2014年10月28日火曜日

形骸化したフォームは無益であるばかりか有害ですらある

感謝しろとか反省しろとか情熱を持って取り組めとか、そういうのは人に言われてできることではない。それどころか、それを強いられてできる振りをすることには大きな弊害がある。

スポーツでも自分の身体実感に添わない動きを繰り返していると、上達の妨げになる以上に、故障の原因にさえなることがあるのと同じで、実感を伴っていない感情がある振りをしていると、現実との間にギャップというか嘘が生じる。1回1回の嘘は小さくても、それは積み重なって心身に歪みを与えていく。それは自律神経失調症であったり、アトピーであったり、チックであったり、難聴であったりするのだろう。

難しいのは自分が嘘をついているという自覚がない場合。それでも小さな違和感を見逃さないこと、身体実感を精妙に感じ取ることで、こうした嘘の蓄積とそれが臨界点を超えたときに現れる症状を防ぐことができる。しっくり来るとか来ないっていうのは、意外に大事な感覚なので、世間体や常識よりは自分の感覚に忠実であることで、多くの問題は解決できるんじゃないかと思う。

あ、あたしちょっと前に不惑になりましたが、まだワクワクできることはあるようです。

2014年9月17日水曜日

昨日までのガラクタを処分処分

引越で色々なものを処分した。洋服、本、CD、VHS、映画パンフなどなど。録りためたVHSはすべて(タイトルを見るだけでも我ながら素晴らしいラインナップ 笑)。本は映画とスピ系を中心に残して、文学・思想系のほとんどとマンガすべて(松本大洋、岡崎京子、大島弓子、諸星大二郎、山本直樹……)。そのほか、数年間アクセスしていなかった諸々はアルバムや卒業証書にいたるまで処分した。パソコンもWindowsのデスクトップを2台処分してMacのノートだけにした。

これも、これもと切り捨てていくうちにドライブがかかってきて、ええ、そんなものまで?というものまでゴミ袋に放り投げ始める。たぶんここからが本当の断捨離だ。それでも執着心は折に触れて目を覚ます。やがてその執着心を自制心と呼べるまでに落ち着いてくると、2度と手に入らないものの数々を捨ててしまったことへの後悔が頭をもたげてくる。

究極の断捨離は「あの世に持って行けないものはすべて捨てる」なわけだから、減らしに減らしてまだ段ボール10数箱ではゴールはかなり遠そうだ。

2014年8月20日水曜日

「わあホンモノのお肉みたい」

先日の夜、初めて訪ねたインド料理屋さんで、お店が空いていたので厨房から出てきたインド人シェフと少し話した。ヒングやらタマリンドやらカロンジやらのマニアックなスパイスの話などをしているうちに「ブラックカルダモンはビーフによく合う」と言っていたので、すかさず「ビーフ?」と聞き返したら、ご主人はこちらの思惑を察してくれたようで「私はキリスト教だから、なんでも食べるよ。インドでもレストランではメニューに載ってないけど出してくれる。載せると怒る人がいるから載せてないだけ」とのこと。「インドのキリスト教徒はイスラム教徒と同じで豚肉は食べないけど私は食べるよ」と笑いながら話してくれた。調子が出てきたご主人は「ルールはルール。守るかどうかは自由。日本でもイスラム教の友だちいっぱいいるけどみんな自由にしてるよ。お肉もお酒も」ということでした。「食べたいけど食べられない」っていうのは切ないからね。

たぶん日本とか欧米のベジタリアンとかビーガンの方が真面目なんだろうな。真面目なのはいいけど、「なぜ食べないか」という本来の趣旨を離れてルールの遵守に躍起になってしまうっていうのは結構陥りがちな罠だよなと思う。僕は個人的には肉食を必要と感じられないようになればいいなとは思うけど、動物性蛋白を模したある種の豆料理やらグルテンミートやらを喜々として食べてるような観念的菜食主義者は頭がおかしいと思っています。

2014年7月30日水曜日

おじさんはなぜモテるのか?

誰かの示してくれた理解(とときどき承認)を愛情と取り違えるという過ちはしばしばある。とりわけ、その相手が異性の場合、この理解が関係を深めるきっかけになってしまったりする。そして、多くの場合、この理解は相互には成り立ちにくいため、幸福な結末というのは考えにくい。

ほとんどの自立していない男女はこの「理解」にめっぽう弱い。「わかってほしい」彼や彼女にとっては理解そのものは尊いかもしれないが、ある程度の洞察力を持った者にしてみれば、彼らが求めている程度の理解を与えることは実にたやすい。

一番たちが悪いのは、無自覚に他人に(特に異性に)理解を示したことで、相手の歓心を買うことを「モテ」だと勘違いする輩だ。おじさんとお嬢さんの間で、しばしば恋愛風の関係が成立するのにはこうした背景がある。 

いちおじさんとして悪用に努めたい。

2014年7月24日木曜日

徴は至る所に

「アルケミスト」パウロ・コエーリョ
久々に本の感想。アホみたいに悩んで苦しんで遠回りしてたどり着いた(かに見えた)ところが実はまだ目的地への過程の一部なんじゃないかという疑いは、どんな満足のいく状態にあったとしても常にぬぐい去ることができない。折り返し地点でも三里塚でも、それが本当のゴールではない以上、うつろいゆく過程の一部でしかないのだ。

「幸福」な状態とそれをもたらしている対象は、私たちの中に依存と執着を生む。私たちは多くの場合、その幸福が一過性のものであることから目をそらし、その状態と対象に変化が訪れたとき初めて、自分がその状態と対象に深く依存し、執着していたと気づくのだ。たいていの場合、それは対象の喪失という形でやってくる。

だから僕は、幸福な状態とそれをもたらしている対象に目を凝らし、依存と執着が生まれるメカニズムから注意をそらさぬように自分を見張り続けている。幸福な状態を無自覚に味わうことは放棄されたが、すべての代償がゴールにたどり着くために必要な過程だと僕たちは既に知っているのだから、それが苦しみでも喜びでも等しく享受すればよいのだと思う。

2014年7月15日火曜日

面白いおじさんが撮った普通の映画

「リアリティのダンス」アレハンドロ・ホドロフスキー
面白いおじさんが自由気ままに撮った普通の映画って感じでしたね。期待していたような超現実的描写や韜晦はまったくなく、それどころかこれ以上ないくらい明快で、そのあまりの明快さに鼻白むレベルです。父ちゃん、母ちゃん、ユダヤ系の出自、チリの政治をあられもない精神分析的な解釈を交えながら描写するってお前どれだけ天然なんだよって突っ込みたくなるのも無理ないですよね。そういうタブーというよりはド天然を元気よくやってるものだから、その元気のよさにやられちゃう人もいるんでしょう。ただ、あられもない自分語りをするんだったら、やはりその「自分」に素材としての強さがないと作品としては面白いものにはならないですよね。作家本人が面白いおじさんなのは「ホドロフスキーのDUNE」で証明済みなわけですが、こと映画作家としてどうかという話になると、あまりにも野心を欠いたただの癒されたいおじさんじゃないかと思えてしまうんです。カルトって言われるにはそれなりの理由があるんだなと得心しました。

「グランド・ブダペスト・ホテル」ウェス・アンダーソン
ウェス・アンダーソンと東欧・旧共産圏的な意匠の親和性の高さを冒頭からビンビン感じながら引き込まれていったんだけど、結果的にはアンダーソン作品のうちの1本という以上の感慨はなかった。ラデュレみたいなお菓子やさんのパッケージとかああいう仕事を抜かりなくやってるから日本の「文化的な」観客のウケもいいんだろうな。ところどころ寝ちゃったけど、抜け感のある「ムーンライズ・キングダム」の方が好きだった。

2014年7月4日金曜日

カリスマ系

「ホドロフスキーのDUNE」フランク・パヴィッチ
恥ずかしながら名前しか知らなかったアレハンドロ・ホドロフスキー(メキシコ)。この1本で大体どういう人かはわかったと思う。雑にカテゴライズするとスピリチュアル系のパゾリーニなんて言ったら怒る人いるだろうけど、そんな印象を受けた。良くも悪くもこういうカリスマ系っているよね。作品よりも作家の方が魅力的っていう(作品観てないからそこは彼に関しては保留にするけど)。

単純に感心したのは、本当にその分野のプロ(A.K.A. 魂の戦士)を1人1人尋ねて回ってチームに引き入れていくっていうRPG的なプロセス。絵コンテを描かせるためだけにメビウス(フランス)、特殊効果にダン・オバノン(アメリカ)、デザインにギーガー(スイス)、音楽にピンク・フロイド(イギリス)、俳優にミック・ジャガー、サルバドール・ダリ、オーソン・ウェルズ。国境を越えてこれらの人々にアクセスするだけでもすごい。まあ実現するわけがないわなって今だったら思ってしまう。でもそれが実現一歩手前まで行っていたってことが驚きじゃないか。

映像化されてたらどうなってたかっていうのは誰もが夢想するところだろうけど、仕上がりのクオリティーに対する期待は半々くらいだな。でも駄作ってことはないと思う。失敗作だったとしてもね。とりあえず、過去作はスクリーンでかかったら見る。あと新作の「リアリティのダンス」も見る。あと個人的にはメビウスの絵コンテ集は見てみたい。

2014年6月25日水曜日

現実に同期しますか?

およそシンクロニシティといったものは、恣意的にあれとこれを結びつけるだけの作業にすぎず、驚くべきはあらゆる事象がまさに共時的に進行しているということだ。その中から、自分にとって意味のある(かのように見える)ものをより分ける作業に何の意味があるんだろう。点が3つあれば顔に見える(シミュラクラ現象)ように、ある事象が自分に馴染みの何かに見えたとしてそれに注目することには何の意味もないと思う。その瞬間に起きていないことなどないのだから、意味はすべてにこそあるのだ。

2014年6月24日火曜日

生きてるだけで恥さらし

例外なく誰もが己の頭の悪さ、育ちの悪さ、教養のなさ、品のなさ、センスのなさを、歩いたり、食べたり、話したり、書いたりすることで否応なく露呈してしまっているのだから、それ以上の罰はないと思うんだが。

ただ、そういう自覚なしに生きてる人はやっぱり罰に当たってもいいかな(笑)
せっかくだから、こうも言い換えておこうか。

例外なく誰もが己の頭の良さ、育ちの良さ、教養の深さ、品の良さ、センスの良さを、歩いたり、食べたり、話したり、書いたりすることで否応なく露呈してしまっているのだから、それ以上の誉れはないと思うんだが。

つまり、生きているだけで諸々を露呈してしまっているということを自覚するのは当然のこととして、大事なのは代入可能な値にジャッジを左右されないこと。そこに入る値がー100でも100でも、それに対して意味づけも解釈も必要ない。意味づけも解釈もしてもいいけど、目盛りがある数値を指しているっていう事実に恣意的に意味を見出しているのは自分だっていうことは忘れちゃダメだ。つまり、わりとどうでもいいってこと。

2014年6月16日月曜日

更科のスティーブ・ブシェミ

「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」コーエン兄弟
「グランド・ブダペスト・ホテル」を見ようと思ったら、TOHOの日とかでシャンテは夜の回まで満席。しかたなくということでもないけど、見ようとは思っていたコーエン兄弟の新作に。

「猫が行方不明」in NY '60。呼吸するように見ることができてしまう映画だった。それはフックがないっていうことではまったくないんだけど、何の不安もなく100分間その中にいられるような映画というか。主人公のオスカー・アイザックがよかった。才能があって人がよくて詰めが甘くてプライドが高いフォークシンガーを本当にそのものみたいにうまく演じていた。相棒を失って傷心のルーウィンに矢継ぎばやにふりかかる小さな災難、ちょっとずつ歯車が狂って何もうまくいかない。こういうときってある。でも、困難な今を乗り越えて彼は必ずタフガイになる。そういう確信を感じさせてくれる作品だった。

宿も定職もないところに来て発覚するガールフレンド(友人の彼女)の妊娠(程よいビッチ感の漂うキャリー・マリガン)、預かった猫に逃げられ、シカゴへのジャズミュージシャンとの悪夢のようなドライブ、雪のシカゴでは足を水たまりに突っ込み、かつて堕胎したはずのガールフレンドが出産していたと知らされ、亡くした相棒のパートをハモってくるリベラルな東海岸インテリ妻(あのメガネとか絶妙でしょ笑)を罵倒する。螺旋階段を上るように時間は進んでいく。

コーエン兄弟の中でも結構すきな部類の映画だな。そういえば最近コーエン兄弟作品で見なくなったけど、ブシェミは元気だろうか。会社の近くの更科そばの女将さんがブシェミにそっくりなんだけど、それを誰も共有してくれない(そもそもブシェミを知らない!)ので、亡くなるか引退する前に誰か連れて行こうと思う。そばはうまくもまずくもない。


「ノア 約束の舟」ダーレン・アロノフスキー
「グランド・ブダペスト・ホテル」を見ようと思ったら、21時の回も満席だったのでしかたなく。予告編で見て、何でこのテーマでこんな筋肉バカ映画にできるんだよと思ったけど、予想してたよりはちゃんとまとまってた。でも、ノアって信仰心と家族への愛を秤にかけられるようなエピソードじゃなかったという気が……。

神様が地球を浄化するために40日間雨を降らせ続けたっていう非キリスト教徒にもおなじみのエピソード。雨と言えば真っ先にルイス・マイルストンの「雨」が想起されるが、個人的に最も印象深いのは小津の「浮草」の京マチ子と中村雁治郎の喧嘩のシーン。通りをはさんで軒下でにらみ合う2人の切り返しは何度見ても素晴らしい。ムルナウの「サンライズ」の小舟で嵐に遭うシーンもすごかった。この映画もメチャクチャ降ってたけど、映画史に残らない雨だったね(笑)。

すべてを洗い流すデトックス感が味わいたいという方には、しりあがり寿の傑作「方舟」をお勧めします。あのカタルシスは半端ない。ところであんな直方体の舟ってちゃんと水平に浮くの?

2014年6月13日金曜日

フューチャー&パスト、ハイ&ロー

「X-MEN フューチャー&パスト」ブライアン・シンガー
「X-MEN」は前作の「ファースト・ジェネレーション」が大傑作だったので、続けてマシュー・ボーンに撮ってほしかったけど、監督はシンガーに戻りましたね。まあ安定感はあるけど、突き抜けてはいないよなあ。

タイムシフトを兼ねたラストミニッツレスキューもので、細かいところを気にしなければよくできていると思う。しかし、アクション映画として何とも物足りなかったのが、冒頭で大暴れするセンチネルがすごい魅力的かつ強すぎる敵として出てくるんだけど、結局このセンチネルと戦って勝つっていうシーンがないんだよね。そもそも、無理ゲー過ぎるから過去にタイムシフトして現在を変えようっていう話だからしかたないんだけど……。

今回も描かれている時間の幅、タイムスパンは大きいんだけど、歴史的重層感っていう点から言っても圧倒的に「ファースト・ジェネレーション」の方が厚みがあったなあ。個人的には「X-MEN」シリーズには単なる娯楽大作として消費されるだけで終わるような作品群にはなってほしくないので、エジプトっぽいラストシーンから連なる次回作に期待。

「ファースト・ジェネレーション」の感想はこちら。
http://sokozero.blogspot.jp/2011/07/sf.html


「とらわれて夏」ジェイソン・ライトマン

「マイレージ・マイライフ」「ヤング≒アダルト」とここ2作が出色の出来映えだったジェイソン・ライトマンの新作。コミカルなタッチの前2作と比べると、かなりシリアスに振ってきた感があるが、演出力があるってこういうことなんだなあっていうのを実感した1本になった。

冒頭のスーパーマーケットのスリリングな展開から、押しかけてきた脱獄囚にひきこもりがちな母子家庭の母親が心を開くまでの序盤がまず素晴らしい。夏の汗ばんだ肌にまとわりつくような暑さを通奏低音に、3人が一軒家で過ごす濃密な非日常を丁寧に描写する。特に印象的だったのが、1階と2階をつなぐ階段を生かした演出だ。ブローリンとウィンスレットの関係が急速に濃密になるピーチパイの夜をはじめ、息子がブローリンの寝顔をのぞき込むシーン。そして、ブローリンの回想シーン。さらに、サイレンの音を聞くラスト近くと、「事件」は常に階段で起きているといっても過言ではない。

思い返せば、「マイレージ・マイライフ」でクルーニーが「気の迷い」から出張先で出会った女の家を訪ねてしまうシーン。「ヤング≒アダルト」で元ボーイフレンドのホームパーティーでセロンが白いブラウスに赤ワインを浴びるシーンも、階段ではないが印象的な高低差があった。ともに、最高のクルーニー感、セロン感が味わえるシーンだ。

結局、マウントを取り合うような垂直方向の人間関係が彼らを苦しめるわけだけど、最後には見事にそこから卒業していくっていうのは美しすぎる見方かな(笑)。全然違う文脈だけど、パン屋の粉だらけのマウスとか、ああいうディテールにわけもなく涙が出る。一瞬しか映らないが素晴らしい質感だった。

「ヤング≒アダルト」
http://sokozero.blogspot.jp/2012/03/blog-post_12.html
「マイレージ・マイライフ」
http://sokozero.blogspot.jp/2010/03/blog-post_24.html

2014年6月7日土曜日

インドネシアのフェリーニ

◼︎「アクト・オブ・キリング」 ジョシュア・オッペンハイマー(ネタバレあり)

スハルト政権下のインドネシアで1000人以上の共産主義者を殺したというアンワル・コンゴを取材したドキュメンタリー映画。

1960年代のインドネシアで共産主義勢力が当時人気のあったハリウッド映画の上映を禁止したことで、観客に割高のチケットを売りつけることを生業としていたアンワルは収入源を奪われることになる。ただのダフ屋が殺人鬼になったきっかけが映画だったというのはただの偶然だろうか?

そうではないというのがこの映画の謂だという気がする。彼の中に眠っていたマグマのような罪悪感を露わにするのは、おそらく多くの観客が半笑いで眺めていたであろうアンワル自身の手になる自主制作映画なのだ。彼自身が脚本を手がけ、演出し、尋問し拷問し処刑した共産主義者を演じ、さらにそれを観客として見ることで彼は自ら地獄の釜のふたを開けてしまう。

彼はなぜかくも「余計なこと」をしてしまったのだろうか?彼が撮影のために呼び寄せたかつての同志は、有名になれるならハーグの国際司法裁判所にも出向いてやるよとうそぶくが、そんな同志に比べてアンワルはあまりにナイーブに映る。

針金による処刑を再現するシーンを確認して、白いパンツを履いていたことを後悔するという倒錯的な洒脱さ、悪夢を振り払うために踊っていたというチャチャチャの瀟洒なステップ、孫に対するあられもない慈しみ。彼が大量殺人を犯したからこそ、その異様さは際立つのだが、それらは単に異様さを際立たせるためのギミックだったわけではない。

彼は洒落者で、繊細で、優しさに満ちた映画好きの殺人者だったのだ。彼に異常殺人者のレッテルを貼ることも、時の為政の犠牲者であったとヒューマニスティックに解釈することもこの映画は拒んでいる。

50年の時を経て、英雄として人生の幕を引くことを良しとしなかったのは、彼自身の選択というよりも、彼を殺人鬼にしてしまった「映画」の恩返しだったんじゃないだろうか。 

2014年5月27日火曜日

ガンガジってやっぱり変な名前だよな

ジョーイ・ロットへの質問 ガンガジ編 http://wp.me/p11yjI-zV

上のブログでしか知らないけど、ジョーイ・ロットっていう人は本当に面白いなあ。こういう人こそ本物のマスターだと思う。

エックハルト・トールの「ニュー・アース」はスピリチュアルの入門書として素晴らしい作品だけど、動画サイトなんかで彼の必要以上に間を取ったスピーチなどをみるにつけ、どこかでマスター然とした振る舞いをなぞってるんじゃないかなって疑いの目を向けていたから、そういうのはポーズじゃないにしてもノイズになるっていうロットの意見には激しく同意せざるを得ない。名前もビヘイビアももっと「普通」にした方が、あなた方のメッセージは正しく受け入れられるんじゃないですか?ってことだよね。

でも、多くの探求者はこの「マスター然とした立ち振る舞い」にやられるわけだ。どちらかといったら積極的にやられに行く。それこそを欲しているから。マスターをマスターたらしめている本質よりも、彼らがまとっている「マスターっぽさ」の方が好きなのだ。マスターになるのは難しいけど、マスターっぽくなることは難しくない。トールやガンガジは基本的にいい人だから、そういう「ニーズ」に(無自覚に)応えているという部分はあると思う。あるいはビジネスセンスのなせるワザか(笑)

あわてず騒がず、いつも穏やかで、菜食で無欲。ある種の悟りを得た人が、そうなっていく傾向というのは感覚的にもわからなくはない。それはそれで美しいフォーム(形態)だが、本質が宿らないままフォームをなぞっても、本質にはあまり近づけないと思う。余談になるが僕はスポーツで同じことをずっと考えていて、美しいフォームを模倣することでは、そのフォームに美しさをもたらしている本質には近づけない、近づけないというのが言い過ぎなら、遠回りなんじゃないかと思っている(実際は模倣によるアプローチもあるとは思うけど、型を強要するようなメソッドが好きではないので)。それよりは本質を探究する方が早いんじゃないだろうか。美しさは本質がフォームに宿った結果でしかないのだから。

何で人は本物よりも、安っぽいニセ物の方が好きなんだろうか。いくつかの答えがあると思うけど、できるだけ遠回りしたいというのが本音なんじゃないだろうかと本気で思う。そうするのが「正しい」のはわかってるけど、もうちょっと楽しませてって言ってるようにしか聞こえない。だから、遠回りしたい人に「あなたバカみたいに遠回りしてますよ」とは言わないし言ってほしくもない。じゃあ。

2014年5月20日火曜日

部分と全体

Huluに入ってから、ER以降ほぼ無縁だったアメリカの連続ドラマを見始めた。何作か見たけど、この「ブレイキング・バッド」という傑作の前では、結構気に入っていた「プリズン・ブレイク」もかなりかすんで見えるレベル。とりわけ脚本のレベルが異様に高い。

まず、主人公は若い頃にノーベル賞受賞にも寄与したほどの才能の持ち主だが、何の因果か田舎(ニューメキシコ)の公立高校教師に収まり、家計のためにガソリンスタンドでバイトもしている(おそらくは)(元)天才化学者。10歳下の妻は40歳にして予期していなかった第2子を授かり身重、アメフト選手だった長男はプレー中の事故で脳性麻痺を患っていて松葉杖をついて歩くのがやっとだ。その主人公が肺がんで余命幾ばくもないことがわかり、家族に金を残すために選んだ手段がドラッグの製造。このドラッグがこれまでにないほど純度の高いもので素晴らしく「効き」がよく、市場では瞬く間にその作者ハイゼンベルグの名とともに都市伝説のように広まってしまう。

ってここまではトレーラーでもわかると思うんだけど、既に設定が最高じゃないですか。何一つ思うようでない人生にとどめを刺された主人公の起死回生の一発が大当たり。「ネブラスカ」でも物語の推進力になっていた「もう後がないお父さんが家族に何かを残してやらなくては」というオブセッションが、ちょっとした無理も自然に押し通していく。化学には精通していても特にドラッグにまつわる流通・販売に関しては素人だった教師が、ディーラーを殺し、原材料を盗み、チンピラを使って製造と販売を効率化していく。1人の中年教師が人として凄みを増してゆく様は、上映時間2時間の映画では描ききれないところだろうから、連続ドラマという長尺の強味も生きているといえる。

専門的な知識を背景にシンプルな設定とプロットで見せるって本当に腕のある人の仕事ですよ。ただ「おもしれえなあ」って享受して終わる作品も嫌いじゃないんだけど、こういうシンプルで力強い仕事には創作意欲を喚起されるんだよね。脚本は何人かクレジットされてるけど、おそらく制作総指揮のヴィンス・ギリガンという人がメインなのだろう。登場人物はみんなクセがあるというよりも自己中心的な鬱陶しいタイプの人ばかりなのだけど、安易な人間ドラマに走らずに、台詞よりもアクションで語らせるところも本と演出に自信があるからできることなんだと思う。

余談になるが、黒沢清が言っていた「人を殺すのはいいけど死体の処理が大変なんですよ」という人殺し目線の問題もこの作者は共有しているようで、「24」や「プリズン・ブレイク」のように「殺したら終わり」的な嘘っぽさがないところも好感が持てる。実際に彼らは死体が生じてしまうたびに多大な苦労を強いられることになる。 ジェシーの家の天井からバシャバシャと強酸に溶けた死体の断片が落ちてくるシーン、それに続く掃除のシーンは忘れられないほど素晴らしい。

タイトルは「踏み外し」的な意味らしい。元素記号をモチーフにしたタイトルデザインも地味だけど秀逸。まだ最後まで見てないけど、とにかくこれは必見ですよ。じゃあ。

2014年5月12日月曜日

分不相応な錯誤

念願の「ブルージャスミン」を初日に見てきた。

なぜアレンは「元セレブ」をここまでこっぴどく痛めつけるのか。貧しい出自、強すぎる虚栄心、分不相応な生活、夫のダーティーなビジネス、ウォッカと精神安定剤。彼女は贅沢な生活を送っているときから、(そして、おそらくもっとずっと前から)十分に苦しんでいたと思う。あえてこういってもいい。彼女はもう十分に罰されていた。

「没落」後のジャスミンの行動は、強すぎる虚栄心のあまりトンチンカンなことになっているわけだが、それももう笑える段階は疾うに通り越している。笑うには症状が進みすぎてるのだ。それに、崩れかけたメイクで、涙目でやぶにらみの視線を虚空に漂わせ、独り言を繰り、記憶の中に生きる。それも夢のような生活の記憶だけではない。夫の不倫と自殺、密告、息子との別離……。繰り返し反芻されるのはそうした苦い記憶ばかりなのだ。甘美な記憶に仕立て上げられた「ブルームーン」のエピソードも、彼女自身をなぐさめるというよりは、他人に語って聞かせるためだけのものだ。

それでもまだアレンは容赦なく彼女を痛めつけ、追い詰める。その筆致は怒りに満ちているといってもいい。その怒りがどこに向けられたものなのかと考えたとき、それはどうやら一時的にとはいえ不正なビジネスに依存した分不相応な生活を送ったジャスミンに対してではなく、彼女の己が属するクラスへの鈍感さに対してではなかっただろうか。彼女がなぜそれほど苦しまなければならないのか? それはジャスミンが貧乏だったからなのだ。同じ境遇で育った妹も幸せとは言えないかもしれないが、猥雑なサンフランシスコの街で安いアパートで2人の子どもと暮らす彼女は、少なくとも姉よりはマシな人生を送っている。どうせ錯誤の中で生きるのなら、分相応な錯誤を選んだ方が賢明ということなのだろう。セレブ・ワナビーのヤングたちに生ぬるいアティチュードを見せたソフィア・コッポラの「ブリング・リング」とは対照的な示唆を含んでいる。そもそもこの映画の「成功者」たちをアレンは「祝福された者」としては認めていないのだろうが。(その点ではソフィアも同じなのかもしれない)

多作のアレンは傑作とは決して呼べない映画をしばしばつくるわけだが、これもそうした一本に数えてもいいのかもしれない。でも常軌を逸した怒りが、この映画を凡百の佳作から遠ざけている。

2014年4月26日土曜日

最近の試み

■プリズン・ブレイク
今話題沸騰中のアメリカの人気ドラマをHuluにて鑑賞。去年の暮れくらいから「V」「4400」「Heros」と宇宙人、未来人、超能力とオカルトものを立て続けに見てきたのでちょっと軌道修正(笑)。まあ大変人気を博したようですから何もいうことはないんですが、主人公が頭がいいっていうのは安心して見ていられていいですね。マイケル・スコフィールドっていう名前も口が気持ちいいので好きです。お兄さんがK-1ファイターにしか見えません。僕のプリズン・ブレイクはもう少しかかりそうです。

■糖質制限
「炭水化物が人類を滅ぼす」(夏井睦)を読んで炭水化物と糖類を極力控えているが、最初の1週間かなりストイックに遂行したのでおそらく脂肪が2キロくらい落ちた。(家に体重計がないので正確にはわからない)。4週間経過して、今までちょうどよかった28インチのパンツが緩くなった。ベルトの穴もひとつ分以上は確実にウェストが縮んだ。ストイックにやらなければかなり続くと思う。
要は炭水化物と糖類の摂取によって血糖値が上がり、インシュリンが分泌され血糖値が下がるという血糖値乱高下のプロセスを繰り返すことで膵臓がやられてインシュリンが正常に分泌されなくなるのが糖尿病だと解釈した。このプロセスを減らして、膵臓への負担を軽減すれば糖尿病は治るというのももっともな話だと感じる。そもそも人類の主食は炭水化物ではなかったという。それがどうして主食の座についたのか、著者の炭水化物陰謀史観は面白い。ちなみに炭水化物を避けようと思うと非常に生きづらい世の中だということに気づく。

■ガンドゥーシャ
アーユル・ヴェーダ由来の油うがい。英語でオイル・プリング(Oil pulling)ともいう。本当は太白ごま油とかココナツオイルがいいらしいが、家にあった普通の黄色いごま油でやっている。朝起き抜けに大さじ1杯のごま油を口に含み15〜20分ブクブクグチュグチュする。分子が細かいため水よりも奥まで届いて殺菌する、毒素を吸着するなど効果があるらしい。飲み込んだらダメ。思いの外、油を口に含むという行為が気持ち悪くなかったので続いている。1週間くらい。目立った効果は感じていないが歯がつるつるしてきた気がする。

■Au Bordel
オー・ボルデル‾パリのスーヴニール ~ オムニバス http://www.amazon.co.jp/dp/B00005IE6W/ref=cm_sw_r_udp_awd_dNNwtb0EAJ0WN
ノエル・アクショテというフランスのギタリストがドイツのレーベルから出してるアルバム。買ったのは7,8年前でずっとちゃんと聴いてなかったんだけど、メチャクチャいい。タイトルは「娼館にて」の意。娼館というよりは小さなキャバレー的な猥雑さがあるライブ録音(?)だが、バラエティーに富んだ曲はどれも実に端正で聞き応えがある。特に好きなのは Pigalle en mai 5月のピガール街という曲で、ベースとギターとアコーディオンに男声の合唱というシンプルな編成でとにかくドフランスかっこいい(特にアコーディオンが泣ける)。他にもゴダールの「軽蔑」のテーマ曲のチェロ独奏とか、ゲンズブールの La Valse de Melodie をやさぐれた女がハミングしてるのとか、選曲もアルバムの創り出す世界観も完成度高い。ギタリストの人はどっちかっていうとプロデュースって感じなのかな。Youtubeで見たけどこの人自体にはピンとこなかった。

■Big Chill
「わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと」(サリー・ボンジャース著/古閑博丈訳)を読んだ。正確にいうと看板に偽りありで、ここで悟りについて語っている「普通の人たち」は大目にみても「スピリチュアルをかなり本気で探求をしている(た)普通の人たち」という程度の意だ。まあ、通常我々が見聞きするのは、マスターやグルの「御言葉」であるわけだから、そう考えれば「普通の人たちの語ったこと」というのはウソとも言えないのかな。ともあれ、悟りを開くことに躍起になってリトリートだワークショップだサットサンだって言ってるのは、一般的には「普通」の人ではないよね(笑)。
訳者のブログ(http://resonanz360.com/)が面白くて読み込んでるんだけど、悟りに至るプロセスには2通りあって、ここではないどこかに到達するために努力をすべきという「プログレッシブパス(漸進的な道)」と、既にあなたは悟っているのだからそれに気づけばよいだけという立場の「ダイレクトパス(直截的な道)」に大きく分けられるらしい。で、気づいたんだけど、クリシュナムルティにしてもパパジにしてもガンガジにしても僕が好んで読んできたマスターってみんな「ダイレクトパス」の人たちなんだよね。特にパパジなんて「自分が誰だかを知りたければ(悟りたければ)何もするな」って言ってたくらいだし、その弟子のガンガジにしても著書のタイトル通り「ダイヤモンドがポケットの中に入ってることに気づけばいい」って言ってるだけなんだよね。何もする必要はないって言うメッセージに言葉を尽くす彼らのスタイルは嫌いじゃないけど、わかりやすくて商売になりやすいのはプログレッシブパスの方だよね。
それで、その古閑さんのブログでジョーイ・ロットっていう人の言葉が紹介されていてすごく興味深かったので、リンクを貼っておきます。そこにしか真実はないって言っても過言じゃないんじゃないでしょうかね。

■映画は見てないなあ。まだしばらく見られない。「ブルー・ジャスミン」は早く見たい。

2014年4月10日木曜日

線路の上のカバオ

「ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅」アレクサンダー・ペイン
「父ちゃんの入れ歯めっかった?」という「パーマン」オマージュのシーンが素晴らしかった。なぜに線路? そして「これは父さんのじゃない」という息子の冗談に対して、「これは俺のじゃない」と親父が返すシーンで高まる緊張感。そして、入れ歯を装着して歯を剥き出しにして見せる父。それを切り返さずに引きで見せるのが素晴らしかった。テンションコードからのアクロバティックな解決。「シンプル・プラン」のビリー=ボブ・ソーントンを彷彿とさせる迫真の冗談。あれで、その先2時間ボケボケのはずの親父の一挙手一投足から目が離せなくなる。うまい。どうやったらこんなシーンを思いつくのかな。

後半の田舎の強欲な恥知らずたちが賑わすドラマも、あの親父のテンション(非和声音)が通奏低音として鳴り続けていたため、安直なヒューマンドラマに解決することなく、父親と息子の関係はre-solutionではなくsolutionとして一度目の生に立ち現れてくる。

「それでも夜は明ける」スティーブ・マックイーン
ビックリするほど良いというわけではなかったが、考えさせられるところはあった。まず、せっかくワシントン在住で教育もあって社会的地位もあって家族もいる「自由黒人」(そんな言葉知らなかった)が何で奴隷に!?ってひどいじゃないかってみんな思っちゃうと思うんだけど、この映画の主題の傍系として浮かび上がるのは、じゃあ教育のある黒人は自由であるべきで南部育ちの「二ガー」は奴隷でもしようがないってことなの?ってことなんですよね。

主人公のソロモンは身なりもいいしバイオリンも弾けるし家族想いで社交性も教養もあって人柄もよさそうだから、親の代から生まれついての奴隷っていう人とは違って、「なんでそんな人が奴隷に」っていうギャップがあるのね。彼は本来、奴隷であるべきではない、っていう発想の裏側には本来、奴隷であるべき(が言い過ぎだったら「より相応しい」)人がいるっていうアイデアが内包されているということにこの映画は気づかせてくれるわけです。平穏な暮らしをしてきたソロモンに対して、ナチュラル・ボーン・スレイブよりも奴隷業(行)大変だろうなっていう同情が働いて、見る人は明らかに他の奴隷と区別してたと思う。実はそれって人種よりも本質的な「クラス分け」を同じ人間に対して行ってるっていうことなんだよね。

これって実は人種差別など断固根絶すべきっていう人たちが一方で、頭のいいほ乳類であるイルカやクジラを殺すべきではないっていうイデオロギーに通じるところがあるのだと思う。個人的には、そっちの差別の方が残酷なんじゃないのって感覚があるけど。

2014年3月18日火曜日

つれづれに3本

「エヴァの告白」ジェームズ・グレイ
この監督は結構前に「裏切り者」というのがまあまあおもしろかった。「裏切り者」は現代のアメリカを舞台にしたクライムサスペンスだったから今回の"The Immigrant"(移民)は随分趣が違うはずなんだけど、この監督の作家性なのだろう、今作でも見せたユーモアが介在する余地のない暗く救いのないシチュエーショントラジェディ的仕上がりになっている。基本的にはそれほど嫌いではない。好きでもないけど。

マリオン・コティヤール、ホアキン・フェニックス、ジェレミー・レナーと相変わらずミーハーと言って差し支えがないくらいベタに映画好きに訴えるキャスティングだが、それが作品の魅力に繋がっていないところもこの監督の作家性なのだろうか。おもしろかったのは、ひたすら1920年代のニューヨークでポーランド語を話すユダヤ系と思しき移民のマリオン・コティヤールの芝居であり、ホアキン・フェニックスが座長を務める一座の舞台と舞台裏、お風呂、エリス島の拘置所といったディテールなのだ。こういうよくできたイキフン映画も別にあってもいいと思う。しかし、マリオン・コティヤールは美しかったがもったいなかった。ピアフが代表作の彼女にはいかがわしいボードビルの舞台にも期待したが結局なにもさせなかった。まあ贅沢。

ただ、彼女のようには美しくもなく英語もできない身寄りのない数多くの移民は、当時のニューヨークおよびアメリカでどのような困難を強いられていたのかと想像する。ただ打ちひしがれて生に強く固執することもなく絶望の中で死んでいった「移民」のことを想像する。「物語」たり得なかった人たちの人生をどうしたって想像してしまう。自分だったら彼女のようにはサバイブできなかっただろうなと想像する。

邦題がいくつかの映画を想起させるけど、これも悪くはないと思う(印象的なシーンに由来するタイトルだ)。でも、館内に貼ってあった「美しいことは罪ですか?」というコピーはさすがにひどいと感じた。「かわいいだけじゃダメかしら」的な(笑)


「ダラス・バイヤーズ・クラブ」ジャン=マルク・ヴァレ
マコノヒーとレトが本当によかったし、メガネの女医もよかった。医者も無知で差別主義的だけど、患者はもっとひどいわけで、まずはHIV陽性ということに対する周囲の拒否感というのに削られるわけです。精神的にマッチョな(マコノヒーもそうだったわけだが)同僚がスーパーマーケットで女装したレトとの握手を拒むことから始まる一連のシーンは、健康志向とともににわかにヒューマニティを獲得したマコノヒーの帯びたユーモアと真に女性的な軽やかさ(チャランポランさ)をまとったレトの乙女心が垣間見える傑出したシーンとなった。

特に薬に関して製薬会社と医師や病院の組織的な悪を告発しているという社会派的な側面も色濃いわけだが、どこかあきらめ顔風に感じるのは僕のうがった見方だろうか。ブレーキのない汽車に乗りながら、そこから降りるために、燃料切れ、あるいは脱線や衝突さえをも消極的に待ち望んでいるというのが正直なところかもしれない。

ちなみに一番笑ったのは「陽性」の女性と思い切り元気よくファックするシーンでした。


「キック・アス/ジャスティス・フォーエバー」ジェフ・ワドロウ
クロエ=グレース・モレッツは嫌いじゃないけど、ちゃんとした大人にはなれないと思う。別にちゃんとした大人になる必要はないし、僕もなっていないので人のことは言えないんだけど、クロエ=グレース・モレッツはドリュー・バリモア的な大人になると思う。

クロエが同年代の女の子と親交を深めたり、男の子をデートに誘ったりと一見浮ついた振る舞いに傾倒するも、まったく没頭感がなかったので、そこはもう少し本気でそっちの方に夢中になる感があってもよかったと思う。その方が裏切られて復讐して戻ってくるときの感動が大きかったと思う。クロエがイケイケの子にダンスで勝つシーンはカットを割りすぎていて何が見せたいのかまったく分からなかった。個人的にはキレキレのセクシーダンスにアクロバティックな演武が勝てるわけではないと思うのだが。

Sick Stick(通称ゲロゲリ棒)は偉大な発明だが、映画においていいゲロと悪いゲロがあるとしたら、この映画のゲロは悪いゲロだ。みんな乳酸飲料みたいなさわやかで粘度が低く透明性の高いゲロを大量に吐いてて、ちっとも笑えなかった。疑似のゲロをつくらせたらいい仕事をする自信はあるが、リアルすぎて俳優が口に含めるかどうかという問題が発生すると思う。というわけで総合的にイマイチでした。

2014年2月17日月曜日

東への道

「ザ・イースト」ザル・バトマングリ ★ネタバレバレ
面白かった。マングリ監督は変わった名前だと思ったらイラン系フランス人の男性らしい。サンダンスで注目を浴びた社会派サスペンスということで気になって見に行った。リドリー&トニー・スコットが出資している。

金にものを言わせて公害とか薬害を垂れ流す大企業に対してある種のテロ行為を行う集団”ザ・イースト”。ヒッピーをもっとナチュラル原理主義的かつアンチキャピタリズム方向に軌道修正したようなこの左翼集団に、クライアントの大企業をテロから守る警備会社(?)のサラが潜入捜査を行う中で、葛藤しつつもオルグされていくという俺好み(笑)の話。

宣伝ではサスペンス推しだったけど、実際には恋愛映画であり、親子関係の映画であり、社会派サスペンスでも合ったって感じかな。潜入捜査だから、もちろん「ばれたらお終い」という怖さは常につきまとっているわけです。ただ、それよりも僕にとって面白かったのは”ザ・イースト”のドグマであったりライフスタイルであったりグローバリストの主人公がラディカルLOHASに毒されていく様を見ることだったりでした。個人的にはbeforeの主人公がもうちょっと戯画的にキャピタリストとして描かれていてもよかったかなと思いましたが、そういうわざとらしさもないのがこの映画のいいところだったっじゃないでしょうか。

左翼集団としての「ザ・イースト」が活動自体にそれほど矛盾を抱えていなかったのは、テロの対象となった企業に対してメンバーの私的な復讐という側面があったからでしょう。これが大義だけになるとやはりつらい。この点で観客はそれほど白けずに彼らの活動を見守ることができたはずです。それは主人公のサラにとっても同じことで、実際に大企業の被害者である彼らにシンパシーを感じないわけにはいかないし、彼らのLOHASな森での生活とアメリカの大都市での暮らしのどちらが狂っているかと言えばやはり、そこは都市生活なわけです。自宅に帰って、ふかふかのベッドで寝られずに床に寝るとかそういうわざとらしくない程度の描写がよかったですね。

やっていること自体は犯罪ですし、それほど緻密な人たちでもないので、わりとあっさり国家権力によって追い詰められてしまいますが、ある物を手に入れた主人公が、元メンバーの所詮親子(家族)関係に端を発する坊ちゃん嬢ちゃんの反抗を先鋭化させた形で引き継ぎ、純粋に活動的思想犯に「成長」していく様は見ていて清々しいものがありました。


「アメリカン・ハッスル」デビッド・O・ラッセル
「ザ・イースト」の後では少しぼんやりしてしまった感がありますが、詐欺の潜入捜査と聞いたときに期待してしまうようなトリックや裏切りよりも、佇まいを味わうような映画であったなあと思うわけです。スピード感のない「ヒズ・ガール・フライデー」みたいな(笑)

緊迫感のあるシーンももちろんありますが、それよりは俳優の衣装やセット、台詞回し、芝居を楽しむような演劇的な側面が濃厚にありました。主演の2人(クリスチャン・ベールとエイミー・アダムズ)をはじめ、最高に面倒くさいビッチ感を醸し出していたジェニファー・ローレンス、強面のジェレミー・レナーやロバート・デ・ニーロらの味出し勝負はかなり好きです。

で、問題は何で「今」これなのかなってことくらいでしょうか。面白かったからいいけど。


「ニシノユキヒコの恋と冒険」井口奈己
これも佇まい勝負だよな。MMK(モテてモテて困っちゃう)な和製ドン・ファン”ニシノユキヒコ”(竹野内豊)が死んで幽霊となってかつて付き合っていた女性の娘のもとに現れるというところから始まるファンタジー。そして、彼女がニシノの葬儀に訪れ、ニシノの女たちの長老とでも呼ぶべき阿川佐和子から、ニシノの女性遍歴を聞かされる→回想シーンというトリュフォー的な展開はワクワクしますよな。

中村ゆりかが学校から帰って庭で水を撒いているときに吹く風の不穏さで一気にテンション上がるんだけど、盛り上がりという意味ではそこがピークだったかな。その後も鉢合わせで不穏さが漂うシーンはあるけど、そういうことじゃないからなあ。そういう意味ではニシノがモテている以外特別なことは何も起きない映画って言えると思う。まあ見どころは麻生久美子から始まって阿川佐和子、小野真千子、本田翼、成海璃子、木村文乃ら、ニシノと彼にお熱を上げた女優たちのイチャイチャシーンなんだけど、そのバリエーションをお楽しみくださいってことかな。個人的には成海璃子だな。リコタソとお風呂入りたいな。

去年、新世界のチャランポとの対バンで見た、ぷちだおんのチューバの関島岳郎さんが楽団の一員として出てた。あの2拍子の曲がまた絶妙に不穏でしたね。ありものなのかゲイリー芦屋の仕事なのか。どちらにしても素晴らしい。

2014年2月10日月曜日

トランスアムール

「ウルフ・オブ・ウォールストリート」マーチン・スコセッシ
なぜジョーダンという男はそこまで金に執着したのか?エクスキューズのようなことを大声でいうことはあっても、彼の内面が掘り下げられることは一切ない。おおよそ内面といったものを欠いたこの主人公のように、マネーとドラッグとセックスという表層におおわれた内面を欠いた狂騒的な映画だった。狂騒をどんなに衝撃的に執念深く描写したところで、それは内面へといたる道ではない。

ブロンド妻を口説くシーンでは、素面でドギマギしているところに女の方から素っ裸で現れてくれるし、FBI捜査官とのおおよそ心理戦といった高等戦術からはほど遠い恫喝と買収の試みは「俺は金持ちだけど、お前は貧乏だ」という極めてシンプルな二項対立の概念を露わにするに終わる。感情的になることはあっても、内面へのアプローチは周到に避けられ、ビジネスの拡大と乱痴気騒ぎだけが描かれる。両親は協力者ですらある。

ジョーダンのオブセッションやデプレッションにはまったくフォーカスされないまま、それらの処方箋としてのドラッグとセックスとマネーにただただ溺れる様は痛快さからもむなしさからも遠い。それはフィジカルな経年変化だけを重ねて、成熟を感じさせない俳優レオナルド・ディカプリオに酷似している。そういう意味ではハマり役だったと言えなくもないのかもしれない。



 
「わたしはロランス」グザヴィエ・ドラン
去年見逃していた1本。友人夫妻と下高井戸シネマに見に行った。
都下にあって(23区内ではあるけど)ゴダールやロメールやエリセなどの特集上映をかけてくれていたので、かつては通い詰めていたこの映画館だが、20年近く前と変わらずヨーロッパ系に強い「ふるきよきミニシアター的」なセレクションで今もそこそこ入っているようで安心した。今回も「ロランス」に合わせてドランの関連作をかけるなどの配慮はさすがだと思う。見ればよかった。

男性のミッドライフクライシスを描いた3時間近い長尺という点で上記の「ウルフ・オブ~」と重なる点があるが、内容的には対照的な1本だ。ジョーダン・ベルモットが外へ外へと向かって行ったのに対して、ロランス・アリアは内へ内へと答えを求めて行く。

冒頭、ストリートを練り歩くカメラに向かって執拗に視線を送り続ける男女のショット。観客はやがてそれがトランスジェンダーの主人公に向けられた好奇の目であることに気づく。これから見せる物語を端的に示唆するスマートなオープニングだ。

もともとストレート同士の恋人であったロランスとフレッドは、ロランスの内なる女性の顕在化によって、その関係の均衡を崩す。当然2人につきつけられることになる「それでも愛は可能か」という問いに、2人は意地になっているかのように決してノンと言わない。カツラのおばさんのウェイトレスの下世話な質問に怒りをぶちまけたフレッドがマイノリティーを代表する正義の代弁者に見えないのは、2人の苦悩があまりに特別だからだろうか。いや、彼女の挑戦があまりにも無謀に見えたからだ。そのような「愛」は不可能なのではないか?私はそう思いながらロランスがトランスして以降の2人を眺めていた。

それを愛と呼ぶにはあまりに濃密な関係というものは、男女間に限らずしばしば生じてしまう。そのような結びつきは、彼らの他人との関係においても常に支配的である。ときにそれは忘れ去られたかに見えるが、自分がその関係の支配下にいることを思い出すには短い一通の手紙で十分なのだ。この映画でとりわけ感動的なシーンが2つあった。ひとつはフレッドがピンク色に塗られたレンガに触れるシーン、もうひとつはナタリー・バイがテレビジョンを持ち上げて床に投げつけるシーンだ。前者は愛によって結びついた2者の関係の絶対性が再確認されるシーン、後者は恐怖によって結びついた2者の関係の脆弱性が露呈するシーンだ。

そして、最後の台詞(最初の台詞でもある)がタイトルクレジットになるというエンディング。"Laurence Anyways"の2語で示された「外見が(内面も?)どうであれ、わたしはロランスなのだ」という含意にも、3時間近く彼らに付き合った観客を唸らせるものがある。音楽も素晴らしかった。

2014年2月2日日曜日

Enjoy your ride!

グラビティを見納めてきた。2番館とかリバイバルでやっても、なかなかIMAX3Dで見る機会はないだろうからね。

今回は映像表現の新奇さよりも、よりこの映画の主題に踏み込んで見ることができた。クルーニーの2度目の登場以降は露骨と言っていいくらいに、生誕の物語として語られていたと思う。

宇宙船の中でうずくまるサンドラ・ブロックが2001年オマージュと言われていますが、キューブリックを迂回するまでもなく、あれは子宮の中の胎児なわけですね。

胎児が心地のよい世界から追放されることを怖れて、そこに生まれ出ることを諦めようとした時、彼は現れるわけです。心地よい不安のない世界に居続けることもできるが、それなら生まれることの意味なんかないじゃないか。

クルーニーのEnjoy your ride! という台詞からほぼ涙が流れっぱなしでした。この映画のクルーニーは本当にライド(肉体の生)をエンジョイする術を知り尽くしたようなイカした男だった。

逐一何が何のメタファーなどと野暮なことは申しませんが、水辺に這い上がり、重力に抗いながら手と足で自らの体重を支え、そして、まさに人間の赤ん坊のような危なっかしい2足歩行を見せた時に、この生がすでに十分に奇跡であったことを思い出さずにはおれないのです。

2014年1月31日金曜日

新年のご挨拶にかえて

今年はサボらずに映画の感想等書きつけて参りたいと存じます。

年末年始に印象的だったものをいくつか。

「かぐや姫の物語」高畑勲
「風立ちぬ」が政治性を帯びてしまった人間の悲しみを描いた近代的な映画なら、「かぐや姫」は、この世に生を受けてしまった人間(女性)の悲しみを描いた、より根源的な問題を扱った映画ということができる。しかも、古典を「翻案」することなしに、完璧な作品にしてしまったわけだ。もちろん「風立ちぬ」のような、作家のメッセージや嗜好をベタに、メタにあふれさせてしまっているような作品には強く惹かれるんだけど、どっちがすごいかっていったらどうしたって「かぐや姫」ということになってしまう。どうしても宮崎を引き合いに出してしまう誘惑に勝てないけど、「かぐや姫」は「風立ちぬ」のような曲芸的なバランス感覚の上に成立しているような作品の対極にあって、タフネスと鋭さを備えて屹立しているように感じる。

「ゼロ・グラビティ」アルフォンソ・キュアロン
映画というよりはアトラクションとして新次元に達してたと思うが、この作品が「映画」としての体裁を保っているのは、宇宙空間でわずかに感じられる地球の重力のように「映画」の磁力がこの映画の物語に働きかけ続けていたからだろう。僕はそれを保守的とは思わないけど、映画であることにこだわらなくなったらどんなものになっていたのかというのはすごい気になる。「映画」もすごいところまできたなあ。

「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ」ジム・ジャームッシュ
舞台が夜のデトロイトとタンジェだけっていうのがもうずるい。歴史を生きてきた吸血鬼たちが、人間とともにその終わりにいるっていう風景が悲しくも感動的だった。

「ブリング・リング」ソフィア・コッポラ
生粋のモノホンセレブたるソフィアが、にわかセレブワナビーに対してなぜかくも中途半端な態度を取らなければならないのか。それならわざわざこんなテーマで撮らなければいいのに。それとも本当にこんな虚飾には微塵の意味もないって思ってるのか。ソフィア、わりとどうでもよくなってきたかも。

「アイム・ソー・エキサイテッド」ペドロ・アルモドバル
ワンシチュエーションコメディっていう形こそとっているけど、なんというか深いところで悲しみと諦念を宿していてやりきれないんだよね。アルコールもドラッグもセックスもゼロで済んでる自分にはまだまだ「生きしろ」があるなと感じた。