「メランコリア」ラース・フォン・トリアー
映画と関係あるのかないのか微妙なところなんですが、見ている間中気持ち悪くって正確に2度ほどこみ上げる嘔吐感に席を立とうかと思ったくらい調子が悪かったんですが、そのわりには集中して最初から最後まで見ました。オープニングで荘厳なクラシックをBGMに超高速度カメラで撮った超現実的なスローモーションの「詩的映像」を流すっていう手法は「アンチクライスト」でも見ましたけど、何度もやるほど気に入ってるんですかね。わりと一発ネタっぽい手法かなと思ってたもので。しかも今回は序章じゃなくてダイジェスト版みたいな感じでしたね。初めにあらすじを教えてやるっていうオペラ的な手法なのかな。
僕はこの映画すごく楽しみにしてたんですよ。それはすごい幼稚と言えば幼稚だろうけど、空を見たこともない巨大惑星が埋め尽くすっていう絵がもうファンタジーでしょ。それが見たくてね。でも実際は空を見上げる人たちはたくさん映るんだけど、予算の関係なのか何なのか、空はあんまり映さないんですよね。虫とか馬とか電信柱とかちょっとした変化は描いているものの、重力とか大気とか普通に考えて「ザ・コア」的な天変地異が起きるだろうと。SFじゃないからってそういうのを割り切ってるところがやっぱりこの人映画好きじゃないんだなぁって思えてしまう。
繊細で気が弱くて感受性が強すぎる女の人ってこれまでもトリアーがたくさん描いてきた人物像だと思いますが、みんな判で押したように似たような演技をするのは演出力といっていいんでしょうか。あの口半開きで対象物を目で追う演技とかもはや「型」といってもいいくらい完成されていると思います。エミリー・ワトソン、ニコール・キッドマン、ビョーク、シャルロット・ゲンズブール、そして今回のキルステン・ダンストと、誰がやっても同じ表情、同じ演技するんだよなぁ。笑いながら見てるけど、本来はそういうのは退屈だと思っています。普通の芝居してるシャーロット・ランプリングの方が全然面白い。
壮大なセルフセラピー=オナニーという言葉は決してそのまま批判にはなり得ないと思うんですが、肝である壮大さが欠けていたらそれはどうなんでしょうね。キーファー・サザーランドが地球の危機を救うために奔走するハリウッドリメイク(笑)の方が素直に面白そうと思ってしまえる、そんな映画でした。
「ニーチェの馬」タル・ヴェーラ
僕はこの人、見たことなかったんです。「辺境のお芸術作家」というタルコフスキー的なイメージでね。やっぱり偏見はよくありませんね。
奇しくも「メランコリア」と2日続けて「世界の終わり」を描いた映画を見るハメになってしまいました。トリノ郊外で一匹の馬(通りでひどく叩かれているのを見たニーチェが死ぬ2日前にその首に泣いてすがったという馬車馬)と暮らす父と娘。吹きすさぶ風は止むことなく、2人の単調な生活を徐々に侵害していく。水は涸れ、火は燃え尽き、光も閉ざされていく。逆創世記といった趣。
冒頭の馬車が走ってるシーンから、本当にアホみたいな長回しばかりで、カメラがもうにっちもさっちもいかなくなるところまでカットが続く。だからここでカットは終わるしかないという絵で終わるから非常に分かりやすいと言えば分かりやすい。息が詰まるようなと書きたいところなんだけど、実際には美しい照明、考え抜かれたカメラワーク、テンポのよい演出、ほしい所で鳴るBGMなどによって高度に洗練された「商業映画」的なストレスのない画面運びになっているため、ぱっと見ほどの重苦しさはない(それでも観客の多くはぱっと見の重苦しさの方を優先させてしまうでしょうね)。
「メランコリア」がパライノイアックな「私の世界の終わり」だったとすれば、こちらは広がりを感じさせる世界の終わりを描けていると感じました。惑星の衝突という「大事」に対して、荒野の一軒家の中だけで描かれる終末がなぜ普遍的たり得るのか。それはおそらく遠景を排除された極私的な近景が逆説的に普遍性を獲得しているからでしょう。巨大惑星メランコリアが浮かぶ空をどれだけ多くの者が共有したとしても、それはどこか非現実的で曖昧な不安や恐怖の一表象という側面を持ってしまう。石造りの一軒家、父と娘が向かい合う食卓。一切の虚飾を排したストイックな光と影が「世界」を表象してしまうというのはこの映画のというよりも、映画というメディアのポテンシャルを引き出してくれたという気がしましたね。
ラスト、火も水もないのに食卓に上がったジャガイモを食べようとする親子を訝しく思いながら見ていましたが、あの「シャク」という咀嚼音ですべてを許しましたw
0 件のコメント:
コメントを投稿