2012年1月30日月曜日

そうさぼくらはエイリアンズ

「宇宙人ポール」 グレッグ・モットーラ
イギリスからUFOスポット巡りのためにアメリカに旅行に来たSFオタクのボンクラ2人組が、軍の施設から逃げ出してきたグレイタイプの宇宙人が母星に帰るのを助けるというシンプルなストーリーにして、コメディーであり、ロードムービーであり、ラブストーリーであり、SFであり、成長譚であり、どれもちゃんとジャンルのオーソドックスを踏み外さないで見せてくれる本当に良質なエンターテインメントですね。何度か声出して爆笑したし、最後はボロ泣きでした。

ディテールに言及している人はたくさんいるだろうから他に譲りますが、フレンドリーな異星人っていうのは(代表作として「E.T.」がありますが)敵対的な異星人に比べて圧倒的に少ないんですね。これは単に「ロサンゼルス最終決戦」みたいな国威発揚映画の方が(アメリカが)盛り上がるからというのがぼくの推測です。だからというのもあるのかもしれませんが、打率でいうと「フレンドリーな異星人」ものの方が面白いものが多いと思うんですね(もちろん「スペース・バンパイア」とか「宇宙戦争」とか敵対的な異星人ものの傑作もいくらでもありますよ)。これって何でかなって考えてみたんです。

おそらく異星人を「敵」と設定した時点でコミュニケーションの可能性が閉じられてしまうんですね。一方で、敵対が前提でないというだけで異星人という恐ろしく自己とはかけ離れた他者との間にコミュニケーションの可能性が一気に開く。前者が同胞(軍隊、家族、国民)とのホモソーシャルな絆を深めるというドラマにしか発展しないのに対して、後者は常識の枠を壊すことによってしかコミュニケーションが成立しない。つまり、何が起こるかわからないわけです。どちらが映画として面白くなりうるかと考えたら、それはもう圧倒的に後者になるはずなんですね。後は作り手次第。(「地球が静止した日」なんていう異星人目線の映画もありましたね。あれも面白かったですが)

要は、敵対というアティチュードが相手とのコミュニケーションの可能性を閉ざしてしまうということだと思うんです。やらないとやられる。俺は家族を守る。国民を守る。まあ間違いではないし、有無をいわさず攻めてきたらそうなってしまうのも致し方ないんですが、理想論を言えば、そうなる前にあちら/こちらという線引きを無効化するようなコミュニケーションを試みましょうよってことですね。そのためには知性とユーモアが必要なんだよ、というのがこの映画の謂だったように思います。

あと余談ですが、この映画のイギリス男2人と異星人っていう構図はイギリス女2人と移民男(エイリアン)っていう「J・エドガー」の逆ですね。主人公2人に「何だお前らホモか?」とけんか売ってくる2人組の男たち(いかにも中西部的なタフガイ)の方がよっぽどホモっぽく見えるというシーンがありましたが、閉鎖的な同質性よりはヘテロセクシュアル(異性愛=異星愛?w)の方が本当の意味でセクシャリティーとしてはゲイ(喜ばしき性)なんじゃないかなぁと思いましたね。


「青い青い海」 ボリス・バルネット
いわゆる「ルビッチ状態」(男2人に女1人)が「宇宙人ポール」から続きました。カスピ海南岸のコルホーズを舞台にしたルノワールの「ピクニック」を思わせる恋の鞘当て的なお話ですが、牧歌的度合いにおいてはこちらの方が優っていますね。

冒頭、主人公たちが漂着した島の浜辺で、潮干狩りか何かをしている女たちがなぜかがかがんで身を低くしている。次のカットで猟銃を持った男が鳥を狙っているんだけど、全然当たらない。この男の銃の腕前が信用ならないために、銃声がするとみんな習慣として隠れていたという、これ以降のストーリーと何の関連もない牧歌的なエピソードが、場違いなくらい鮮やかに自由に突出していて、映画ってこれのことだったんじゃなかったっけという思いが頭をもたげる。

メインのお話はヌーベルバーグ的といっていい1人の女を巡る2人の男の葛藤。そりゃもちろん面白いんだけど、それに通底している天真爛漫な「人間愛」としか言い様のないものがどのシーン、どのカットの、どの齣の、どの部分を見ていてもフィルムに浸透しているようで、それを客観的にしか感じることができない自分をどこか恨めしく感じてしまう。何で自分はこういう風に自由じゃないんだろう、何で自分はスクリーンのあちら側にいないんだろう、と。共産主義政権下のソ連の方が今の日本よりも全然風通しよくて楽しそうじゃん。

これって北朝鮮のプロパガンダ映画にやられちゃった人と同じなの?w

2012年1月29日日曜日

あるいは「THE END OF AMERICA」


イーストウッドという人はこれまでも様々な形でアメリカという国の病理を告発してきた。ときに冗談めかし(「ブロンコ・ビリー」「スペース・カウボーイ」)、ときに深刻な面持ちで(「ミスティック・リバー」「グラン・トリノ」)。そしてついに、事ここに至って彼はついにアメリカという国を「総括」してしまった。「ヒアアフター」の日本公開から2週間後にあの地震が起きたことを考えれば、この公開時期は恐ろしいほど時宜に適っているというほかない。

民主主義国家の一政府機関の首長が専制国家の君主のように48年もの任期を務めた(ムバラクよりもカダフィよりも金日成よりも長い!)というだけでもその事態の異常さが透けて見えるだろう。この映画はFBI長官のJ.E.フーバーがその人生の終幕にさしかかり、おのが虚飾に満ちた人生の最後の包装紙としての「自伝」を綴るという形で描かれる。

母に英国女王たるジュディ・デンチ、そしてその息子に移民の子レオナルド・ディカプリオを配役することで、イーストウッドがフーバーその人にアメリカを体現させていることは言うまでもないだろう。

いわゆるオカマが女性よりも女性らしいと言われるように、演じられた者は常に過剰さを身にまとう。フーバーがその母によって演じることを強いられた「強い男」の過剰さ(らしさ)は虚勢、排他性、攻撃性、性倒錯としてドラマチックに表現され続けた。そして、その過剰さにイーストウッドはアメリカの似姿を見出したのだ。「我々はかくも狂気に満ちていた」と。

母と妻(ジュディ・デンチ、ナオミ・ワッツともに英国人)という二人の女性によって拒絶され去勢されつつ、なおもマチスムを強要されるというアンビバレンツを生きなければならなかったという不幸こそがアメリカだった。「繊細な野暮ったさ」を身にまとったフーバーを陰とすれば、アメリカの陽の部分をいかにも西海岸的な「野蛮な洗練」を身にまとったアーミー・ハマーが演じているという点も興味深い。

「アメリカ映画」においてこれだけの辛辣さが許されるのは、アメリカ人の鈍感さの上に胡坐をかいているというだけではなく、この映画が大上段に国家や政治を語ることを周到に避けていたからだと思う。あくまでジョン・エドガー・フーバーその人のテリトリーからこの映画は一歩も外に出なかった。キューバ危機はおろか、第二次大戦すらまったく触れられることなく半世紀を生きたアメリカの政府機関の長の人生を語るという離れ業をこの映画は素知らぬ顔でやってのけた。だがそれはこの映画の倫理である以上に、フーバー=アメリカの相似形をより際だたせるための手法として見事に機能した。

加えて、この映画のあからさまに失敗している特殊メイクと照明は、フーバーという男がまとってしまった「不自然さ」を強調するという役目を図らずも担うことで、この映画の完成度を高めることに貢献していたともいえる。

ともあれ、イーストウッドがこんな映画を撮ってしまった以上、もうアメリカは終わるしかない。

2012年1月28日土曜日

なぜサイレントは3Dよりもつまらないか?

なぜかくもサイレント映画にアクセスする機会が奪われているのかと考えるが、それはあまり意味のある考察にはなりそうにない。ただ単にそれは私たちが3Dの方がサイレントよりも面白いと感じているからだ。言い換えれば情報の「量」だけを志向しているからだ。

だが、ひとつ注目したいのは提示されている情報「量」と私たちが享受できる情報「量」の間に相関関係はないということだ。チャーハン特盛りを頼んでも一口しか食べないで残してしまえば、半チャーハンを完食した人よりもいただいた「量」は少ない。それは畢竟、食べ手の食欲や胃袋の大きさの問題になってしまうのだ。それをリテラシーとパラフレーズしてもあながち間違いではないだろう。

ぼくは「量」を志向する性向は別に悪くないんじゃないかと思っている。ぼく自身も「量」に対して貪欲なところがある。ただそれは目の前に出された料理の量じゃなくて、自分がおいしくいただける最大「量」のことだ。

「できるだけたくさん、おいしく食べたい」と言うとき、たくさんは絶対量ではなく、あくまでその人個人の受容可能量に依存する。そして、おいしく食べたいと考えたときに初めて「質」(これも個人の嗜好に依存する)への要求が生まれる。本来ならそこがスタートラインになるんじゃないのかね。

生まれてから一度も豚肉を口にしたことがないというイスラム教徒が、あるレストランで「何だ!この料理には豚肉が入ってるじゃないか!」と怒るというジョークがあるけど、まあ食ったことがないものは食ってみるのが面白いんじゃないかということで。

2012年1月27日金曜日

いい人であるということ

「国境の町」 ボリス・バルネット
戦地の最前線で塹壕から出てきた兵士たちが敵国の兵士たちと互いに手を取り抱き合うという夢想的なシーンのナイーブさと、バルネットのソ連邦における自死とが直截的に結びつきすぎてツラい。かくも自由で優しく繊細な感性には、この世界はさぞ生きにくかっただろうということが容易に想像できてしまうのだ。そこで描かれている友愛の精神が力強く無垢であればあるほど、それは友愛の精神に満ちていない現実を生きる私たちにとって残酷さを増して見える。

たとえば「アタラント号」のバケツのシーン。全然悲しいところじゃないんだけど、あの見るに堪えない純粋さが、「それを描いてしまった者」に対する共感や畏怖としてスクリーンの外側に立ち現れてくる。無視しがたい「メタ」が表出してしまうのだ。そして、事後的にだがその純粋さはそれを描いた者の夭折や自死とこれ以上ないくらいの説得力を持って結びつき、私たちの心に沈潜する。そんなとき私たちは「ああ、やっぱり」とうなだれるほかない。

おそらくこれはエンターテインメントとしては完全に失敗だ。そこで描かれている世界に私たちが没頭できないという意味において。しかし、エンターテインメントにおいて観客の没頭が消費と同義であるなら、この没頭とは別種の経験こそが映画なのかもしれない。

2012年1月24日火曜日

効率という病

大学生の頃、中野の公園でフリスビーのフォアハンドスローを成城大学アルティメット部の部員に習ったことを思い出した。2人でキャッチボールならぬキャッチディスクをしていたところに、そのフォームがあまりに美しく、そして不可解だったので思わず教えを乞うたのだ。

右足前のスタンスで、ひざの高さでバックスイングをとって、右足加重のまま投げるというのだ。当時の私は、そうした動きが「フォーム」として理論化、言語化されていたことにまず驚いた。実際にやってもらうとわかると思うが、日常生活の中ではまったく似たような動きがなくひどく不自然に感じられた(今思えばナンバの動きやカットマンのフォアカットに近い。現代日本人の生活になじみがないだけということなのかもしれない)。特にディスクを前に投げ出す推進力が得にくいのだ。素振りを真似するだけでもギクシャクしてしまって、何度もおかしなところを指摘された。勘所の悪い私にアルティメット部員の1人はまずは理屈で納得させようと「重心を下げる力を回転運動に変える」という言葉で説明してくれたのだが、余計混乱したことを覚えている。垂直方向のエネルギーが何で水平方向のエネルギーに変わるんだよと。

しかし、教えを忠実に守りその後も素振りや投擲を含む練習を一人のときも続けたところでひと月くらいでその動きが不自然ではないと感じられるまでになった。「重心を下げる力を回転運動に変える」というやり方も実感としてわかるようになった。そしてわかったことは、畢竟「フォーム」とはすべて文化的なコードに縛られている「不自然な」動きだということだ。人は訓練によって「不自然な」動きを体得するのだと。今読んでいる内田樹と成瀬雅春の対談本に同じようなことが書いてあってふとそんなことを思いだした。

形(かた)を真似ることで本質が宿るという理屈も、形は結果に過ぎないのだから真似ても本質には到達できないという論も、どちらも本当だと思う。原理主義者としてはなんとしても本質(原因)を探り当ててそこから必然的にたどり着く結果に向けて出発したいという強い願望があるのだが、効率や明快さを求めることで失われる有形無形の情報やエネルギーも少なくないという自戒もある。結局は夢中であれこれやっているうちに気がついたらできていた、そこにたどり着いていたというのが一番の近道なんだと思う。効率的にゴールにたどり着くためのメソドロジーを確立することに躍起になるよりは、素直に「始めてみる」「やってみる」ことの方が何百倍も「効率的」なのだ。

2012年1月13日金曜日

もっとわかりやすく書いてけろ

http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php
http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1518.php

この2度にわたるブログエントリーで樹先生は、ロラン・バルトの「零度のエクリチュール」について『「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会から事実上隔離されているのである。』とそのエクリチュールの構造的な矛盾を指摘し、『バルトの言語についての知見は、できるだけ多くの読者にリーダブルなかたちで示されるべきものであった。』と結論づけている。

激しく同意である。だからこそ樹先生の共同体の在り方についての知見もできるだけ多くの読者にもっとリーダブルなかたちで示されていいと思う。はっきり言って樹先生が採用しているエクリチュールは多くの市民には届かない。まだまだ「高踏的」過ぎる。もっと意地悪に書けば、高踏的なエクリチュールによって「大学教授」たり得ている部分がある。

大学という職場や樹先生の著書を自分からすすんで手に取る読者との間では、高度に知的なエクリチュールによってコミュニケーションが成立しうる。また、そのような高度に知的なエクリチュールでしかコミュニケーションが成立し得ない場所として大学があると言ってもいいのかもしれない。樹先生がどれだけ市井のリテラシーを過大評価しているのかわからないが、今の書きっぷりでは社会の垂直的な流動性が促されることはない。むしろ、バルトやブルデューがそうであったように、その意図に反して、高度なエクリチュールによって階層の固定化に拍車をかけてしまう。また、共同体の成員には必ず「アホ」もいて、彼らだけを相手にしないということはその共同体か小さくなればなるほど避けられないことになっていくはずだ。

樹先生がバルトやブルデューに望んだように、私も、内田樹のようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望む。

2012年1月10日火曜日

日本立て

「女めくら物語」 島耕二
16のときに病気で視力を失い、荒木町の置屋で按摩として身を立てた若尾文子のラブストーリー。置屋の主人で若尾の師匠に中村雁治郎。置屋に転がり込んでくる目明きのズベ公に渚まゆみ。こいつが若尾とは対照的な自己中心的な女性を痛快なくらい遠慮なく演じていて非常に腹立たしいw。置屋の居間で按摩さんたちがこたつに入ってくつろいでいるところで、雑誌に飽いた渚が突如ラジオを大音量でかけてゴーゴーを踊り出すところとかすさまじかったです。主軸になっている若尾とビジネスに失敗して難儀している宇津井健とのメロドラマとかどうでもいいんだけど、運命に翻弄される女という成瀬的な側面に非常に惹かれました。メロドラマの象徴的な舞台となる石段のセットがこれまた素晴らしかった。置屋はオープンセットだったと思うけど、こっちも魅力的な空間になっていました。こんな面白い映画のタイトルすら聞いたことがなかったなんてアンテナ低いですね。

「幕末太陽傳」 川島雄三
デジタルリマスタープリントということできれいだったんですが、そんなに騒ぐほどの名作か? と思ってしまったのは「女めくら物語」の後だったからでしょうか。落語「居残り佐平次」の翻案ですが、お調子者で機転の利く佐平次が肺病やみという設定がちょっとくらい影を落としていて、その第一印象とは異なって底抜けに楽しい映画になることを阻止してます。そこが引っかかりつつも魅力的な映画でしたね。石原裕次郎って若い時から本当に大根というか情緒を欠いた人だったんだな。

悪について

内田先生のメルマガ(http://yakan-hiko.com/uchida.html)インスパイアだけど、「邪悪さ」っていうものを設定したとして、それって場所(ポジション)に紐づけられてるんじゃないのか。あちら側に「邪悪」を設定することで無謬性を獲得していたはずのこちら側がそのポジションを取って代わったときに邪悪になってしまうという必然。座りたいと思ったら、椅子はあちら側にしかない。しかし、椅子そのものが「邪悪さ」によって規定されているのだとしたら「座りたい」という欲望をもう一度吟味すべきじゃないだろうか。それはとりもなおさず「邪悪になりたい」という欲望と等しいのだから。

ぼくがいわゆる「陰謀論」から足を洗ったのは「世界は自分の外側にある」=「自己は環境によって規定される」という諦念というか他力本願が陰謀論の根本にあるからだと思う。ぼくは直感的にこれは間違っているとあるときに気づいた。世界は実は自分の内側にある。

もうひとつは内田先生が書いているように、人間はおしなべて頭が悪い。それに気づいたからだろう。「愚民ども」を組織的に「支配」できるほどの緻密な知性と抜かりない行動力を持ち合わせている特権的な人たちなんていないってことだ。見ればわかるでしょう、「支配者たち」の杜撰なこと。だからもし自分が思わしくない状況にいるんだとしたらそれは幸い思わしくない状況にいない側の人も含めて、自分の、自分たちの頭の悪さが原因なんだということに気づけばいいんだと思う。

あなたの世界を窮地に陥れているものが自分の外側にある邪悪なものであると考えている以上、あながた邪悪に取って代わっても世界の窮地は変わらない。結局、ぼくらは自分たちの頭の悪さを引き受けるところからスタートするしかないと思うんだよ。

「悪」をナルシズムと看破したドイツのユダヤ人社会学者フロムは、ナチスの「糾弾」に終始した知識人とは一線を画していたと思う。

2012年1月6日金曜日

OSHOが通

アセンションイヤーのはじまりはじまり。

■「マネーボール」 ベネット・ミラー
「カポーティ」の監督だ。そういえば見逃したてたな。演出はうまいけど絵が記憶に残らない。ひとつひとつは面白い断片的なエピソードがエモーショナルな高まりを喚起しない。「そういう風につくってるから」って言うなら「そんな風につくるなよ」って言いたい。

■「永遠の僕たち」 ガス・ヴァン・サント
蓮實重彦がどこかで書いてたと思うんだけど、ガス・ヴァン・サントが撮っても撮らなくても映画史は変わらない。まさにその通りだと思うんですよね。嫌いじゃないんだけどさ。作品のひとつひとつのクオリティーはそこそこ高くても、あんまりそれに対してどうこう言おうっていう気にならない。文学作品の映画化じゃなくて、映画で文学作品つくろうとしてるみたいな、よく言えばタルコフスキー的な「野心」を感じるんですよね。ぼくは「文学っぽい」のも鼻白んだりせずにどっぷりアゴまで浸かって見れる方なので「死体ごっこ」も「モルグでデート」も「不治の病」(という概念)も嫌いではないんですが。アトラクション=上映時間が終わったらこういう白けたことしか書けないんですw 文学趣味をちゃんとやるなら加瀬亮の(文字通りの)霊的成長をもうちょっとちゃんと描いてほしかったですね。

■「脂のしたたり」 田中徳三
昔の日本映画って女優が本当に半端じゃなくきれいなんだよなぁ。「東京暮色」の有馬稲子とか「浮草」の若尾文子とか。この映画では冨士眞奈美でした。つくりの美しさっていうのももちろんあるんだけど、美人ていうだけじゃなくてちゃんとそう見えるように撮ってるんだよ。でもたぶんもうそういうノウハウが受け継がれてない。あるいはカラーになったときに御破算になった(これはたぶんウソ)。
イントロでは冨士眞奈美がファムファタル的な描かれ方してるんですが、これもはまってます。フィルムノワールの導入でちゃんと仕事をしてるんですね。サングラスかけてて素性が知れない、でも何か悪事に荷担してる怪しげないい女ってことで。ま、「死刑台のエレベータ−」のジャンヌ・モローですね。演出だけじゃなくて音楽もカメラも。しかしシネスコっていうのが味噌だよな。長身の田宮二郎と横たわる女、あるいは死体。
しかし今の女優だとこういうのが様になる人いないもんね。スタイルいい影のある美人、例えば黒木メイサとかがやっても戯画的になっちゃうでしょ。はまる背景がない。つくれない。それにしても田宮二郎、冨士眞奈美、久保菜穂子、成田三樹夫、金子信夫とみんな役どころと顔貌が驚くほどマッチしてるのね。
あとそっち系の人が喜びそうな「三国人」にリベンジする話でもあるので、そういった方向で溜飲を下げたい向きにもお勧めです。