複製された芸術にはアウラは宿らない。
はたして本当だろうか。マイケル・ジャクソンやホイットニー・ヒューストンが短命だったことと彼らの複製された声が世界中で再生され続けていたことが無関係だったとは私には到底思えない。
レコードであれば「消耗」は「針と溝」によって担われていたわけだが、CDやデジタルデータにおいては「消耗」の担い手はそこにはいない。幾ばくかの金銭と引き換えに「消耗=消費」の権利を得た者はレコードの溝の代わりに何を磨り減らしたのか。消費の権利は芸術家にとって呪いとして機能しなかっただろうか。大瀧詠一が訴える「すべての作品は未公開かPD(パブリックドメイン)にした方がいい」という主張は真のソリューションたり得るのかもしれない。
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