見た順で。旧ソ連の監督シリーズということで。
■「騎手物語」ボリス・バルネット
「ジアードゥシュカ!」あの目が離れていて肩幅が広くて屈託の無い笑顔の女の子が何度も口にするロシア語で「おじいちゃん」を意味するこの語が耳を離れない。最初に少女が登場するあのバンジージャンプと電報の到着のほとんど荒唐無稽といっていい生の肯定感。「ピクニック」のブランコのシーンとか「新学期操行ゼロ」の枕投げのシーンとか、こんなんばっかり集めて「ニューシネマパラダイス」みたいに見ていたい。というのは退廃的すぎるんだろうか。
老騎手の捲土重来というストーリーには何の意外性もないんだけど、田舎に帰った老騎手が速い馬を見つけるくだり、車の運転が覚えられない女医さんからエゴールカを守るためのトリックとそのギミックに気づいていない老騎手が怒るところ、結局は女医がエゴールカを返しに来るっていう一連のお約束的な流れがなぜこうもいきいきと描けるのか。競馬場意外はほとんどのシーンが田舎のロケだと思うんだけど、このロケーション撮影の素晴らしさは特筆モノだと思う。
撮影に関して言えばやはり走る馬を撮ることに対する大胆なチャレンジは見ものだった。牽引でタイヤの後が残ることや車上の撮影スタッフの影の写り込みなどお構いなしに、迫力優先でレースを撮ったのは英断だったと思う。繋綱馬車というらしいが、あのジョセフ・ジョースターとワムウの対戦を彷彿とさせる騎手が乗った車を引かせるタイプのレースというのがまた緊迫感があってよかった。
競馬場でいつもスって帰るおじさん2人組、レストランの店員、太った女医さん、床屋のおじさんなどなど脇役の繰り返されるギャグがいちいち面白い。引退した老騎手が意地を見せて復帰するんじゃなくて、若い奴に継承するっていうのも(共産主義的になのかどうかは別として)素晴らしい。
■「蝶採り」オタール・イオセリアーニ
朝寝していた男の部屋に朝日が差し込むとテーブルの上に乱雑に放置されたままの食器や食べ残しがセザンヌの静物画のように映し出される。その奥に薄汚れた下着姿の男がゆっくりと起き上がり、流し口で吐瀉し、上着を羽織るとその黒い法衣で男が神父であったということが示唆される。男はゆっくりと、テーブルの上のグラスのひとつを取り上げ、グラスの底に残ったワインを床に捨て、新たなワインをビンから注いで飲み干し、重い足取りで出口の戸を開けて外へ出て朝の礼拝へと向かう。ここまでワンカット。
特にフランスに移ってからのイオセリアーニを見ると、本当の贅沢っていうのはこういうことを言うんだよなぁっていつも思う。森茉莉みたいな、というかビジュアル的には藤子ヘミングみたいな元貴族のばあさんが2人古城に住んでて、教会でオルガン弾いたり、地元のブラスバンドでトロンボーン吹いたり、庭で銃打ったり、池の鯉を弓矢で釣ったり、古いアンティーク家具を売ったりと、それはまあ自由に暮らしてるんだけど、その自由なさまが本当に板に付いていて、脱サラした人とか都会から田舎に居を移した人とかとは桁違いの、筋金入りの、ちょっとやそっとじゃ真似できないレベルの圧倒的な自由さを感じるわけだ。「没落」の悲壮感なんて微塵も感じさせない。というかそんなものは「こちら側」が勝手な想像の産物でしかなかったのだろう。私だけが栄華の中にいて何が悪い、とでもいわんばかりのその態度には清々しさが漂っている。
こういう亡霊のような貴族的な振る舞いっていうのは、その現前でぼくらの現実を圧倒してくれる。とにかく粋で洒脱で洗練されてて、無粋や野暮を徹底的に排除する気高さを矜持とすることで細々としかし連綿と続いてきた文化、というよりもスピリット。ぼくらはそれを文化遺産のような形でしか愛することができなくなってしまったのだ。
罵倒も侮辱も軽蔑も、その底流に滔滔とたたえられた愛があれば諧謔でしかない。映画ってまさにそういうスピリットを表現するためのメディアなんじゃないかっていうのは言い過ぎかもしれないけど、ぼくが心底好きな映画っていうのはこういう映画です。
■「歌うツグミがおりました」オタール・イオセリアーニ
なんだろう。もうまんまヌーベルバーグって感じの画面。グルジアの首都トビリシを舞台に、ほとんど多動性障害の女好きのティンパニ奏者の日常を追った作品。もろ「アデュー・フィリピーヌ」の前半みたいな感じなんだけど、「アデュー」が1962年だから、1970年のこの映画が直接的な影響下にあったってことは考え得るわけですね。ヌーベルバーグには「都市で映画をとること」という強い側面があったんだなと再確認した次第です。
■「四月」オタール・イオセリアーニ
トーキー初期の実験的要素に満ちた映画なんだけど、草原に自生していた一本の樹が、タンスになりテーブルになり棚になりベッドになり、つまり「物質」文明に取って代わっていく様を、団地の一室に住まうことになった一組のカップルを通して批判的に描いてる作品という一面が興味深いですね。カップルの追いかけっこを通して描いた立体的造形物として魅力的な下町とフラットでスクエアな団地の退屈さとの対比。62年でにこの境地に達してたっていうのは結構すごいんじゃないかな。
■「ここに幸あり」オタール・イオセリアーニ
免職になった大臣がパリの地元で古くからの友人たちと飲んだり食ったり歌ったりしているだけといえばだけなんだけど面白いんだよなぁ。なぜかミシェル・ピコリが主人公のお母さん役やってて「そんなにでかいババアがいるか」(北斗の拳より)という感じなんだけど、そのすっとぼけ具合と妙なはまり具合が絶妙で納得してしまう。イオセリアーニの描く家族って、もちろん仲はいいし、甘えるところは甘えるんだけど、どこかお互いに敬意のようなものが根本にあって、それがすごく風通しがいい。デプレシャンの正反対っていうかね。まあみんな大人ってことなんだろうと思う。女たちが一堂に会するトリュフォー的なラストも暗さはちっともなくて、ただあったかい人たちが集まってるって感じがすごくいい。
■「レスラーと道化師」ボリス・バルネット
これも以前見ていて2回目のはずなんだけど、カラーだったとは驚いた。随分褪色して赤くなってるから、これデジタル修復とかしてくれたらうれしいなあ。話は結構ヘビーで、レスラーの恋人になったブランコ乗りのミミが駆け落ちした座長の娘の代役でぶっつけで危険な演技に挑戦させられて命を落としてしまう。レスラーはそのトラウマを抱えながら生きていくんですね。一方の道化師は役人批判とかしちゃうような反骨精神あふれる義士で、あんまり本筋には絡んでこないんだけど、なんとなくレスラーの影となり日向となり、その成功をサポートする。
絵を見ていて分かったのはバルネットは西部劇がやりたかったんだってこと。影がある強くて優しい男とそれに思いを寄せる田舎娘っていう構図もそうだし、何よりレスラーが帰郷したときの宴会の様子とスカーフをかぶったマレンカの衣装がまさに西部劇インスパイアでした。50年代のロシアでホークスやフォードに熱狂していたであろうバルネットを思い浮かべるとまさに胸熱ですね。
「騎手物語」でも思ったけど、モスクワ生まれのバルネットは都市の雑踏と自然豊かな地方の描き分けがすごくうまい。どちらもすごい魅力的に撮るんですね。また「騎手物語」でもそうでしたが、コメディリリーフみたいのがメチャクチャ面白い。しつこいくらい出てくるんだけど、出てくる度に笑いが大きくなるっていうのはすごいうまうよなって感心する。
ちなみにレスラーが組みにくいように体にオイルを塗るっていう違反行為は結構歴史があるんですね。あのシーンで桜庭の「すっごい滑るよ」を思い出した人は結構いたんじゃないでしょうか。脈絡なく思いだしたこと書きますけど、自分をひどい目に遭わせた興行主を出し抜いて懲らしめるっていうのはリアルスティールでもほとんどいただきみたいなくだりがありましたね。
■「ビーストリー」ダニエル・バーンズ
「人は見た目が10割」と公言して憚らないブロンドイケメン高校生のカイルが魔女とあだ名されるオルセン姉妹をからかって1年以内に誰かに心から愛されないと元に戻らないという呪いをかけられて醜悪な容貌に変えられてしまう。街の外れのアパートで黒人の家政婦と盲目の家庭教師と……ってあらすじ説明しても意味ないからやめるわ。
こういうのをつくるのは大体ハイスクール時代に虐げられてたギークやナードじゃないとダメなんだけど、その辺のルサンチマンが圧倒的に足りない。少なくとも現場の半分以上はそういう人たちという状況で作り直したらもうちょっと面白くなるんじゃないですかね。まあそれでも見には行かないけどね。
本気で「人は見た目じゃない」を言いたいんだったら、ブス2人でつくらなきゃウソだよ。お姫様は醜い男に真の優しさを見出したかもしれないけど、王子様はお姫様の容貌に惹かれてるんだから。俺だったら、呪いをかけたオルセン姉妹(容姿端麗な主人公に惹かれていないブスという設定)が「私を本気にさせてみなさい。できたら元通りにしてあげる」っていうアレンジで、ラストは心も醜いオルセン姉妹が捨てられるっていうひどい話にするけどね。
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