内田樹の「呪いの時代」の冒頭で語られている「自分が知っている事柄を過大評価して自分が知らない事柄を過小評価する性向」がいかに反知性的な態度かということよく理解できるし、自分の知に対しての客観性を持つことが知のスタートだという指摘も至極もっともだと思う。また、そうした客観性の欠如こそが現代の病理だというのも実感としてよく分かる。
だからこそ、「お前はこんなことも知らないのか」というツッコミは、それがいかに発話者の反知性的な態度の発露であっても、相手にとっては「己が何を知らないのか」を知る好機になるのではないか。これは別に謙虚さを称揚したいわけじゃなくて、下品なツッコミに対してもシャッターを降ろさなければ知性を磨くチャンスはあるっていう貪欲さの奨励だと思っていただきたい。
「こんなことも知らないなんて恥ずかしい」は最初は与えられた外圧として、次に内圧として、最後に与える外圧として機能する。そうした面倒くさい抑圧から無縁でいられれば一番よいのだが、どうもこの抑圧には負の側面ばかりではないのではないかと最近思い始めている。というのも、こうした抑圧のタガが機能していないところでの言論表現はあまりにも稚拙だからだ。
ぼくが敬愛するある映画作家が高校時代に撮った8ミリフィルムを見たことがないということを抑圧してくれた「先輩」にはすごい感謝している。半ば冗談ではあったけど(ということは半ば本気で)「あれを見ないで『好き』とか言ってるんだ。ふーん」みたいな感じで。
ある映画(に限らずなんでもいいんだけど)を見たことがあるかないかということとその人の知性との相関関係は一見ないように思えるが、その人の知性のあり方を揺るがすような映画というのは間違いなくあって、そうした経験を経ているかどうか、ということはその人の思考や言語運用に致命的な影響を与えうる。
それを経験的に知っている人は、自身の快楽のための「断言」はしても、決して「現時点での結論」など過大評価しないし、自己肯定のために自分が持った考えや自分の発した言葉の奴隷になるようなことはない。
あらゆる事物は「まだ経験されていない」限りにおいて開かれているが、既知の烙印を押され、もう経験の必要がないと判断された時点でそこから広がるかもしれなかった無限の可能性を閉ざしてしまう。
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