと。


■ちくわ問題
ダンス問題の後、スジの家を訪ねたナミ。スジの継母が筏橋出身の田舎者。2人で屋台のおでん屋に飲みに行くんだけど、なぜか2人とも赤い口紅を塗ってて、焼酎を飲みながら打ち解けて抱き合うナミの手に握られた串のちくわから湯気が立っててウル。この2人の関係はナミにとって「成長」を導く大きな礎となっている。この関係がエンドクレジット(以下「エンドクレジット問題」参照)のラストで最大級のウルを招く呼び水となっている。

■ベンチ問題(ジュノ問題)
夏のキャンプ、夜の湖畔でタバコを吸うジュノにナミが絵を渡そうと近づいていくと、スジが現れる。2人のキスシーンを目撃してしまったナミは泣きながらソウルに帰る。25年後にようやくジュノに絵を渡すことができたナミは、恋敗れてベンチでたたずむ少女ナミの隣に座りそっと抱き寄せる。ウル。ゲーテのドッペルゲンガーを思い出したがここでは関係ない。


■シンナー少女問題
場末の飲み屋でやさぐれてたポッキにもざわざわしたけど、やっぱり一番危なっかしかったのがシンナー少女サンミだった。スジとの対決に惨敗し、教師に楯突き、なおサニー参入を願う彼女の迫真の寄り目キメキメ芝居にはどこか「金八先生」というよりは「スクールウォーズ」的な退廃のにおいを感じた。彼女に関する問題だけはざわざわを残したまま終わってしまったので、彼女の安否を気遣う声は少なくない。


■ビデオ問題
少女たちが将来の自分に語りかける粗い画像にウル。もうみんな答え合わせができるから余計に悲しい。ポッキ、クムオクは特に。皆に催促されてポーズを取るスジ。大人になったナミに語りかける少女ナミ。決して不幸とは言えない現在が抱えてしまった虚無を少女ナミは浮き彫りにしてしまう。夫からの呼びかけ(テーブルの上で震えるiPhone)よりも少女時代の自分からの呼びかけに耳を傾けることで、彼女は自分の人生の「主役」の座を取り戻したのだ。このビデオをチュナに渡される前に、病室のベッドで向かい合って寝たナミとチュナの会話もウル。


■葬儀問題
安易なハッピーエンドを印象づける遺産相続だけど、ウル的に一番来たのは、ラストのショット。ナミが病院で描いていたチュナの遺影が、文化祭の時の青いスカーフのチュナの絵に替わってるっていう。あれはずるいわ。トドメの一撃だったね。


■エンドクレジット問題
トドメの一撃を食らった後だが、これほどエンドクレジットで席を立てない映画はなかったと断言しよう。サニーメンバーの各々の幸福といっていい顛末が、ナミのデッサンと思しき映像で示され、ラスト、チュナの墓標をセンターに並ぶメンバーたちが、年老いて1人ひとりその数を減らしていく。最後に残るのがナミとスジ。この年老いた最後のサニー2人の友情とそこに流れた年月を考えてウル。


■まとめ
これは「ものすごくうるさくて」のときにも似たようなことを書いたと思うけど、17歳の少女たちと42歳のナミが視線を交わすとき、そこには時間の現前とでも言うべきものが描かれてしまっているのだと思う(蓮實先生には怒られそうだけどねw)。観客はナミという女性の25年の生きられた時間を、一瞬のうちに「補填」するように要求されるわけだ。無論そんなことはできっこない。できないから仕方なく泣くのだ。だから、ここで流された涙は、人は他人の人生を生き得ないという当たり前の不可能な事柄にこそ捧げられているのだと思う。

波乗れないジョニー

「ダーク・シャドウ」ティム・バートン
なんか色々まずかったと思います。カメラのブリュノ・デルボネルは「アメリ」とかソクーロフの「ファウスト」とかけれんみのある映像づくりは得意なはずなんだけど、何かこの映画では空っぽな安っぽい画面になってましたね。

200年前のバンパイア化した名家の長男が現代に甦ってお家再建っていくらでも面白くなりそうな話なのに脚本もまとまってなかった。画面のテイストもプロットも終始散漫だったね。

個人的にイヤだったのはきれいなものとか古くから大事に使ってきた(という設定の)ものを大した意図もなく雑に壊すところ。エヴァ・グリーンとデップのアクロバティックな絡みとかも別に笑えないし(その後の壮絶な賢者タイムを生み出すための仕掛けと言えなくもないけど)、復興した屋敷とか工場を粗末に扱うのも、なんかもう生理的にダメでしたね。

結局、ものだけじゃなくて人の扱いも雑で、ただ金もらって息子を置いていなくなる親父とか何の落とし前もつけてないし、ヴァンプ化したヘレナとか、実は●●だったクロエとか、脈絡なさすぎでバートンにしてはまったく緻密さを欠いてましたね。バートンはあまり興味がないであろうエヴァ・グリーンのオッパイはよかったと思います。

2012年6月11日月曜日

黒沢清、女優を撮る

「贖罪」黒沢清
WOWOWで放映した湊かなえ原作の連続ドラマをオールナイトで鑑賞。「オチ」のひどさに目をつぶれば各女優のパートはメチャクチャ面白かった。でも本当は、脚本家であり演出家であったキヨシがオチを含めて原作をどう料理したかという、苦心の痕跡がありありと見える様がファンにはたまらないのだ。まあでも第5話はどう贔屓目に見てもわけわからんよね。

蒼井優と森山未來、小池栄子と水橋研二、安藤さくらと加瀬亮、池脇千鶴と長谷川朝晴。で、ラストに小泉今日子と香川照之。とまあ男女の話を主軸に25歳の女たちが15年前のトラウマにそれぞれの形で落とし前をつけて行く話なんだけど、オムニバスとして見ると、最初の4話は出色の出来映えだったと思うんです。

黒沢清がここまでまっすぐ「女優」撮ったことってなかったよね。このドラマを見たあとだと「叫び」の小西真奈美とか「LOFT」の中谷美紀とかもなくはなかったけど、いわゆる女性性の体現者という意味での女優ではなかったんじゃないかという気がしてきます。あくまで俳優っていうかね。(あ、洞口依子……。)

これってなんだろうって考えたときに一番わかりやすいのはやっぱり「テレビパワー」なんじゃないかなってこと。外的な圧力がどこまで働いたかは知らないけど、映画ファンじゃなくてテレビ視聴者に向けてつくるっていうのはもう無意識レベルでいろいろと違ってきてしまうと思う。

突出した作家性が一般性を獲得しようとしたとき、作家性は埋没してしまうんじゃなくて、よりその輪郭をくっきりと浮かび上がらせるんじゃないでしょうかね。否応なく出てしまう手癖みたいなものが突出して見えるんですね。結果、「テレビドラマ」とも「映画」ともつかないとても奇妙な傑作になっていたと思います。

トークショーに来ていた安藤さくらの、監督の意図に自分の拙いアイデアを乗せちゃうことで台無しにするのはもったいないと思ったから何もしなかったという趣旨の言葉にはとても聡明さを感じましたが、まさにその通りで、何もしないことで女優たちは演出家によって最良の部分を引き出されていましたね。

このドラマを撮ったことが少なからず映画監督黒沢清に影響を与えたと思うと、次回作以降がますます楽しみになります。

2012年6月7日木曜日

畏れと降伏と貪欲さ

マキタスポーツのメルマガから(以下引用)

「……話してて思ったのは、若くしてデビューしてさ、ちゃんと評価を得てきた人は、
妙な性格的な屈折とか、受け答えにおいての貧乏臭さがなくて、
あるのはそれぞれがそれぞれ違う個性での風格なんだよね。……」(以上引用)

これはマキタスポーツが奥田民生と初めて話したときの印象なんだけど、すごいよくわかるんだわ。普通の人はあるもんね、「受け答えにおいての貧乏臭さ」。俺なんかもそういうのすごいあったから。ひとかどの人物だと思われたいがために(そんなわきゃないのに)、思ったことをそのまま表現するってことができないんだよ。無駄にひねったり、こねくり回したり、盛ったりすんの。今でもたまにやっちゃうもんね。わかるわ〜。わかってちゃダメなんだけど(笑)

でもね、自分がそうだから言えるけど、別にナチュラルボーンストレートじゃなくても(そんなの希少種なんだから)屈折経て一周してストレートにもなれるんだよ。俺は人の目ばっかり気にして、周りのご機嫌を損ねないことだけを旨として生きてきたんだけど、30越えたくらいから開き直れたんだよね。自分どうこうよりも相手の強さとかポテンシャルを信じられるようになったんだと思う。人間、ちょっとやそっとのことじゃ傷つかない。これは自分の体験を通して気づいたのかもしれない。

特にインタビュー仕事を始めてからは、敬意と言うか、数十年自分とはまったく別の生を生きてきた人から得るものがないわけがないと本気で思うようになった。他人からそいういう「資源」を掘り出すことに興味がわいたのかもしれない。これはご機嫌うかがってるだけじゃ絶対に掘り出せないからね。こっちから掘りに行かないと。相手がお仕着せて来るものもあるけど、そういうのって大抵形骸化した概念でしかないんだよ。正直つまんない。

今じゃ偉い人にもそうじゃない人にも、周りが冷や冷やするような直球をよく投げる(らしい)んだけど、それなりに社会経験も積んで人並みに修羅場もくぐってきた人なら大抵の球は普通に打ち返せるんだよ。失礼のないようにってビクビクしながら、松井に「あなたこれちゃんと打ち返せますか?」って緩い変化球放るのなんてそれこそ失礼以外の何ものでもないでしょ。直球投げることを怖がってる人っていうのは結局自分が直球投げられたくないだけなんだよ。そのうえ相手のことを「自分と同じような小物」だと見積もってるってことを露呈させちゃってるわけ。そんなの最悪でしょ。

それよりは相手を心底畏れて信頼して委ねてれば(できなければ、そういうふりだけでもすれば)、多少言い回しが失礼だったとしてもそんなことはまったく問題にはならない(少なくとも当事者間では)。ちゃんと靴脱いで、揃えて、お邪魔しますって言って上がれば、何も失礼なことはないわけで、敢えて損得の話をするなら、そうやって相手のホームに上がり込んで話聞いた方が、垣根の外からビクビク眺めてるよりも「もらい」が大きいわけ。それで相手が気分を害するようだったらまあ残念だけど、そういう人だってことだよ。まあ得るべきものもなかったとあきらめるんだね。幸いそんな人に会ったことはないけどね。

俺が反省するのはもしかしたらもっと奥までいけたんじゃないか、もっとたくさん引き出せたんじゃないかってことだけで、間違っても失礼だったんじゃないかなんてことには考えも及ばない。でも実際はビックリするくらい繊細な、つまり成熟していない大人もいるよね。それはそれで残念ながら確実にいる。まあ日常相手にしなきゃいけないのはそっちの方だったりするのだが、そんな人からでも得られるものは確実にあるというのは好むと好まざるとにかかわらず事実なわけだから、「謙虚さ」を称揚するよりはむしろ「貪欲であれ」「もっと欲しがれ」っていうのが正解かもしれんね。

2012年6月6日水曜日

サニーサイドの生還者

「サニー 永遠の仲間たち」カン・ヒョンチョル
韓国のOBAさんたちがはしゃいでる予告編を見たときは「これはないな」と思ってスルーするつもりだったんだけど、ツイッターのTLで信用できる人たちがやにわに騒ぎ出したので、会社を早引けして慌てて駆けつけました。そうです、私はこういう「口コミで広がる情報の終着駅にいるおじさん」です(笑)

「韓国映画」を語れるほど本数は見てない、というかお墨付きをもらった数本のものしか見てないけど、今の韓国は間違いなく傑作と呼べる作品を相当数つくってるんじゃないだろうか。00年代頭の「子猫をお願い」くらいから始まって最近では「哀しき獣」まで、これらの映画には、やかましくて、直情的で、乱暴で、大袈裟で、恨みがましくて、お節介な「僕のよく知っている韓国」がきちんと映りつつも、優しくて、内気で、忍耐強くて、礼儀正しくて、大らかな「僕のよく知らなかった韓国」が映し出されている。そのどちらをも今や「韓国っぽい」って感じるんだけど、結局のところ「韓国っぽさ」っていうのは人間っぽさの謂いだと言ってもいいんじゃないだろうか。

つまり、韓国映画には振れ幅の大きな、あけっぴろげな民族性をありのままに描き出すことでむき出しの「ヒューマン」を描きやすいっていう特長があるんだと思う。これは「映画」にとってはこの上ない僥倖で、なかなか今の日本で同じことやろうと思っても難しくて、正直ちょっとずるいとすら思うんだけど、逆によくできた韓国映画は積極的にこのずるさを活かしているという側面もある。

この「サニー」もそういう「ずるい」映画の一本で、「面白いデブ」とか「アネゴ肌」とか「クールビューティー」とか、そういう戯画的なキャラが特に「過去」を描いた場面ではすごい生々しく見える。一方で、かつてのが戯画的なキャラの角が取れてのっぺりと平板化してしまった時代としての「現在」があって、不意に甦った過剰な過去が平板化した現在を大きく揺り動かす原動力になっているっていう物語の構造はシンプルだけどとても力強い。

この映画が恐ろしく涙腺を刺激するのは、ひとつには「過剰な過去が平板化してしまった」=「かつてそうであったものが今はそうではなくなっている」という当たり前のことを描いている(第一波)からなのだが、そのような変化を諦念とともに受け入れるだけではなく、「平板化した現在が過剰さを取り戻す」=「今もなおそうであってもいい」という事実を彼女らが受け入れていく様(第二波)を見せてくれたからなんだと思う。母や妻や嫁を演じることが「生」と同義語になってしまった彼女らが、何者をも演じずに生きていたリアルな生を取り戻すプロセスがまた感動的なのだ。

お客さんが多かったので努めて理性的に分析的に鑑賞しましたが、ほぼ全編にわたって容赦のない「ウル」トラップが仕掛けられているので、泣こうと思えばいくらでも泣けますね。泣くためだけにもう一回行きたいくらい。語りたくてしかたがないディテールについては、この映画を観たおじさんやおばさんらとオフラインで語らうとしよう。それもこの映画の大きな楽しみのひとつだからね。

僕の中では「モテキ」のように「今、スクリーンで観るべき映画」の筆頭に挙げられる1本ですね。あと、「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」もお忘れなく。最近すごい面白い映画しか観てない気がして怖い。