「汽車はふたたび故郷へ」オタール・イオセリアーニ
イオセリアーニ本人を思わせる若き映画監督が、「共産主義政府の検閲」から逃れるためにグルジアからフランスに亡命。そしてフランスで受けた「資本主義制作者の介入」。どっちもどっちじゃね? っていう話をナイーブな若き芸術家視点で描いている。実際のイオセリアーニはこうした軋轢を乗り越えてきたからこそ今でも映画を撮り続けているわけで、この若き芸術家のナイーブさはイオセリアーニが自身に許さなかったものだろう。だからこのナイーブさを描いた本作を評して甘いというのは的を射ていると同時に的外れでもあると思う。
象徴的だなぁと思うのは、グルジアの役人たちはみな彼の映画を愛しているのに「お上がこの作品の上映を許さないだろう」という理由で上映を禁止してしまう。一方、フランスのプロデューサーたちは監督の才能に惚れ込んだと言って出資しながら、彼から制作の主導権を奪うことに躍起になっている。「役人」と「プロデューサー」ではどちらが敏感か、もっと言えば観客の心に突き刺さるものを心得ているか、で言えば圧倒的に「役人」の方なわけだ。「けしからん」というリアクションはさておき、役人の方が正しく感応できていると思うのだ。
これを実際に痛感したのは、あのフランスでさえルノワールの「ゲームの規則」を風俗紊乱の廉で上映禁止にしたという感性の正しさだ。「これを多くの者の目に触れさせてしまってはならない」というのはおそらく「良識ある人々」にとっては誤りのない判断だろう。この「正しい感応」こそが本来プロデューサーやマーケッターに求められる資質ではないのか。本来それはコンテンツとしての出来不出来とも多くの場合マージするからだ。(ただのけしからん映画というのももちろんあると思いますがw)
一方で端から「売れる/売れない」だけを基準に考えているプロデューサーは自分の心のざわめきに対して不誠実になってしまうんじゃないでしょうか。彼が出資したのは例えば「旧ソ連から亡命してきた若き芸術家」というラベルに対してであって、決して映画監督の作家性や才能に対してではなかった。ひょっとしたら「けしからん!」と一刀両断したお役人こそがもっともよき芸術の理解者なんじゃないかしら。というわけで、共産主義国の風紀委員長みたいな人にプロデューサーをやらせたら面白いものができるんじゃないでしょうかね。
「観客が気に入るかどうかなんて関係ない。観客が何かを感じるかどうかが大事なんだ。観客に少しでも何かを感じさせたら、うまくいったなって思うね」ジョン・カサヴェテス
「果てなき路」モンテ・ヘルマン
上からの流れでヘルマンは内なる風紀委員を宿したある種の強さを持った監督だと思います。本作では、劇中劇、劇中劇の撮影風景、劇中劇の元になった実話、さらにこの映画の撮影風景という4つのレイヤーが境界線をときに曖昧にしながら進んでいく。と書きながら、曖昧なのをいいことにどの描写がどのレイヤーに属していたのかを曖昧にしか分かってなかったんじゃないかって疑心暗鬼になってしまうのもこの映画の面白さといっていいんでしょうか。
フレームのちょっと外にはマイクがあったり、カメラのこちら側には大勢のスタッフがいたりと当たり前のことですが、普段は私たちが「なかったことにしているそれら」をフレームに収めることで自らの虚構性を告発すると言ったら大袈裟ですが、「君たちは出来合いのものを見てるんだよ」っていうことを突きつけてくるわけです。
特に面白かったのは、映画を作る=虚構を語るということの2つのレイヤーの主は「映画を作る」という行為の方だと私たちは普段思い込んでいるわけです。虚構を作る現実があるのだ、と。しかし、実際には撮影という行為は実にインタラクティブなんですね。演出家と演者、カメラと被写体、それらは創造者と被創造物という関係ではないわけです。文句を言ったり、刃向かったり、想像以上のパフォーマンスを見せてくれたりするわけです。つまり、虚構という現実があって、虚構が自身に働きかけてその質を変化させている。そういうことに素朴に感心してしまいました。
いずれにしても、すでに仕上がっている映画を見るという予定調和でしかない行為を肯定してくれる者があるとすればこの虚構の虚構に対する働きかけなのかなという気がします。
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