2012年2月27日月曜日

私の中の風紀委員

土曜日の朝、意図的な体外離脱に初めて成功しました。

「汽車はふたたび故郷へ」オタール・イオセリアーニ
イオセリアーニ本人を思わせる若き映画監督が、「共産主義政府の検閲」から逃れるためにグルジアからフランスに亡命。そしてフランスで受けた「資本主義制作者の介入」。どっちもどっちじゃね? っていう話をナイーブな若き芸術家視点で描いている。実際のイオセリアーニはこうした軋轢を乗り越えてきたからこそ今でも映画を撮り続けているわけで、この若き芸術家のナイーブさはイオセリアーニが自身に許さなかったものだろう。だからこのナイーブさを描いた本作を評して甘いというのは的を射ていると同時に的外れでもあると思う。

象徴的だなぁと思うのは、グルジアの役人たちはみな彼の映画を愛しているのに「お上がこの作品の上映を許さないだろう」という理由で上映を禁止してしまう。一方、フランスのプロデューサーたちは監督の才能に惚れ込んだと言って出資しながら、彼から制作の主導権を奪うことに躍起になっている。「役人」と「プロデューサー」ではどちらが敏感か、もっと言えば観客の心に突き刺さるものを心得ているか、で言えば圧倒的に「役人」の方なわけだ。「けしからん」というリアクションはさておき、役人の方が正しく感応できていると思うのだ。

これを実際に痛感したのは、あのフランスでさえルノワールの「ゲームの規則」を風俗紊乱の廉で上映禁止にしたという感性の正しさだ。「これを多くの者の目に触れさせてしまってはならない」というのはおそらく「良識ある人々」にとっては誤りのない判断だろう。この「正しい感応」こそが本来プロデューサーやマーケッターに求められる資質ではないのか。本来それはコンテンツとしての出来不出来とも多くの場合マージするからだ。(ただのけしからん映画というのももちろんあると思いますがw)

一方で端から「売れる/売れない」だけを基準に考えているプロデューサーは自分の心のざわめきに対して不誠実になってしまうんじゃないでしょうか。彼が出資したのは例えば「旧ソ連から亡命してきた若き芸術家」というラベルに対してであって、決して映画監督の作家性や才能に対してではなかった。ひょっとしたら「けしからん!」と一刀両断したお役人こそがもっともよき芸術の理解者なんじゃないかしら。というわけで、共産主義国の風紀委員長みたいな人にプロデューサーをやらせたら面白いものができるんじゃないでしょうかね。

「観客が気に入るかどうかなんて関係ない。観客が何かを感じるかどうかが大事なんだ。観客に少しでも何かを感じさせたら、うまくいったなって思うね」ジョン・カサヴェテス


「果てなき路」モンテ・ヘルマン
上からの流れでヘルマンは内なる風紀委員を宿したある種の強さを持った監督だと思います。本作では、劇中劇、劇中劇の撮影風景、劇中劇の元になった実話、さらにこの映画の撮影風景という4つのレイヤーが境界線をときに曖昧にしながら進んでいく。と書きながら、曖昧なのをいいことにどの描写がどのレイヤーに属していたのかを曖昧にしか分かってなかったんじゃないかって疑心暗鬼になってしまうのもこの映画の面白さといっていいんでしょうか。

フレームのちょっと外にはマイクがあったり、カメラのこちら側には大勢のスタッフがいたりと当たり前のことですが、普段は私たちが「なかったことにしているそれら」をフレームに収めることで自らの虚構性を告発すると言ったら大袈裟ですが、「君たちは出来合いのものを見てるんだよ」っていうことを突きつけてくるわけです。

特に面白かったのは、映画を作る=虚構を語るということの2つのレイヤーの主は「映画を作る」という行為の方だと私たちは普段思い込んでいるわけです。虚構を作る現実があるのだ、と。しかし、実際には撮影という行為は実にインタラクティブなんですね。演出家と演者、カメラと被写体、それらは創造者と被創造物という関係ではないわけです。文句を言ったり、刃向かったり、想像以上のパフォーマンスを見せてくれたりするわけです。つまり、虚構という現実があって、虚構が自身に働きかけてその質を変化させている。そういうことに素朴に感心してしまいました。

いずれにしても、すでに仕上がっている映画を見るという予定調和でしかない行為を肯定してくれる者があるとすればこの虚構の虚構に対する働きかけなのかなという気がします。

2012年2月24日金曜日

Life is money

「TIME」アンドリュー・ニコル
まず、平日なのに満席だということに驚く。客層はほとんどが若いカップル。「たまにしか映画を見ない人たちがたまに見る1本として選ぶ映画」の基準が最近ますますわからなくなってきた。間違いなく面白そうなの見ようと思ったら普通見ないでしょ、「TIME」とか「三丁目の夕日」とかw 嗅覚以前にモチベーションが違うんだろうね。閑話休題。

「ガタカ」の監督ってことで少しは期待してたんだけど、「余命=通貨であるような世界」がなんら哲学的な命題を含意せずに見事に表層だけを滑っていく様はまさに「滑り芸」と評したいほどの完成度で、それはそれですごいと思うんだけやっぱりつまらない。ルール自体は明快でもそれを掘り下げていくとプリンシプルが歪むような生と密着したルール運用にハッとさせられるっていうことは、政治でもスポーツでも芸術でもあると思う。その掘り下げを忌避したことによって、この映画が何を獲得したか。作家性? ポピュラリティー?

否、何もない。「近未来のボニーとクライド」に徹するならその意匠のみで勝負すればよかった。けっして軽くはないテーマの掘り下げられることのなかった「暗部」は、この映画が必死にPOPに浮かび上がろうとしているのを「呪い」として阻止している。なぜそれを語らないのか、と。個人的には、貨幣を文字通り命に見立てるという試みによって、新たな地平を切り開いてほしかった。というか、それ以外に何も期待してなかったんだけど。面白くなるチャンスを幾度となく放棄していたので「退屈だった」以上の大きな虚無感に襲われましたね。

2012年2月22日水曜日

または子供十字軍

「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」スティーブン・ダルドリー
東京大空襲と並び称されるほどの連合国側の暴挙として名高いドレスデン爆撃の不発弾が原因で声を失ったユダヤ系と思しき祖父(マックス・フォン・シドー)に、911で父親(トム・ハンクス)を失った息子(トマス・ホーン)が誰にも打ち明けることのできなかった思いの丈をぶつけるというにわかには図式的に理解しがたい複層的な事態に私たちは直面させられることになる。

私たちが直面しているのは父を失った一人の少年の喪失感とそれを埋めようとする激情だけではない。失われた声、失われた命、少なくとも六十余年という年月をかけて堆積した怒りや悲しみ、やるせなさを、少年の独白に耳を傾け無言でたたずむ老人の姿から想起することになる。六十余年の地層の上に新たに降り積もったものは歴史の厚みの前では粉砂糖程度のものかもしれない。しかし、粉砂糖が着地することによってその存在が明らかになった地層を前に、私たちはとりあえず涙という形でその厚みを受け止めるほかない。

2012年2月20日月曜日

オレもウツになりまして

「メランコリア」ラース・フォン・トリアー
映画と関係あるのかないのか微妙なところなんですが、見ている間中気持ち悪くって正確に2度ほどこみ上げる嘔吐感に席を立とうかと思ったくらい調子が悪かったんですが、そのわりには集中して最初から最後まで見ました。オープニングで荘厳なクラシックをBGMに超高速度カメラで撮った超現実的なスローモーションの「詩的映像」を流すっていう手法は「アンチクライスト」でも見ましたけど、何度もやるほど気に入ってるんですかね。わりと一発ネタっぽい手法かなと思ってたもので。しかも今回は序章じゃなくてダイジェスト版みたいな感じでしたね。初めにあらすじを教えてやるっていうオペラ的な手法なのかな。

僕はこの映画すごく楽しみにしてたんですよ。それはすごい幼稚と言えば幼稚だろうけど、空を見たこともない巨大惑星が埋め尽くすっていう絵がもうファンタジーでしょ。それが見たくてね。でも実際は空を見上げる人たちはたくさん映るんだけど、予算の関係なのか何なのか、空はあんまり映さないんですよね。虫とか馬とか電信柱とかちょっとした変化は描いているものの、重力とか大気とか普通に考えて「ザ・コア」的な天変地異が起きるだろうと。SFじゃないからってそういうのを割り切ってるところがやっぱりこの人映画好きじゃないんだなぁって思えてしまう。

繊細で気が弱くて感受性が強すぎる女の人ってこれまでもトリアーがたくさん描いてきた人物像だと思いますが、みんな判で押したように似たような演技をするのは演出力といっていいんでしょうか。あの口半開きで対象物を目で追う演技とかもはや「型」といってもいいくらい完成されていると思います。エミリー・ワトソン、ニコール・キッドマン、ビョーク、シャルロット・ゲンズブール、そして今回のキルステン・ダンストと、誰がやっても同じ表情、同じ演技するんだよなぁ。笑いながら見てるけど、本来はそういうのは退屈だと思っています。普通の芝居してるシャーロット・ランプリングの方が全然面白い。

壮大なセルフセラピー=オナニーという言葉は決してそのまま批判にはなり得ないと思うんですが、肝である壮大さが欠けていたらそれはどうなんでしょうね。キーファー・サザーランドが地球の危機を救うために奔走するハリウッドリメイク(笑)の方が素直に面白そうと思ってしまえる、そんな映画でした。


「ニーチェの馬」タル・ヴェーラ
僕はこの人、見たことなかったんです。「辺境のお芸術作家」というタルコフスキー的なイメージでね。やっぱり偏見はよくありませんね。

奇しくも「メランコリア」と2日続けて「世界の終わり」を描いた映画を見るハメになってしまいました。トリノ郊外で一匹の馬(通りでひどく叩かれているのを見たニーチェが死ぬ2日前にその首に泣いてすがったという馬車馬)と暮らす父と娘。吹きすさぶ風は止むことなく、2人の単調な生活を徐々に侵害していく。水は涸れ、火は燃え尽き、光も閉ざされていく。逆創世記といった趣。

冒頭の馬車が走ってるシーンから、本当にアホみたいな長回しばかりで、カメラがもうにっちもさっちもいかなくなるところまでカットが続く。だからここでカットは終わるしかないという絵で終わるから非常に分かりやすいと言えば分かりやすい。息が詰まるようなと書きたいところなんだけど、実際には美しい照明、考え抜かれたカメラワーク、テンポのよい演出、ほしい所で鳴るBGMなどによって高度に洗練された「商業映画」的なストレスのない画面運びになっているため、ぱっと見ほどの重苦しさはない(それでも観客の多くはぱっと見の重苦しさの方を優先させてしまうでしょうね)。

「メランコリア」がパライノイアックな「私の世界の終わり」だったとすれば、こちらは広がりを感じさせる世界の終わりを描けていると感じました。惑星の衝突という「大事」に対して、荒野の一軒家の中だけで描かれる終末がなぜ普遍的たり得るのか。それはおそらく遠景を排除された極私的な近景が逆説的に普遍性を獲得しているからでしょう。巨大惑星メランコリアが浮かぶ空をどれだけ多くの者が共有したとしても、それはどこか非現実的で曖昧な不安や恐怖の一表象という側面を持ってしまう。石造りの一軒家、父と娘が向かい合う食卓。一切の虚飾を排したストイックな光と影が「世界」を表象してしまうというのはこの映画のというよりも、映画というメディアのポテンシャルを引き出してくれたという気がしましたね。

ラスト、火も水もないのに食卓に上がったジャガイモを食べようとする親子を訝しく思いながら見ていましたが、あの「シャク」という咀嚼音ですべてを許しましたw

2012年2月17日金曜日

抑圧の心は父心


先日ちょっと書いたけど、僕が黒沢清の「六甲」という8ミリフィルムを見ていないことに不信と軽蔑を隠さなかった先輩は、決して「比較優位(お前が見ていないものを俺は見ている)」をつくり出すために未見であることを批判したわけじゃなく、ただ教育者として正しく振る舞っただけだったのだと思う。まあ結果として「比較優位(および劣位)」は醸成されてしまうのだけれどもw。

2012年2月16日木曜日

複製技術時代の芸術家

複製された芸術にはアウラは宿らない。

はたして本当だろうか。マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンが短命だったことと彼らの複製された声が世界中で再生され続けていたことが無関係だったとは私には到底思えない。

レコードであれば「消耗」は「針と溝」によって担われていたわけだが、CDやデジタルデータにおいては「消耗」の担い手はそこにはいない。幾ばくかの金銭と引き換えに「消耗=消費」の権利を得た者はレコードの溝の代わりに何を磨り減らしたのか。消費の権利は芸術家にとって呪いとして機能しなかっただろうか。大瀧詠一が訴える「すべての作品は未公開かPD(パブリックドメイン)にした方がいい」という主張は真のソリューションたり得るのかもしれない。

2012年2月14日火曜日

運動から遠く離れて

「メランコリア」の予告編でキルステン・ダンストの指先から青いオーラみたいのが出てるの見ただけで泣いちゃうアラフォー男子がお届けする映画3本分の何か。

「パーフェクト・センス」デビッド・マッケンジー
ユアン・マクレガーとエヴァ・グリーンなんだからそりゃ見に行くでしょ。ロンドンを舞台に、五感が徐々に奪われていくという奇病に世界中の人々が冒されていく様を描いたSFラブストーリー。深い悲しみと嗅覚の喪失、暴力的な飢餓感と味覚の喪失、激しい怒りと聴覚の喪失、多幸感と視覚の喪失。五感の喪失の前兆として描かれる病的な感情や欲求の描写が面白い。2人は多数の先行事例を前に、常に「自分の番」を待っている。そんな中で、感覚を喪失しながらも生きることにどれだけ前向きでいられるかという挑戦を描くことに主眼をおいているため、サスペンス、SF要素はやや希薄だ。(その辺でもっと面白くなるのにという不満もあるが)

「感覚を失っても愛し合うことは可能か」というのがこの映画の問いかけだ。嗅覚、聴覚、味覚を失い、さらに視覚を失う瞬間、最後に目にしたものが愛する人であれば、そこに行って触れることができる。だが触覚さえも失ってしまったらどうだろう。映画はその先を描いていない。しかし、誰もが想像してみることだろう。五感を失ってなお、人は決して無ではない世界とどのように対峙することができるのか。その恐怖、あるいは喜びをこの映画は描いていない。いや、映画には描けないのだ。それを想起させただけでもこの映画には意味があった。


「帽子箱を持った少女」ボリス・バルネット
運動そのものの持つ魅力を最大限に表現できた映画のひとつなんじゃないだろうか。冒頭で、駅と少女の家を結ぶ、あの雪の丘陵に渡された木の歩動を滑り落ちるようにして走ってくる鉄道員をロングショットで収めた絵がなぜあれほど感動的なのか。それが紛れもない映画だからだというトートロジックな説明しかできない。何でもそうだと思うけど、本当に素晴らしいものって言い換えが不可能なものだよね。


「ドラゴン・タトゥーの女」デビッド・フィンチャー(ネタバレっぽいこと書きます)
フィンチャーだからね、構図とかカットのつなぎとかそういうモノが一切のストレスなく見れるので、複雑なプロットを説明的にならずに、シャレ乙にw演出できる強さがありましたね。ディテールもよくできてて、あのヘーデスタの洋館と離れの仮住まいとか、あの一帯の雰囲気がめちゃくちゃいいですね。ストックホルム、ヘーデスタ、ロンドンっていう3つの都市(どこも寒そうだが)がちゃんと絵として描き分けられているのもよかった。でも、何よりも心打たれたのは変態サイコパスの台詞でした。

「なぜ危機を察知したのにお前は逃げなかった? 俺の機嫌を損ねるのが怖かったからだろう」

これには本当にズシーンと来ましたね。常に誰かの機嫌を気にしながら生きている僕のような小さな人間にはこれ以上ないくらいの衝撃だったんじゃないでしょうか。これには「他人の機嫌を損ねても大したことはない」という経験を繰り返し積み重ねるしかないんですね。僕も若い頃に比べれば随分気にしなくなった方です。僕が誰かの機嫌をとらなかったり、あるいは意図的に害することでことで気分を悪くしたり、傷ついたりしている人はいるかもしれない。でもその人たちも「僕と同じように大丈夫」だろうと思えるようになったんですね。信頼と言えば聞こえはいいですが、まあそういう事です。

映画と一見関係ない話になっちゃいましたが、リスベットというニュータイプのヒロインが受け入れられるのも、他人の機嫌を気にしてばっかりの人が多いからだという気がしますね。

2012年2月9日木曜日

祝福としての抑圧


内田樹の「呪いの時代」の冒頭で語られている「自分が知っている事柄を過大評価して自分が知らない事柄を過小評価する性向」がいかに反知性的な態度かということよく理解できるし、自分の知に対しての客観性を持つことが知のスタートだという指摘も至極もっともだと思う。また、そうした客観性の欠如こそが現代の病理だというのも実感としてよく分かる。

だからこそ、「お前はこんなことも知らないのか」というツッコミは、それがいかに発話者の反知性的な態度の発露であっても、相手にとっては「己が何を知らないのか」を知る好機になるのではないか。これは別に謙虚さを称揚したいわけじゃなくて、下品なツッコミに対してもシャッターを降ろさなければ知性を磨くチャンスはあるっていう貪欲さの奨励だと思っていただきたい。

「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」は最初は与えられた外圧として、次に内圧として、最後に与える外圧として機能する。そうした面倒くさい抑圧から無縁でいられれば一番よいのだが、どうもこの抑圧には負の側面ばかりではないのではないかと最近思い始めている。というのも、こうした抑圧のタガが機能していないところでの言論表現はあまりにも稚拙だからだ。

ぼくが敬愛するある映画作家が高校時代に撮った8ミリフィルムを見たことがないということを抑圧してくれた「先輩」にはすごい感謝している。半ば冗談ではあったけど(ということは半ば本気で)「あれを見ないで『好き』とか言ってるんだ。ふーん」みたいな感じで。

ある映画(に限らずなんでもいいんだけど)を見たことがあるかないかということとその人の知性との相関関係は一見ないように思えるが、その人の知性のあり方を揺るがすような映画というのは間違いなくあって、そうした経験を経ているかどうか、ということはその人の思考や言語運用に致命的な影響を与えうる。

それを経験的に知っている人は、自身の快楽のための「断言」はしても、決して「現時点での結論」など過大評価しないし、自己肯定のために自分が持った考えや自分の発した言葉の奴隷になるようなことはない。

あらゆる事物は「まだ経験されていない」限りにおいて開かれているが、既知の烙印を押され、もう経験の必要がないと判断された時点でそこから広がるかもしれなかった無限の可能性を閉ざしてしまう。

2012年2月7日火曜日

帰れソ連邦へ

見た順で。旧ソ連の監督シリーズということで。

■「騎手物語」ボリス・バルネット
「ジアードゥシュカ!」あの目が離れていて肩幅が広くて屈託の無い笑顔の女の子が何度も口にするロシア語で「おじいちゃん」を意味するこの語が耳を離れない。最初に少女が登場するあのバンジージャンプと電報の到着のほとんど荒唐無稽といっていい生の肯定感。「ピクニック」のブランコのシーンとか「新学期操行ゼロ」の枕投げのシーンとか、こんなんばっかり集めて「ニューシネマパラダイス」みたいに見ていたい。というのは退廃的すぎるんだろうか。

老騎手の捲土重来というストーリーには何の意外性もないんだけど、田舎に帰った老騎手が速い馬を見つけるくだり、車の運転が覚えられない女医さんからエゴールカを守るためのトリックとそのギミックに気づいていない老騎手が怒るところ、結局は女医がエゴールカを返しに来るっていう一連のお約束的な流れがなぜこうもいきいきと描けるのか。競馬場意外はほとんどのシーンが田舎のロケだと思うんだけど、このロケーション撮影の素晴らしさは特筆モノだと思う。

撮影に関して言えばやはり走る馬を撮ることに対する大胆なチャレンジは見ものだった。牽引でタイヤの後が残ることや車上の撮影スタッフの影の写り込みなどお構いなしに、迫力優先でレースを撮ったのは英断だったと思う。繋綱馬車というらしいが、あのジョセフ・ジョースターとワムウの対戦を彷彿とさせる騎手が乗った車を引かせるタイプのレースというのがまた緊迫感があってよかった。

競馬場でいつもスって帰るおじさん2人組、レストランの店員、太った女医さん、床屋のおじさんなどなど脇役の繰り返されるギャグがいちいち面白い。引退した老騎手が意地を見せて復帰するんじゃなくて、若い奴に継承するっていうのも(共産主義的になのかどうかは別として)素晴らしい。


■「蝶採り」オタール・イオセリアーニ
朝寝していた男の部屋に朝日が差し込むとテーブルの上に乱雑に放置されたままの食器や食べ残しがセザンヌの静物画のように映し出される。その奥に薄汚れた下着姿の男がゆっくりと起き上がり、流し口で吐瀉し、上着を羽織るとその黒い法衣で男が神父であったということが示唆される。男はゆっくりと、テーブルの上のグラスのひとつを取り上げ、グラスの底に残ったワインを床に捨て、新たなワインをビンから注いで飲み干し、重い足取りで出口の戸を開けて外へ出て朝の礼拝へと向かう。ここまでワンカット。

特にフランスに移ってからのイオセリアーニを見ると、本当の贅沢っていうのはこういうことを言うんだよなぁっていつも思う。森茉莉みたいな、というかビジュアル的には藤子ヘミングみたいな元貴族のばあさんが2人古城に住んでて、教会でオルガン弾いたり、地元のブラスバンドでトロンボーン吹いたり、庭で銃打ったり、池の鯉を弓矢で釣ったり、古いアンティーク家具を売ったりと、それはまあ自由に暮らしてるんだけど、その自由なさまが本当に板に付いていて、脱サラした人とか都会から田舎に居を移した人とかとは桁違いの、筋金入りの、ちょっとやそっとじゃ真似できないレベルの圧倒的な自由さを感じるわけだ。「没落」の悲壮感なんて微塵も感じさせない。というかそんなものは「こちら側」が勝手な想像の産物でしかなかったのだろう。私だけが栄華の中にいて何が悪い、とでもいわんばかりのその態度には清々しさが漂っている。

こういう亡霊のような貴族的な振る舞いっていうのは、その現前でぼくらの現実を圧倒してくれる。とにかく粋で洒脱で洗練されてて、無粋や野暮を徹底的に排除する気高さを矜持とすることで細々としかし連綿と続いてきた文化、というよりもスピリット。ぼくらはそれを文化遺産のような形でしか愛することができなくなってしまったのだ。

罵倒も侮辱も軽蔑も、その底流に滔滔とたたえられた愛があれば諧謔でしかない。映画ってまさにそういうスピリットを表現するためのメディアなんじゃないかっていうのは言い過ぎかもしれないけど、ぼくが心底好きな映画っていうのはこういう映画です。


■「歌うツグミがおりました」オタール・イオセリアーニ
なんだろう。もうまんまヌーベルバーグって感じの画面。グルジアの首都トビリシを舞台に、ほとんど多動性障害の女好きのティンパニ奏者の日常を追った作品。もろ「アデュー・フィリピーヌ」の前半みたいな感じなんだけど、「アデュー」が1962年だから、1970年のこの映画が直接的な影響下にあったってことは考え得るわけですね。ヌーベルバーグには「都市で映画をとること」という強い側面があったんだなと再確認した次第です。


■「四月」オタール・イオセリアーニ
トーキー初期の実験的要素に満ちた映画なんだけど、草原に自生していた一本の樹が、タンスになりテーブルになり棚になりベッドになり、つまり「物質」文明に取って代わっていく様を、団地の一室に住まうことになった一組のカップルを通して批判的に描いてる作品という一面が興味深いですね。カップルの追いかけっこを通して描いた立体的造形物として魅力的な下町とフラットでスクエアな団地の退屈さとの対比。62年でにこの境地に達してたっていうのは結構すごいんじゃないかな。


■「ここに幸あり」オタール・イオセリアーニ
免職になった大臣がパリの地元で古くからの友人たちと飲んだり食ったり歌ったりしているだけといえばだけなんだけど面白いんだよなぁ。なぜかミシェル・ピコリが主人公のお母さん役やってて「そんなにでかいババアがいるか」(北斗の拳より)という感じなんだけど、そのすっとぼけ具合と妙なはまり具合が絶妙で納得してしまう。イオセリアーニの描く家族って、もちろん仲はいいし、甘えるところは甘えるんだけど、どこかお互いに敬意のようなものが根本にあって、それがすごく風通しがいい。デプレシャンの正反対っていうかね。まあみんな大人ってことなんだろうと思う。女たちが一堂に会するトリュフォー的なラストも暗さはちっともなくて、ただあったかい人たちが集まってるって感じがすごくいい。


■「レスラーと道化師」ボリス・バルネット
これも以前見ていて2回目のはずなんだけど、カラーだったとは驚いた。随分褪色して赤くなってるから、これデジタル修復とかしてくれたらうれしいなあ。話は結構ヘビーで、レスラーの恋人になったブランコ乗りのミミが駆け落ちした座長の娘の代役でぶっつけで危険な演技に挑戦させられて命を落としてしまう。レスラーはそのトラウマを抱えながら生きていくんですね。一方の道化師は役人批判とかしちゃうような反骨精神あふれる義士で、あんまり本筋には絡んでこないんだけど、なんとなくレスラーの影となり日向となり、その成功をサポートする。

絵を見ていて分かったのはバルネットは西部劇がやりたかったんだってこと。影がある強くて優しい男とそれに思いを寄せる田舎娘っていう構図もそうだし、何よりレスラーが帰郷したときの宴会の様子とスカーフをかぶったマレンカの衣装がまさに西部劇インスパイアでした。50年代のロシアでホークスやフォードに熱狂していたであろうバルネットを思い浮かべるとまさに胸熱ですね。

「騎手物語」でも思ったけど、モスクワ生まれのバルネットは都市の雑踏と自然豊かな地方の描き分けがすごくうまい。どちらもすごい魅力的に撮るんですね。また「騎手物語」でもそうでしたが、コメディリリーフみたいのがメチャクチャ面白い。しつこいくらい出てくるんだけど、出てくる度に笑いが大きくなるっていうのはすごいうまうよなって感心する。

ちなみにレスラーが組みにくいように体にオイルを塗るっていう違反行為は結構歴史があるんですね。あのシーンで桜庭の「すっごい滑るよ」を思い出した人は結構いたんじゃないでしょうか。脈絡なく思いだしたこと書きますけど、自分をひどい目に遭わせた興行主を出し抜いて懲らしめるっていうのはリアルスティールでもほとんどいただきみたいなくだりがありましたね。


■「ビーストリー」ダニエル・バーンズ
「人は見た目が10割」と公言して憚らないブロンドイケメン高校生のカイルが魔女とあだ名されるオルセン姉妹をからかって1年以内に誰かに心から愛されないと元に戻らないという呪いをかけられて醜悪な容貌に変えられてしまう。街の外れのアパートで黒人の家政婦と盲目の家庭教師と……ってあらすじ説明しても意味ないからやめるわ。

こういうのをつくるのは大体ハイスクール時代に虐げられてたギークやナードじゃないとダメなんだけど、その辺のルサンチマンが圧倒的に足りない。少なくとも現場の半分以上はそういう人たちという状況で作り直したらもうちょっと面白くなるんじゃないですかね。まあそれでも見には行かないけどね。

本気で「人は見た目じゃない」を言いたいんだったら、ブス2人でつくらなきゃウソだよ。お姫様は醜い男に真の優しさを見出したかもしれないけど、王子様はお姫様の容貌に惹かれてるんだから。俺だったら、呪いをかけたオルセン姉妹(容姿端麗な主人公に惹かれていないブスという設定)が「私を本気にさせてみなさい。できたら元通りにしてあげる」っていうアレンジで、ラストは心も醜いオルセン姉妹が捨てられるっていうひどい話にするけどね。

2012年2月6日月曜日

モンパルナスとルヴァロワ

もしある人がその人の人生を揺るがすような「作品」に出会う機会を逸していたとしたら、それは単にその人のセンスなり嗅覚なり運なりが足りなかったってことだと思うんです。宛先がちゃんと書いてある手紙は必ずその人のところに届く。手紙が来なかったっていうことはその人の宛先は書いてなかったっていうだけのこと。

これは単なる運命論ではなく「消費」に関する命題でもあります。「作品」をそのまま「商品」と言い換えれば、本当に自分が必要なものを知っている消費者のところには必ずその商品は届く。すべての消費者はその覚悟を前提としているべきだし、作り手も売り手もその消費者の覚悟を信用すべきだと思いますね。

戦友的な?

最近バルネットとイオセリアーニでユーロスペースに足繁く通ってるんだけど、たまにそういう特集上映系に行くと知り合いではないんだけど10年以上前から何度も見たことある人というのが何人かいて、映画見始めて20年近くになりますが、内心(何だお前まだ映画見てんのか?)的な一方的な旧交の温め方をしてひとりほっこりするわけです。

映画祭とかフィルムセンターとかからは随分足が遠のいてしまったけど、東京の映画館で見かけなくなっちゃった人も大阪やパリやニューヨークやロサンゼルスで見続けてるのかもしれないなあなんて思ったりして。