2011年12月31日土曜日

2011映画テンペスト

2011年のベスト10です。ロードショー作品に限定しました。まあほとんど旧作見ていないので実質今年見た映画のベスト10ですね。おそらく「ヒアアフター」という津波にのみ込まれて、まだその中でもみくちゃにされてるというのが実のところなんですが、まあまあ色が出たんじゃないですかね。これ以降に見た映画は来年に組み込みます。

1.「ヒアアフター」 クリント・イーストウッド
別格でした。映画に限らず、今年あった出来事、出会った人、読んだ本、聴いた音楽……、すべての中で断トツの1位。いろんな人のレビューや批評を読んだけど、ぼくが見たこの映画のことを語ったものにはまだ出会えてません。本当だったら自分で書ければ一番いいんだけど、いまだに何書いていいか分からない。地震の2週間前に日本でこの映画を見たっていうのも後づけだけどすごい体験だったと思います。料理教室とブックフェアに行ってみたくなりましたね。そういうディテールもちゃんとした映画なんです。でも全体像が何かおかしい。捉えきれないくらい大きい。そんな感じです。後戻りができないという点でコミュニストの映画ですね。政治的な意図まったく抜きの断トツ1位です。

2.「X-MEN:First Generation」 マシュー・ヴォーン
これが上位に来る人は多いと思うけど、素直に面白かったよね。いわゆる「エピソード0」ものとして、政治劇として、ヒューマンドラマとしてお手本のような出来映えでした。ケヴィン・ベーコンっていう役者は顔で損してるけど、すごい名優ですね。

3.「モテキ」 大根仁
これは生粋の「2011年の」ベスト。10年後に見ても面白いかどうかわからない。今のサブカル、今のマサミ丼、今の空気……。それくらいこの映画の中の風俗の今が面白かったと言うことで。賑やかな夾雑物に覆われたこの映画のラブストーリーとしての本質もそれ自体として悪くなかったと思うんだけど、消費に耐えうる良質な「コンテンツ」以上のものにはなれなかったんじゃないかな。良質なコンテンツっていうだけでも今日的にはすごいことなんだけどね。

4.「トゥルー・グリット」 コーエン兄弟
コーエン兄弟の西部劇。「ウル」的には一番来た一本。あの世界観、あの最後の台詞を聞くためだけに何度でも見たいと思うようなキャピタリストの映画。DVDとかになって微妙に日本語の言い回しとかが変わってるのがむかつくからやっぱり映画館の字幕で見たい。

5.「クリスマス・ストーリー」 アルノー・デプレシャン
デプレシャンはこういう胃がキリキリするような映画ばっかり撮ってればいいさ。見る方も1年に1本が限度だけど。前作と続いて、家族、特に親子の確執を、年に一度クリスマスに集う家族の群像劇の中で描き出す。パワフルで緻密でエモーショナルなんだけど、すごい好きになれるタイプの映画ではない。また見たくはなるけど。

6.「ミッション:インポッシブル ゴーストプロトコル」 ブラッド・バード
こういうのをベスト10に入れなきゃウソなんだよ、という政治的意図込みの6位。見たあとの記事に書いたけど、個人的にはもっとハードボイルドに振ってほしかったから不満はあるんだけど、あのコミカルな演出が評判いいみたいね。でもまあどう転んでもつまらなくはないから安心して見て。お正月映画。

7.「ゴーストライター」 ロマン・ポランスキー
ロケーションと色彩設計が勝因なのは間違いないんだけど、あの無機質な大統領のプライベートハウスとかインテリアとか空間の使い方も絶妙でした。奇をてらったことはしてないんだけど、脚本も演出も外してないまさに巨匠の1本でした。

8.「人生万歳」 ウッディ・アレン
数あるアレン作品のうちの1本と言われればそれまでなんだけど、何かいいですよね。年取って偏屈なじじいになっても若い女の子と暮らせるとか夢がひろがりんぐw

9.「毎日かあさん」 小林聖太郎
邦画が「モテキ」1本っていうのもさみしいしね(邦画自体あまり見てないというのはあるけど)。上岡隆太郎の息子の1本目にして、なかなか力強い1本でしたよ。キョンキョンと永瀬っていう元夫婦共演が話題になったけど、そこは全然ドキドキしなかったんだよなぁ。なんか2人とも枯れてる感じがして。チャラと浅野忠信でも撮ってくんねえかな。

10.「キラー・インサイド・ミー」 マイケル・ウィンターボトム
無理矢理入れましたね。「ソーシャルネットワーク」より、「ブラック・スワン」よりこの映画の方が上かって話になったら、そんなわけはないですよ。しつこいようですがジェシカ・アルバのお尻に一票。

ワースト3
1.「ウォールストリート」 オリバー・ストーン
「可能な限り野暮ったい映画撮って下さい」ってオファー受けたらこういうのができるのかな。

2.「ブルーバレンタイン」
絶賛してる人が多かったけど、全然入ってこなかった。過去と現在を行ったり来たりも別に作劇的にうまくはないと思うんだ。というか気づいたんだ。俺はバカがバカなことをしているのを見るのが現実でも映画でも嫌いなんだ。なぜならそれは自分の似姿でしかないから。なんつってw

3.「恋の罪」 園子温
「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」と面白かったんだけど、これはひどかったな。そのひどさっていうのが園子温の本質的な雑さ、緻密さの欠如、丁寧さを軽視するアティチュードに起因してるわけで、後づけで他の映画も全部ダメだったってことがわかった。

2011年12月19日月曜日

世界の重石

新ピカで見たのに聖戦ケルベロスに夢中でカードにポイントつけるの忘れた。痛い。ネタバレしてますから気にする人は注意してください。

「ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル」 ブラッド・バード
 口開けて見てるだけでそりゃ面白いんだけど「MI」ってこんな作風だったっけ。というのも、ざっくり言ってこういうスパイものって容赦なく「ハードボイルド」でいいと思うんだけど、ちょいちょいギャグとかオフビートな間とかをはさんで来るのはなんなんだろう。
 「ザ・タウン」のときはメチャクチャ怖かったジェレミー・レナーもマグネットスーツ着て熱々のサーバー室に入れられるとか日本のバラエティー番組みたいだし、サイモン・ペグなんて顔からして緊張感がまるでない(実際顔オチみたいなギャグが何度かある)。ブロンドとブルネットのキャットファイトも見所のひとつなんだけど、文字通り観客を空中に放り出すような幕切れもあっけにとられる(それまでの「あいつは大事な情報源だから絶対に殺すなよ」というトム君の念押しが周到なフリとしてしか機能していない)。核戦争の危機といっても、いやミサイルが発射されて以後ですら、それ自体に肝を冷やすような場面はまったくないと言っていい。「どうせ世界救っちゃうんだろう、不死身のトム君が」というある種の諦念のようなものに支配された作り手が、「ほらね」といわんばかりに観客に諦念の共有を促してくるのだ。("Mission complished !"と叫びながらリターンキーを押すトム君を劇中で事後的にも笑いにするという念の押し様)
 まあ彼の諦念というのもわからんでもないし、ギャグはギャグで成立してて面白いんだけど、そこは「ハードボイルド」に踏みとどまらないといけないところだと思うんですよ。トム・クルーズ(50)にはやはりまだ世界の重石として機能してもらわないと困るから。バカバカしいくらい徹頭徹尾キメキメでやってみてそれでつまらなかったら、そこで初めてオモロに振ればいいと思うんですね。簡単に言うと「笑いに逃げるな」ってことになるんですかね。「笑い」が難しいのももちろんわかるし、この演出家の希有な資質がそこにあるのも評価したいけど、ハードボイルドは飽くまでハードボイルドだど。

「リアル・スティール」 ショーン・レヴィ
 うまいし、ちゃんと押さえてるんだけど何だろう。もっとエモい映画にできるのにって思う。実際、最近とみに涙腺の緩んだ「ウル」と化してるんで、基本何でも泣けるんですが、泣こうと思っても上手に泣けない的なシーンが多かったです。
 作り手を含む「時代」が「ダメ親父」を許容してくれてないっていうのが何より辛いかな。ダメじゃダメなんだっていう。裁判所も里親もこの人にならこの子を任せられるっていう「完璧な父親」にまでならないとダメなんですね。そこが息苦しい。
 ダメ親父が「できた子」に成長させてもらうっていうのはいいんだけど、親父の無鉄砲さ・無計画さと子どもの周到さ・緻密さのコントラストを描くと同時に、親父のビフォー・アフターの変化のコントラストも見せないとダメなんじゃないかと思うんですね。「できなかったことができるようになる=成長」これをもっと明確に描いた方が構造的に「泣ける」と思うんです。それに、いきなりエキシビションマッチで一番強い奴とメインイベントでやるとか、「小さく勝っていこうよ」って言ってた子どもの言葉とも矛盾するし、何よりリアリティーを欠いてしまうと思うんですね。大筋では涙腺決壊に持って行けるストーリーだと思うんだけど、なんかもったいなかったなぁ。泣いてる人はメチャクチャ泣いてましたから、ぼくの体調がよくなかったのかもしれません。聖戦ケルベロスのやりすぎで。

2011年12月5日月曜日

師走でおわす

「コンテイジョン」 スティーブン・ソダーバーグ
ソダーバーグっていう人は演出家としてのショーマンシップの欠如を「スター」の出演によって解決するっていう方法論でやってる人だと思うんだ けど、今回もまさにその典型と言えるんじゃないでしょうか。ぼくは彼のこのシステムは「トラフィック」にしても「オーシャンズ」にしても、うまくいったこ とがないと思っています。ショーマンシップの欠如が必ずしもエンターテインメントにおいて致命的な欠陥になるとも思いませんが、演出手法と俳優のクオリ ティー(単に知名度と言い換えても差し支えありませんが)の不一致とでも申し上げましょうか、彼の場合、小品と言われるような「ガールフレンド・エクスペ リエンス」なんかの方がしっくり来るんですね。俳優に派手な演技をさせればいいっていうことではありませんが、今回みたいにバカみたいに有名な俳優ばかり 使って見せ場という見せ場もつくらないというのは贅沢というよりも、単に無駄遣いっていう気がします。絵が青っぽいのもきれいじゃありませんね。

「恋の罪」 園子温
ああ、やっぱりこういう人かっていう。「丁寧さ」が「勢い」とトレードオフの関係にあるんじゃないかと「愛のむきだし」や「冷たい熱帯魚」を 見て思い始めていたんですが、やっぱり殊映画に関してはそれはないかな。「丁寧さ」を犠牲にすることで「勢い」があるっぽい感じを出すことはできるかもし れないけど、やっぱりそれは「勢い」にはならない。「勢い」も「丁寧」に演出しなきゃ。例えば、繰り返し撮られる(繰り返されることに意味がある)主人公が玄関で夫を送り出すシーン。このシーンで毎回カメラ位置やフレーミング、露出が違うんですね。しかもそれに明確な演出意図があるわけじゃない。順取りし てるのかもしれませんけど、はっきり言ってただ単に雑なんです。意識が行き届いてない。撮影期間が短かったり、予算が少なかったり、いろんな制約はあると思うんですが、丁寧さってかなり優先順位の高い項目だと思いました。予告編で見た「ヒミズ」も絶望的だったなぁ。

「タンタンの冒険」 スティーブン・スピルバーグ
3Dは重いメガネが気になるし疲れるので2Dで見ました。ダグラス・フェアバンクスの活劇を3DCGでやりました、って感じでそりゃ面白いで す。見所はもう「アクション」ということで作り手にも迷いはないし、見る方もそれで十分楽しめます。主な舞台が船っていうこともあるんだけど、ほぼ登場人 物の9割が男っていうのはもうちょっと何とかならなかったものか。まあ子ども向きってことも含めて、これでOKなんでしょう(獣姦ジョークは出てくるけ ど)。それにしても「ティンティン」っていう英語風の発音はどうにかならなかったのか!? 正しく「タンタン」と発音してる子どもがいじめられたりしてないことを祈る。


その他覚書
・伊勢谷友介の「セイジ」っていうのは見に行こうと思う。予告編の画面が意外にも映画っぽかった。
・「.hack」っていうアニメ映画は見に行こうと思う。
・時間があったら「けいおん!」っていうのを予習して見に行こうと思う。
・「輪るピングドラム」を見始めた。
・イーストウッドの新作「J.エドガー」は1月28日から。
・エル・ブジのドキュメンタリーは時間があったら見に行こうと思う。
・今度の「ミッション・インポッシブル」のミッションのインポッシブル感はハンパない。
・「サラの鍵」1942年ナチスドイツ占領下のパリ。納戸。
・「エアベンダー2」は来年らしい。
・今年見た映画一覧(ベスト10選出用)
「サウダーヂ」「一命」「ザ・ウォード/監禁病棟」「ゴーストライター」「モテキ」「東京公園」「ハウスメイド」「コクリコ坂から」「エッセン シャル・キリング」「ツリー・オブ・ライフ」「ブラック・スワン」「モールス」「X-MEN」「スーパ−8」「悪の華」「最後の賭け」「甘い罠」「ゲンスブールと女たち」「引き裂かれた女」「キラー・インサイド・ミー」「トゥルー・グリット」「ブルーバレンタイン」「someshere」「トスカーナの贋作」「アンチ・クラ イスト」「毎日かあさん」「ウォールストリート」「ヒアアフター」「ソーシャル・ネットワーク」「冷たい熱帯魚」「キック・アス」「バーレスク」「トロ ン・レガシー」「人生万歳」「クリスマス・ストーリー」
偏ってるとか以前に本数見てねえ。

2011年11月7日月曜日

キャピタリスト!


不勉強ながら、ぼくは廣瀬純という人を名前くらいしか知らなかったんだけど、「サウダーヂ」のティーチインにゲストで来た彼の知的面白トークにやられた。正直言うと映画本編よりも刺激的な部分があった。司会が富田克也監督と脚本の相澤虎之助、そしてゲストに廣瀬純という形で進められた。

ぼくが特に興味を持った部分をピックアップして要約すると、

ぼく(廣瀬)はこの映画をスクリーンで3回と京都と東京の新幹線の往復の度に見ている。なんでこの俗物だらけのどこにも意外性のない映画が繰り返し見たくなってしまうのか。ラストの方でかかるあの有名な曲(ここでは伏せます)はどうでもいいような曲なんだけど、この映画の中では非常に魅力的に聞こえる。でも、iTunesでダウンロードして聞いてもやっぱりちっともよくない。だから、この映画の最後の方で流れるあの曲が聴きたくてもう一度最初から見てしまう。その曲と同じで、この映画の中の甲府はこの映画の中にしかない。同様に「アバター」のあの森も同じ。あの映画の中にしかあの森はない。あの森が見たくて何度も見てしまう。 
一方で、ヒッチコックの「鳥」のような映画がある。「普通の鳥」が恐ろしいという映画。この映画を見た観客は映画館の外で雀を見たら怖いと思う。だから、この種の映画は何度も見る必要はない。一度見れば十分。 
この部分に関して最後に観客から質問がありました。
Q:「鳥」タイプと「アバター」「サウダーヂ」タイプの映画、つまり、映画の世界観を映画館の外に持って行ける映画とその中で完結している映画。この両者の違いはどこから生じるのか? 
A:その両者は「コミュニストの映画」と「キャピタリストの映画」と言い換えることができるのではないか。「コミュニストの映画」は一度見ただけで恒久的にその人の世界観を変えてしまう。「鳥」を1回見れば、もう死ぬまで鳥が怖い。つまり、1800円払えばもういいわけです。何度も見てもらう必要はない。一方で「キャピタリストの映画」は「この世界はここ(スクリーン上)にしかありませんよ」って何度もお客さんに足を運ばせる。「アバター」なんて3Dだと2500円ですか? 見てくださいこの監督(富田克也)の顔を。キャピタリストでしょう?(笑)

非常に面白い概念だと思いましたね。なお、上記の要約は俺フィルターが存分にかかっているので、廣瀬さんには不本意な部分あるかもしれません。

「サウダーヂ」の「甲府」はきっとリアルに限りなく近いんだと思う。でも、そこにぼくらが見るのはカギ括弧付きの「地方都市」であり「シャッター商店街」であり「不況下の外国人労働者」であり「右傾化する日本の若者」だったりするわけだ。まああるんでしょうね、そういう現実。いるんでしょうね、そういう人たち。盆地の箱庭感というか閉塞感が「甲府」への郷愁を加速させる。それはここにはないどこかを懐かしむ気持ち、まさに「サウダーヂ」。通俗さにおいてディズニーランドに優るとも劣らないテーマパークをこの映画は完璧に演出している。

「コミュニストの映画」としてぼくが最初に思い出したのがイーストウッドの「ヒアアフター」でした。この映画を見た友人は「この映画を見る前と見た後では世界が違って見えた」と。ぼくはそこまでは感じることはできなかったけど、同じような大きさの影響を受けたと思うんです。これってまさに「コミュニストの映画」なんですよね。ぼくはあまりのその映画体験の不可解ぶりに2度見に行きましたが、1度で十分なんですよ。細部に気づくことで解釈の奥行きを増すということはもちろんある。でも最初の1回でぼくたちは十分にいただいてしまっている。というか、1度見てしまったら見る前の世界にはもう戻れない。だから、鑑賞後に必要なのは再度のスクリーンではなく新たな現実と対峙する時間だけ。「そこ」に戻る必要はない。もうそこは世界の、ぼくの一部だから。

また、「コミュニストの映画」と「キャピタリストの映画」をこうも言い換えることができると思うんです。「与える映画」と「奪う映画」。前者は新しい世界を、後者は金銭と時間を。となると、ぼくの興味は圧倒的に「コミュニストの映画」の方だなと確信できるんです。もう15年以上前になりますが、黒沢清の「ニンゲン合格」がまさにそんな映画でした。ガツーンとやられた。個人的に記念碑的な映画だからスクリーンでかかる度に見に行っちゃうけど、「そこ」を通過してしまったという不可逆性はいかんともしがたい。オリベイラとかデプレシャンもそうでした。ぼくにとってはロメールは「キャピタリストの映画」だったかな。

廣瀬さんも(冗談として)言ってたけど、ポリティカルコレクトネス=正しさ的にも映画には現実に立ち向かう力を与えるものであってほしい。クソみたいな現実の片隅にクソみたいな現実の一部がある。それはそれでぼくらのささくれだった気持ちを慰撫するのかも知れないけど、もうそういうものに淫しなくてもいいんじゃね。という思いを新たにしました。


タイトルは蓮實重彦の息子が子ども時代に級友を罵って言った言葉から。

ザ・盆地

「サウダーヂ」 富田克也
タマフルで聞くまでノーマークだったけど宇多丸先輩が絶賛してたので速攻行ってみた。ユーロスペースがラブホ街の中に移転してから足が遠ざかったのは僕だけじゃないと思ってたんですけど、ミニシアターはセックスとの親和性がそれほど低くなさそうで残念です。

で「サウダーヂ」。誰がみても楽しめるってタイプの映画じゃないけど、今スクリーンで見ることに意味がある映画の一本だってことは間違いない。内容は、「甲府ネイティブの土方、ラッパー、エステティシャン、無尽女子と出稼ぎブラジル人、タイ人らが交錯する閉塞した日常」という説明とほぼ等身大の期待を裏切らないものだと思う。何それ、面白いの? それが面白いのだ。

この盆地にいくつかの対立軸を生み出しているのは、彼らの思い描く「ここではないどこか」=理想郷像の相違だろう。それは単に民族の対立に基づくものばかりではない。それは隣人だと思っていた夫婦間、友人間、同僚間でこそ際立ってしまう。

この映画の細部を取り上げて、ここが良かった、ここは好きじゃないということはどこかためらわれる。なぜなら「サウダーヂ」はそんな細部の集積によってしか成立していないからだ。そしておそらくはそんな風に鑑賞するのがこの映画の正しい楽しみ方なんだと思う。でもそれはお前ん中でやれよ、というのがこの映画の謂であるような気もしてね。

ひとつだけ、ラッパーが先輩土方二人にタイパブに連れて行かれて一人でシャッター通りを帰って行く横移動の長回し。垂れ流していた愚痴がリリックに変わっていくところはすごい好きだった。

2011年10月31日月曜日

波論


 以前ちょっと書いたけど、年取ってくると映画に対しても、小説に対しても点数が甘くなってくる。もっと正確に言うと、なんでも楽しむスキルが身についてきたってことなんだと思う。しょぼい波にも乗れる技術が身についたわけだ。

 以前は「乗れる/乗れない」という基準で一定の線引きができたものが、今はその境界線はもはや存在しない。さざ波から怒濤までのグラデーションのどこかにあった区切りは消滅した。30点以下も赤点じゃなくなった。

 ここで考えたいのは「それってどうなの?」ってことだ。おそらく消費者として楽しむことに主眼を置くのは間違っていないと思うんだが、批評眼とか審美眼っていう意味では鈍ってるんじゃないか、消滅した境界線は何らかの役割を背負っていたんじゃないかっていう不安とか自嘲がなくはない。

2011年10月24日月曜日

ボンクラ論

BREAK MAX12月号の吉田豪による町山智広のインタビューがTLを賑わせていたので読んでみた。(この時点で俺サブカルだわ)これがメチャクチャ面白かった。本題は町山がいかにチンコを愛しているかっていう話なんだけど、余談として語られている「ボンクラ」の概念がとても興味深い。もともとヤクザ用語で「盆」=賭場に「暗」い人、つまり、ヤクザの主戦場たる賭博でしのぎを上げられない人ということを言うらしい。なぜ彼らボンクラがしのぎを上げられないのかというと、任侠とか仁義とかのヤクザ的なコンセプトに憧れて業界に入ってきてるからってことなんですね。ヤクザといえども、日々何をしているかといったら当然のように「仕事」なわけです。興業を仕切ったり、貸した金を返してもらったり、自分たちの活動領域を守ったり、そういう仕事をしのげるヤツはビジネスライクにヤクザやってるってわけです。つまりボンクラは仕事ができない。

で、町山さんは自身のこともボンクラと定義して、その特性の1つとして「頭の中でシチュエーションに合わせてBGMを鳴らせる」という能力(?)を挙げてるんですね。これってまさに「モテキ」の藤本幸世君なわけで、失恋であるとか孤独であるとか敗北であるとかの現実世界での出来事に対して、ラベルを貼って、それぞれのシーンに合ったBGMが脳内で再生されると。それこそが「ボンクラ」なんだと。

ああ、確かに自分の手に余る現実に対して、真っ向から対峙することを避け、既知のフレーム(この場合、音楽)に押し込めてしまうっていう作業はなるほどボンクラだなぁ。俺にはできない芸当だなぁと感心しておったわけですが、BGMこそ鳴らないものの実は自分にもありましたね、そういうクセ。ぼくは言葉でした。しかも、イメージの中で昔の新潮文庫のフォントとか字詰めで綴ってくんですね。

「またか」そう心の中で呟くと、彼はおもむろに視線を上げて、俯いたままの彼女の代わりに悲しげな音で泣き続けている薬罐をじっと見つめた。

みたいなw。ベタであればあるほど安心感があるっていう。別の人は絵コンテを切って、カメラを置く場所や構図を決めて、BGMを鳴らしてってことをやるんでしょう。舞台化する人も絵に描く人も写真1枚に収める人もいるかも知れない。現実の中にどっぷり浸かっていないという意味ではある種の客観性を獲得してると言えなくもないんですが、やっぱりこれって現実逃避ですよね。この現実逃避のことをRe-Creation(再創造)=娯楽と呼んでるのかななんて思いましたね。ぼくはその現実にどっぷり浸かって追い詰められて、悩んで、苦しんでっていうのが正解だと思ってます。まあ楽しいときもあるわけだし。

2011年10月20日木曜日

Radio-active

ラジオのパーソナリティーが最近はいろいろあって趣味のガーデニングをお休みしてるのと話しているのを聞き流しそうになって一瞬のち、胸の内で短いため息をついた。

とかく無邪気に振る舞いがち

無邪気な大人の危なっかしさっていうのは、見る者の中にアンビバレントな思いを抱かせる。一方では「この無邪気さを許容する世界であってほしい」という切なる願いを抱き、ときには口にさえする。だがこの願いは本物だろうか。否。やはり「この無邪気さが越えられない壁を私は知っている」、そして、彼(彼女)がその壁にぶち当たる瞬間がくることを予測している。やがてそれは例外なく実現する。お調子者が無口になり、自己顕示は自己憐憫の影に身を潜め、楽観は悲観に取って代わり、寛容と自罰は不寛容と他罰に支配される。そして当て処をなくした自己承認要求だけが静かに肥大し続ける。

単に読みが甘いのだ。たかを括っていたからこその無邪気さだったのだ。同情の余地はない。口さがない「先輩方」は悦に入って「彼(彼女)も大人になったな」としたり顔で彼(彼女)の「仲間入り」を祝福するだろう。もうそういうのいい加減飽きた。そんなの全然イケてない。もっと強くしたたかに難所も軽々と走り抜けるだけの知性と明るさをもった、凄みを感じさせるような無邪気さってもんがあるはずだろ?

タイトルはスチャダラパーの名曲「CARS JOINT」よりアニのパートから。

束縛と従属と私

 40過ぎまでフリーランスでやってた人が会社員になるって大変だろうなって、中途採用の新入社員を見て勝手に思った。知り合いにフリーランスとか自営の知人が何人かいるけど、いわゆる組織には馴染まない、組織の一構成員としては十全に機能しないだろうなって人が多い。ただこれはけなしているわけではまったくなくて、もし日本のサラリーマンに求められる資質がひとつあるとすれば「組織に馴染める」ってことなんだと思う。この「協調性が強く同調圧力に弱い」とパラフレーズできる資質は、つまるところ「主体性が希薄である、あるいはない」ということになる。そんな人に面白い仕事ができるわけはない。ただ会社は「面白い仕事」(だけ)を求めているわけではないので契約が成立しているのだ。一方で、大きな利益を生み出すのは常に「面白い仕事」なわけだが。

 とにかくごく素朴に、20年近くフリーでやってきたという新入社員の無邪気さを目の当たりにして「組織でやってくって結構大変ですゼ」という老婆心を抱いてしまったわけだ。まあぼくが知ってる組織なんてたかが知れてるのでまあそういうことです。

2011年10月18日火曜日

大食という美徳

特に男子。元気があって大変よろしい的な。古いし田舎くさい。高校生くらいまでならわかるけど40近くなってご飯少なめで「どうしたの?」とか言われたくない。

2011年10月17日月曜日

とりとめのない一命

「一命」 三池崇史
 海老蔵は女騙して金借りろよ。何のための刀ぞ!

 で言いたいことの9割は言い切ったんだけどちょっと補足。すっごい平たく言うと「生活保護を巡って争うニートとお役所」みたいな構図の映画だと思うんだけど、だからこそどっちにも肩入れできないんだよね。お役所はお上のプライドにこだわってないでもうちょっと柔軟に対応しろよって思うし、ニートもつまんないプライド捨てて働けよって思う。

 でも実際はそこも本題じゃなくて、実際にこの悲劇の発端になったのはプライドを笠に着た単なるお侍さんの意地悪だったわけで、これって構造的な悪と同一視していいのかなってちょっと疑問に思うんですよね。確かに彦九郎って人は意地悪を一方的に行使できる立場に居てこの上ない意地悪を行使したんだけど、それだけで圧倒的に卑怯だってことは一目瞭然じゃないですか。息子同然に育てた娘婿(瑛太)がさんざんな辱めを受けた挙げ句にむごたらしい死を迎えたことを発端に、娘(満島ひかり)と孫を失ったことに対する怒りはもっともなんだけど、復讐にいたるまでの十分すぎるほどの「貧困描写」は決して復讐への動機付けを補強するものにはなっていないんですね。だから海老蔵がたれる「講釈」にはとても釈然としがたいものがある。意地悪した人に復讐したところで終わりでいいじゃん。まあそれだけじゃ気が済まなかったから本気で暴れたっていうだけの話だと思うんだけど、それにしては重厚っぽい話にしすぎかなと。変な哲学を持ち込んだことで対立の構図をわかりにくくしてしまっていますね。「十三人の刺客」くらいわかりやすい勧善懲悪の方が三池崇史には合っていると思います。じゃないとこの映画みたいに残酷描写や悲惨描写が宙に浮いてしまう。

 あと、この映画3Dということなんですが、あまり魅力を感じなかったので2Dで見ました。しかもシネスコだったんですが、その必要性もよくわかりませんでした。あの暗い画面で偏光レンズのメガネかけてみたら余計暗くなるわけだから。

2011年10月13日木曜日

巨匠いろいろ

「ザ・ウォード/監禁病棟」 ジョン・カーペンター
「17歳のカルテ」ミーツ「アイデンティティ」。どちらもジェームズ・マンゴールドの監督作品だということが果たして偶然なのか必然なのか。巧妙さも新奇性も欠いたこの映画を下手に持ち上げることはしたくないが、なぜこのような映画がかくも映画なのかということは一考に値するはずだ。

「ゴーストライター」 ロマン・ポランスキー
アバンで夜のフェリー、到着後船上に1台だけ残される車。夜明けの波打ち際に打ち上げられた男の死体。ストーリーは元英国首相(ピアーズ・ブロズナン)の政治家が自叙伝を綴るためのライター(ユアン・マクレガー)として出版社に雇われるところからスタート。何かもうこの辺だけで「ああオモシレー」って感じ。
ライターが政治家とその妻と側近たちに深入りするにつれて、前任者の死とその不審さに気付いて隠された真相に近づいていくサスペンスをリニアに語っていくだけのそのシンプルで力強い手腕も見事なんだけど、何といっても素晴らしかったのがロケーション。ニューヨーク近郊の東海岸の小島に政治家の邸宅があるんだけど、この島の荒涼としたロケーションがとてつもなく素晴らしい。黄色がかった灰色を基調に無機質な建造物、無愛想な人々と英国調のアイロニカルなユーモア。イキフンづくりも本気でやればそれだけで映画になるんだよ。まあこの映画はそれだけじゃないけどね。
あの土地の海と空と風と雨だけでもスクリーンで見る価値のある映画だったと思う。

2011年9月16日金曜日

群馬

 昔、群馬から出てきて1年目の女の子があまりにも渋谷に詳しいから「本当に勉強熱心だね」って言ったら、うつむいて「勉強って……」とかつぶやいちゃってさ。まあ確かに少なからぬ揶揄を込めてはいたんだけど、なんかこっちが申し訳なくなるくらい響いちゃったのね。
 そう、そのときに生まれたのがこの「だるま弁当!」ってギャグなんだ。もう手も足も出ませんっつってね。

2011年9月13日火曜日

業に従う

だらだらした週末でこれといって、神保町で成瀬とか下高井戸でルノワールとかピンポイントで見たいのはあったんだけど結局東京ポッド許可局を聞きながら寝てた。


「東京公園」 青山真治

 吉祥寺のバウスシアター、レイトショーで。こういう映画を見に来る女の子は今も縞々とか着てるんだね。ミニシアター系の文化臭が年々ツラくなってくる。シネコンで手をべとべとにしてヨダレを垂らしながらキャラメルがけのポップコーン食ってるカップルとかに囲まれてた方が気が楽っていうか。実際はどっちもクソなんだが、深刻さを帯びた文化臭よりも軽薄で甘ったるいキャラメルの臭いの方がまだ開放感がある。目つぶってても臭いって逃れられないからツラい。

 おそらく作品がそうした文化臭からどんなに遠ざかっても、そうした文脈で主にそうした人々にのみ消費されるというあまり幸福とは言えないような作家の一人として青山真治は映画を撮り続けているのかもしれない。

 死んだ親友の幽霊はいささか過剰な実在性を帯びているかに見えるが、それはとりもなおさず幽霊を目撃する三浦春馬が、親友の恋人であった榮倉奈々との関係を、親友の「生前」と同様に保つために、つまり気を確かに持っているために自発的に創造した幻影なのだろう。こうした幽霊に代表されるようなアリバイ=エクスキューズがどんどん不要になっていくそんな映画だったと思う。犯人であったにしろなかったにしろアリバイは不要である。ただ、不要なアリバイ——世間体、既成概念、深謀遠慮——を手放すまでにいたる必要なプロセスをこの映画は描いた。

 たぶん、この作家には珍しく複数のプロット=人間関係が同時に進み、それが主人公の大学生を軸に絡み合いながら螺旋状に上昇していく。オフビートとも「淡々」とも違う気負わない語り口が心地よい。いわゆる「芸能人」を使って、こういう気負わない話を撮れるところに、女優と結婚した人の業というか貫禄を感じた。もちろんいい意味で。


「ハウスメイド」 イム・サンス

 予告編を見て、完全にエロ目的で見に行ったけどまあまあ面白かった。もっとどろどろした昼ドラ系の女の情念バトルかと予想してたけど、そこは意外にあっさりしてた。エロもほどほど。主人公のバツイチ女性が住み込みで勤める、いわゆる「上流階級」の描写が面白い。ワインをメイドがテイスティングするとか、戯画的かつ記号的で地に足着いてない感はあるんだけど、こんな描写すら今の日本にはなくなってしまった。(金持ちは描けてもハイソは描けない)


 階級闘争が持てる者と持たざる者との争いなら、それは常に持たざる者から持てる者へと仕掛けられる戦いだということをまざまざと見せつけられる。それは金銭ではなくいわば階級闘争に関与しようとしない「無邪気さ」を持たない者から無邪気な者へと仕掛けられた戦いだ。「上流階級」に属する者が、そこに居続けるために放棄した無邪気さを手にしている者を目の前に戦いは必然的に繰り広げられる。一度手放された無邪気さは2度と獲得できない。それは事後にしかわからない。つまり無邪気さとは常に「私はかつて無邪気であった」と回顧することでしか認識できない美徳の1つなのだ。 吹き抜けのロビーに螺旋階段というムルナウ〜ヒッチコック的な映画装置への配慮も見受けられたが、成瀬なら最初の数十分で屋敷の構造を立体的に観客に把握させていただろうなと嘆息する。そういう配慮はまったくなかった。結構大事なところなのに。また、オリジナルの「下女」というタイトルを是非生かしてほしかった。「下女あるいは火病」とか。



「コクリコ坂から」 宮崎吾朗

 パッションの欠如。時代背景、ストーリー、キャラクター、ディテール。あらゆる物が作者の情熱の対象ではないことが、皮肉にも父親の作品との対比によって明確に浮かび上がる。ハヤオってすげえんだ。


偶然にも?この3本に共通していたのが禁じられた男女の関係でした。くわばらくわばら。

2011年9月6日火曜日

この支配からの卒業

「ツリー・オブ・ライフ」 テレンス・マリック

 生命の叙事詩的な壮大な側面を切り捨てて、単純に親子物と言いきってしまいたいという誘惑に駆られる。というのも、父ちゃん母ちゃんの物語として過不足なく描かれている上に、「生命の一大叙事詩」から末端組織としての「ある人間の親子」へのリンケージが希薄なのだ。かといってそれがうまくリンクしていたからどうだという話でもある。

 僕は素直に「父ちゃん母ちゃんの物語」として悪くなかったと認めたい。音楽家としても技術者としても成功することができなかった父親の複雑な人物像は魅力的だし、その彼が望んでいた「成功」を、疑いつつも手に入れた長男が、深層心理と思しき砂漠や海の浅瀬で少年時代の自分や家族と見せる和解のシーンは感動的だ。

 見よう見まねのギターで父のピアノとセッションし、水彩画では自由な色彩感覚を見せる弟に対する嫉妬の抑制された描写が長男の不器用さ輪郭のくっきりと浮かび上がらせている一連のシーンは素晴らしい。おそらく彼がその後数十年にわたりルサンチマンに生きざるを得なかったことを想像させる。そして不意に訪れた解放である。

 この「物語」を因果関係で読み解こうとするとたちまち「難解」さが立ち現れるだろう。なぜ、おそらくはずっと父の影響下で成長した長男と父(生きているのかいないのかも示されていない)との和解が可能だったのか。その契機をこの映画はまったく描いていない。なぜなら理由など必要ないからだ。「和解」は少年時代に生じた「不和」に内包されるようにしてただあった。不和の中に播かれた小さな種が実を結んだのだ。

 支配が前提であったような世界で解放は必ずしも僥倖とは言えない。それはリテラルに目眩のように彼の足下を揺らし高層建築を揺らす。彼は自分が解放を望んでいたことを忘れてしまっていたのだ。この解放が彼に何をもたらすのかはわからない。ただ、それが彼の世界を変えたことをただ祝福したい。

2011年8月29日月曜日

青春のプリズナー

 日比谷公会堂で行われた「大東京ポッド許可局」に行ってきました。詳細は追々書くかどうかわからないけど、個人的にとても忘れられない話があったので書いておきます。

 サンキュータツオ、ライムスター宇多丸。この2人を深く結びつけている「巣鴨プリズン」体験。悲しいかなぼくもそれを共有してしまっている1人だ。中高一貫男子校というだけでも、その後の人生に及ぼす負の影響の大きさは計り知れない。そこに軍国主義風の+αが加われば「屈折」は必定だ。タツオ氏が言及していた「我々」に共通して見られる理屈っぽいという特徴は、ある種の欠如を強要されてしまった者がやむを得ずに獲得してしまった(過剰な)自己防衛の手段なのだと思う。
 2人の巣鴨トークは10分程度で終わってしまったが、こんな経験は今まで全くなかったのでそれなりのカタルシスは得られた。記憶の底に封印していた思春期の一部を供養できたのではないかと思う。たとえどんなに華々しい女性遍歴を経てもD(童貞)層民であることに変わりはないだが……。

殺しのエッセンス

「エッセンシャル・キリング」 イェジー・スコリモフスキ
 「追う者と追われる者」というもっと抽象度の高い映画かと思ったら、「米軍」と「アラブ系のテロリスト」という設定ははっきりと描かれていた。あえてヴィンセント・ギャロという米国人をアラブ人役に配したことには、観念的な異化作用以外はなかったと思う。それよりも、ギャロの歩き方、走り方、倒れ込み方の一挙手一投足が欧米風のそれであることの違和感が通奏低音のように流れ続けていたことが気になった。具体的にどこがどうとは言えないがギャロの身のこなしはアラブ人っぽくない。アラブ人っぽく振る舞おうともしてない。ギャロが悪いわけではないが、スパイという設定の役者の話す外国語がたどたどしいように、それがどちらかと言えば残念だった。

 「逃げること」と同義であるような「殺すこと」。彼は避けられない殺人を繰り返しながら逃亡していく。崖から転落したバスに乗り合わせていたギャロは森の中に逃げ込むが、逃げついた先は事故の現場だった。ここでギャロはあっさり投降を試みている。しかし、運命としか言いようがないものの働きで彼は米兵を殺し脱走犯になってしまう。飢えと寒さの極限にあって、この脱走犯が見せたのは「生き残ること」への意志というよりも、「死なないこと」への意志という色合いが濃い。両者は実際には大部分をシェアするが、彼のモチベーションは「捕まらないこと」、「飢えないこと」であって、「復讐すること」や「満たされること」ではもはやない。

 ギャロの逃亡が困窮を究めるほどに、具体的に示された「米軍」と「アラブ系テロリスト」という設定はどんどんその意味をうしなっていく。イデオロギーを剥奪されたいわば純粋な殺人を、この映画は否定も肯定もさせてくれない。ただ、そうあってしまうというだけだ。イデオロギーを剥奪された救済も(あの聾唖の女がどんなに反米思想の持ち主であったとしても)単なる人助けに過ぎない。イデオロギーを剥奪された死者はイデオロギーを剥奪されたアラーのもとに旅立つだろう。馬の背の空席として以外に、活動を停止した欧米的な身体がスクリーンに映し出されることはない。

「モールス」 マット・リーヴス
 オープニングの空撮で「お!」と思ったが、そこで終わった。シナリオ、色彩設計、配役、CGにいたるまでオリジナルの「ぼくエリ」に比較的忠実に作られていたのだが、その魅力の多くを北欧的なイキフンに負っていた「ぼくエリ」の舞台をアメリカ中西部にしてしまったことで、そのエッセンスの大部分は台無しになっていた。

 「ぼくエリ」で好きだったシーンがあって、それは後半でスケートの授業で主人公の少年がいじめっ子の頭を長い棒で殴るシーンなんだけど、誰の視点でもないカメラからロングで撮られているこのシーンの「距離感」がたまらなくよかったということを思い出した。暴力的なはずなんだけど、棒の軽そうな感じとか振りかぶって殴るまでのためのなさとか、他人事感というか無常性というか、復讐とか怒りとかのエモーションを一切排した画面がすごい北欧的で面白かった。それがハリウッドに行ってしまうとどうしても、棒が重そうで痛そうで、苛立ちや怒りがあって、それを見ている視線があって、血が出てってことになる。面白くない。「ハリウッドの考えるリアリティー」の限界なのかな。そもそもその種のリアリティーがどこまで必要なのか。

 良かった点は保護者の若い頃の写真が出てくるところ。これで「継承」のテーマが少し浮き彫りになった。「自分がこのメガネ君の『次』なんだ」っていう。「パートナー」に依存するこのライフスタイルで何百年も生きてきて、またこの先何百年も生きていくんだろうなっていう「死なないことの怖ろしさ」がこの映画の謂いだと思うんだけど、そこのニーズはあんまりないのかな。この映画で切り取られた出来事はほんの一断片に過ぎないっていう俯瞰ができると、もっと深くなるしもっと怖くなると思う。

2011年7月11日月曜日

SF大作明暗

「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」マシュー・ヴォーン
●マシュー・ヴォーンって「ロック・ストック」「ミーン・マシーン」(「ロンゲスト・ヤード」のリメーク)を見たときは、アメリカに憧れてる野暮ったいイギリス人=田舎者の典型みたいな人で制作者としてはどうでもよかったんだけど、監督作の「キック・アス」は面白かったし、今作もこんなに面白い映画を撮るようになるとはうれしい誤算です。今作は「アメコミが原作の娯楽大作」という域を大きく超えていたので、熱くレビューしておきます。以下、思いっきりネタバレします。あと、ぼくはこれ以外のX-MENシリーズはテレビでしか見ていないので熱烈なX-MEN厨とかではありません。

●「ユダヤ人(とナチス)」っていうのはこの映画の中核にも触れる部分だ。町山が昔言ってたんだけど、アメコミとユダヤ人っていうのはもともととても縁が深い。ここら辺の記事でも概要はわかると思う↓。要は東欧からナチスの手を逃れてアメリカに来たユダヤ系の移民、特に若者の中に漫画家を職業として選んだ一群がいて、それらの作品には否応なく彼らのバックグラウンドが反映されてしまっているという話です。(「スーパーマン」「スパイダーマン」「スポーン」「バットマン」など代表的なアメコミのヒーローに共通するのは家族の不在や復讐を動機に悪に立ち向かうような側面など)
アメコミヒーローに見る「ユダヤ系」の影響(1) http://t.co/UswLdmw
アメコミヒーローに見る「ユダヤ系」の影響(2) http://t.co/R3AptVx

●冒頭、舞台は1944年ポーランド。雨の中、両脇を鉄条網にはさまれたぬかるんだ道を歩かされる人々。腕には囚人番号の刺青。強制収容所であることが即座に分かる。「優性遺伝子」を持つアーリア人種が「劣性遺伝子」をもつユダヤ人種を根絶しようとする政策の一環で、エリック少年は両親と引き離される。この冒頭の1シーンだけでただならぬ「トラウマ」をこの映画が抱えて進むということにぼくは身構えると同時に期待に胸が躍った。

●この映画が深みを持った要員の1つとして登場人物たちの話す言葉が挙げられると思う。冒頭でナチス将校シュミットはドイツ語、モスクワではロシア語でしゃべっている。成長したエリックはスイス銀行ではフランス語を、アルゼンチンではスペイン語を操っている。どこに行ってもいつの時代でも英語しか話さないトム・クルーズに未だに違和感を抱えている者としてはこの点は大いに評価したい。

●本当によくできてたなと思うのが、3つのプロットをそれと意識させることなく並行させてすすめていくところ。ひとつは後のマグニートーとなるエリック少年の話。「能力」をよすがに生き延びたエリックはモサドの諜報員よろしく、彼の母親を殺し彼自身のミュータントとしての能力を開花させたナチスの高官クラウス・シュミットに復讐するために世界中を飛び回る。もうひとつはテレパスとしてもう1人のミュータント・レイブンに出会い幼少期から成長を共にする後のプロフェッサーXことチャールズ・エグゼヴィア。そして、今ひとつは国際政治の裏舞台で暗躍するエリックの仇セバスチャン・ショウことクラウス・シュミットのストーリー。この3つのストーリーが実に見事に交差し、また離れ、そして1つの点へと収斂していく。プロット(大筋)とストーリーとディテール(台詞回し)が互いに有機的に支え合っているようなシーンの構成はこれぞハリウッドと唸りたくなるほどだ。

●母を目の前で殺され、家族を失った経験則に基づきエリックが人類を敵視し「ミュータントvs人類」の対立を将来の世界のビジョンとして描いているのに対して、チャールズ・エグゼビアが思い描く「友愛」の世界はあまりに理想主義的で無根拠に見える。それを、作り手として無根拠に許容していないと分かるのがレイブン(ミスティーク)の「裏切り」だ。幼少時代から共にすごし青春時代を迎えたレイブンの恋愛感情をチャールズは決して受け入れない。もちろん彼女が「青いから」とは言わないが、彼はミュータント=異端的な要望を持つ者の苦しみに共感していない。無論TELE-PATHがSYM-PATHであることは難しくないはずなのだが、彼は彼女の「容貌」を愛していない。
 それに対して「本来の姿」でいろというエリックの主張は首尾一貫している。本来の姿こそが強さであり美しさでありその強さと美しさこそが人類に対して示された優位であるからだ。そしてエリックはレイブンの本来の姿に美しさを見出す。
 「変異細胞のみを正常化」したことによって人間的な容貌を失い、全身が獣と化したハンクに機能美とも言える美しさを見出したレイブンは自らの容姿にもミュータントとしての誇りを獲得する。
 性的マイノリティーであるブライアン・シンガーがメガホンを撮った1・2に比べて、ミュータントの孤独とか苦悩が描かれていないという批評は的外れだと感じた。

●決戦・キューバ危機を控えてエグゼビアの屋敷で行われるトレーニング。時間にすれば僅か1週間なのだが、各々の成長がシネスコに60年代的な分割画面で描かれる。流してもいいシーンに見えて、ここでの成果が後の決戦で生かされる。
 映画史的言及はクライマックスのエリックがミサイルを撃ち返すシーンの広げた掌のアップでも、ロベール・ブレッソン「ラルジャン」の印象的な引用があった。

●ナチスの優性人種と劣性人種という思想は、皮肉にもホロコーストの生き残りであるエリックによって引き継がれる。この「継承」があの印象深いヘルメットを介して行われる一連のシーンはとても感動的だ。シュルツ(ショウ)をテレパスで乗っ取ったチャールズの横顔のカットバックをスローモーションで見せるシーンを含め、シンプルだがエモーショナルな演出に成功していて、エリック=マグニートーとチャールズ=プロフェッサーXが袂を分かち、後のミュータントvs人類の戦いへと発展する思想が世界にとって支配的になったこの瞬間は、X-MEN史上最も重要なシーンといっても過言ではないと思う。

●というわけで、文句なく面白かったので、もう終わりかけてると思うけど必見です。


「スーパー8」J.J=エイブラムス
 スピルバーグが制作で「未知との遭遇」オマージュやら「E.T.」オマージュやらと期待度だけは高かったけど、ほとんど乗れずじまいだった。
 母親の死、自主制作映画、宇宙人、政府の隠蔽、初恋……とこれだけ詰め込んで面白くないわけがないのに、面白くないのは芯がなかったからだと思う。
 エル・ファニングの大人びた魅力だけが突出して説得力を持っていたのでそれ以外は忘れた。

2011年7月4日月曜日

フランスはオワコン

「X-MEN First Generation」と「スーパー8」を見たが、その前にちょっとまとめておこう。

クロード・シャブロル特集
「悪の華」
オープニング、ダミアの「Un Souvenir」をBGMに手持ちカメラがゆっくりと館の中を徘徊していき「現場」にたどり着く。まず「事後」が描かれ、それが紐解かれていくという「雰囲気」が素晴らしい(その紐解き方の手法とかじゃなくてね)。

「最後の賭け」
今回見た3本の中ではいい意味で最もハリウッド的なサスペンスだった。フランス人てバカンスが身近すぎて、カリブ海とかに行っても何か非日常性が薄い。ハリウッドみたいな高揚感、「特別な休日」感がない。思い起こすと他の映画でもわりとそうだな。そこがふらんすっぽいのかもしれない。

「甘い罠(チョコレートをありがとう)」
アナ・ムグラリスが素晴らしかったのでそれしか覚えてないんだけど、シャブロルの中でも最高に面白い部類の映画だったと思います。イザベル・ユペールは本当にサイコパスが似合うなぁ。


「ゲンスブールと女たち」ジョアン・スファール
監督は漫画家(でいいのかな)らしいが、オープニング以外でそれがうまく機能した形跡を見ることができなかった。原題は「フランスとユダヤ人」。第2次世界大戦中、政府にダビデの星をつけることを強制されたユダヤ人。それを一番乗りで意気揚々と役所に取りに行くセルジュ少年。ユダヤ人というアイデンティティーが生きる上で大きなウェイトを占めているのは、ゲンズブールじゃなくてこのアニメの監督だったということがWikipediaを見て分かった。むしろ、ミュージシャンとして女たらしとして(それが同義語であるような境地で)ゲンズブールのパフォーマンスがうまく機能してきたのは、父親がピアノ弾きであったことよりも、姉妹の表情を読み取り彼女らを喜ばせる術を身につけていたからに他ならない。だからこそこの映画は中途半端に「ユダヤ人の芸術家」の人生というところにフォーカスするのをやめて、邦題通り「ゲンズブールと女たち」の映画にすればよかったんだと思う。

ここでもジュリエット・グレコを演じたアナ・ムグラリスは素晴らしかった。雨の窓越しに妻に連れ戻されるセルジュを眺めながら歌う「La Javanaise」は様になってた。レティシア・カスタのBBも素晴らしくエロかった。「Je t'aime...moi non plus」がベベに捧げられた曲だっていうエピソードは初めて知った。(ジャンゴが右手二本指でギター弾いてたとか。本当か嘘か分からないけど)

対して、我がフランス・ギャルはバカにされすぎ。ゲンズブールプロデュースの曲をこんなに売った子はいなかったんじゃないか?「夢見るシャンソン人形(Poupee de cire, Poupee de son)」は言わずもがな、「アイドルばかり聞かないで(N'ecoute pas les idoles)」、「娘たちにかまわないで(Laisse tomber les fiiles)」「涙のシャンソン日記(Attends ou va-t'en)」等。これらの曲を聴いたら「アニーとボンボン(Les Sucettes)」がいかに「ネタ」に過ぎなかったかということはよく分かるだろう。この71年生まれの監督は間違いなく60年代のフランス・ギャルを聴いていないし、プロデューサーとしてのゲンズブールをも評価できていない。

ぼくはプロデューサーとしてもシンガーとしてもゲンズブールが結構好きなので、好きじゃない人が無理矢理撮ることないのになぁ、というのが率直な感想です。「さよならを教えて」のフランソワーズ・アルディが出てないとかあり得ないし。一方でジェーン・バーキンってぼくの中ではわりとどうでもいい人なのよね。たぶん前歯がスキッ歯だからだと思うんだけどw。この映画にセザールやっちゃうようじゃ終わってるよな。

2011年5月6日金曜日

スピリチュアル零年

 マスターたちは人生を映画に喩えて「スクリーンの上で演じられているドラマに一喜一憂する必要はない」という。起きることが起きているだけなのだからと。だが、それが映画というエンターテインメントであり、自分が主人公のドラマを生きている以上、そこでの楽しみは一喜一憂すること、もっと言えば、より多くの喜びとより少ない憂いをそこに見出そうとすることだろう。
 結局スピリチュアルとはいってもその多くは「錯誤のゲームの勝者になろう、錯誤のゲームをより楽しもう」という程度のなぐさめに過ぎない。ぼくが「引き寄せ」に代表されるいわゆる「願望実現系」に感じる欺瞞の根幹はここにある。従来のシステムの中でより快適に生きようという程度のソリューション、それって実は何の解決にもなってなくね? ってことだ。
 なぜ誰も演じることをやめろ、見ることをやめろとは言ってくれない。

 だが、事ここに至り、初めて「幻想のスクリーンの上で生きるな。すべては幻なのだから」という明確なメッセージに出会った。「錯誤のゲームから離脱する」という明確な選択肢が提示され、その手法が明らかにされたわけだ。その提案がイエス・キリストその人の手になるものだというのだから心が躍るじゃないか。(この項続く)

2011年5月5日木曜日

おれの中の尻叩き屋

「引き裂かれた女」クロード・シャブロル
 老齢の作家と若い女とか、本当にフランス人てこんなの好きだよな。俺も好きだけど。
 変態ボンボンのブノワ・マジメルは良かったけど、ブロンドのリュディヴィーヌ・サニエはこの役にちょっと合ってなかったかな。見てる間は面白かったんだけど、見終わったら忘れちゃったよ。ごめん。

「キラー・インサイド・ミー」マイケル・ウィンターボトム
 ウィンターボトムって昔何本か見て最低の監督(日本でいうと行定勲クラス)だと思ってたんだけど、これは悪くなかった。原作(「おれの中の殺し屋」ジム・トンプスン)が相当面白いらしく、スティーブン・キングやキューブリックが絶賛してたとか。まあキングはちょっと面白いとすぐに絶賛するんだけどね。
 テキサスの田舎町の保安官助手が主人公の犯罪サスペンスっていうだけでもうなんか面白そうじゃない? そういうノリの期待を最後まで裏切らない映画だった。饒舌には語られないんだけど、ケイシー・アフレックの暴力の唐突さとその必然性を自分が受け入れているという描写が非常に怖い。特に出色だったのは、婚約してるケイト・ハドソンをキッチンでボコって、うずくまってる彼女を見ながら白いワイシャツを着るところ。なんでそこで悠長にシャツ着てるのよっていう。「悪魔のいけにえ」でレザーフェイスが逃げまどう人を追いかけ疲れて切り株か何かに座ってるシーンみたいな怖さがあった。
 でもまあこの映画の見所は何といってもジェシカ・アルバのおしりですね。プリプリのおしりを赤く腫れ上がるくらいペンペンするのが最高です。どうみても変態ですね。ありがとうございました。

2011年4月25日月曜日

涙腺刺激系&非刺激系

「トゥルー・グリット」コーエン兄弟
 復讐の物語じゃないんだよね。だからそこでのカタルシスはほとんどといっていいほどない。お父さんが殺されるところは回想シーンで、既に犯人は逃げた後だし、「達成の瞬間」も感情的なドラマタイズはまったく感じられないあっけないものだ。年取ったおじさんと若いおじさんと少女のコーエン兄弟版「都会のアリス」とでもいうべきロードムービーだと思う。

 ラストで主人公の少女が大人になってこの旅を振り返るとき、対話相手の言葉を洒脱に引用しつつ道中を評する彼女の短い言葉は道中をともにしてきたぼくらの胸に深く突き刺さる。対話の相手ではなく観客のぼくらの胸に深く突き刺さる。たぶん発話者本人にも。ここは遠慮しないで号泣するところだった、と後悔。結局こういう「文学的」なのに弱い。俺の限界w ラストで泣くためだけにもう1回みたい。


「ブルー・バレンタイン」
 ごめん。全然ピンとこなかった。帰ってからこの映画を今年1番の号泣映画と絶賛していた町山氏のポッドキャストを聞いたが、やはりピンとこなかった。町山氏はこの映画をキャリア指向のリアリスト(妻)と恋愛指向のロマンチスト(夫)との葛藤、すれ違いと自らの実体験に引き寄せて解釈していたと思うが、ぼくの感触はまったく違った(町山氏と奥さんの話の方がこの映画よりもよっぽど面白い)。

 男は中卒で申し訳程度に塗装工をやってるだけ。女は初体験が13歳で大学生で不本意な妊娠をするまでに経験人数25人というビッチ。娘の種(父親)は大学時代のボーイフレンド……。終始「お似合い」のカップルにしか見えなかったし、早婚DQNカップルの来たるべくして来た別れ話としか見えなかった。ぼくの中にはこの映画を現実の相似形として自分と重ねて見るような器がなかったってことなんだと思う。ドンキとかエグザイルが好きな人にオススメ。

2011年4月4日月曜日

愚直に可視化された解脱

「somewhere」ソフィア・コッポラ

 日本人は娯楽に飢えているのだろうか。いつからコーエン兄弟の映画で立ち見が出るようになったのか。というわけで、武蔵野館「トゥルー・グリット」をパスして、2本立ての2本目で見るはずだった新ピカ「somewhere」へ。

 「ヒアアフター」が「津波で始まってブックフェアで終わる映画」だとしたら、「somewhere」は「サーキットで始まって一本道で終わる映画」と言うことができる。ここには意図的な明快さがある。はっきりとそこで何を描きたいかという意図がワンシーンワンシーンにある。やり過ぎってくらいそれははっきりしていて、さすがにちょっとどうなんだろうというシーンもたくさんある。だから僕にとってはソフィアは「シャレ乙なアート系映画のカリスマ」とはまったく反対の「フロイトのお弟子さん」みたいな人だ。あからさますぎるくらいの「直截的なメッセージ性をはらんだ画面」を「シャレ乙さ」を装うことで、照れと趣味の悪さを隠蔽しているのだ。だからソフィアの映画の楽しみ方は身を捩りながらその照れを共有することにほかならない。実は「バージン・スーサイズ」の最初っからそうなんだけどね。

 ここにきてソフィアのテーマはよりその輪郭をはっきりと浮かび上がらせてきた。「ロスト・イン・トランスレーション」も「マリー・アントワネット」もそうだったけど、有名俳優や王女様といったシルシ付きの人々のシルシ付きゆえの孤独を描いている。本作のメインテーマもそこにある。主人公のジョニーは空虚さのシステムの中心に据えられてしまった「ジョニー・マルコという人気俳優」を演じている自分にうんざりしながらも抜け出せないでいる。そこで要求されている役割を承知し尽くしていて、またどの程度の逸脱が可能かも知り尽くしている。もちろんこのまま求められるイメージをなぞっていくことはできるだろう。だが、それが何になる?空虚さのサーキットから抜け出すためには、どうすればよい。妻は去り、娘もいずれは去っていくだろう。
 荒野の1本道でフェラーリを乗り捨てた男が歩く先に何があっても別に構わない。空虚さのサーキットから抜け出すことが目的だったのだから。また元のサーキット、あるいは別のサーキットに戻ることも容易な選択肢の1つとして残されてはいるが、彼はきっと戻らないだろう。解脱者は輪廻の輪に戻らないというのがルールなのだから。

2011年3月29日火曜日

人の役に立ちたいという病

自分を愛せないと人を愛せないというのは、ものすごく具体的かつシステマティックな話なんだと思う。

病床の哲人が被治療行為を装いながら数多の看護士をプロファイリングした結果、「人の役に立ちたい」とか「人の世話をするのが好き」などと無邪気に述べる者にプロはいないという。もっともだと思う。看護士に限った話ではないだろう。

そこには単に満たされるべき空隙として「己の無価値感」があり、人の役に立ち感謝されることでその空隙を埋めようという無自覚な意図があるだけだ。平たく言えば自分がいい人だ、優しい人だという評価を得たと認識することが目的なのであって、患者の痛みや不安を取り除くことが目的ではない。もちろん、多くの場合は「いい人」「優しい人」になるためのプロセスとして患者の痛みや不安を取り除かざるを得ない場面は多々ある。だが畢竟、彼女(彼)は「奪う」人だ。自分の持ってきた空っぽの器を患者と接することで満たして帰るのだ。

一方、プロの看護士が持つのは患者の痛みや不安を取り除いてあげたいという意志だ。そこには満たされるべき空っぽの器はないし、そこには「自分」すらいない。もっとも現実には0か100かではない。90の意志にも10の無価値感があったりしてしまうのだろう。

だがこれだけは言える。「人の役に立ちたい」と思った人はアクションを起こすのをやめて内省してほしい。本当に自分が望んでいるものは何なのか今一度考えてみてほしい。それが自己否定や無価値感ならそれをしっかり受け止めてほしい。皆が心底自分がしたいことだけをしていれば世の中悪くなるはずがないというのはそういうことだ。

2011年3月7日月曜日

リアル・フェイクとフェイク・リアル

「ヒアアフター」のメイキングで双子の弟マーカスの涙がCGであることが明らかにされている。大画面で見てもそれとはわからない「リアル」な涙だった。

このメイキングを見て思い出したのは、撮影の際、炬燵の中に火のついた炭を用意させたという溝口健二のエピソードだ。もちろん炬燵の中にカメラが入ることはない。「ヒアアフター」のマーカスの涙がCGだったこと。「赤線地帯」の炬燵の中に炭が入っていたこと。事後的に知っても認識は変わらない。私たちは結局私たちの認識がリアルでもフェイクでもあり、リアルでもフェイクでもないかもしれないという出発点に立ち戻る。

ここで気付かされたのは、津波で流された「誰か」とマーカスの涙をイーストウッドは区別していないということだ。多くの観客は一瞬でもそこにイーストウッドの倫理的欠如を見出したのではないだろうか。だが、津波で流された人々がCGでよくて、大写しにされた子どもの涙がCGであってはいけない明確な理由を私たちはしらない。それは私たちのモラルの浅薄さをあっけらかんと丸裸にする。イーストウッドはこう考えているのだろう「いい嘘も悪い嘘もない。最初からすべてが嘘なのだから」。これは教訓でもメッセージでもなく、ただ最初からそうなのだ。

アーティフィシャルな虚飾に向こうを張って自然らしさが顕揚されても、どちらもイデオロギーでしかない。そもそも、自然とは「追求」の対象になるような状態ではないはずだ。私はイーストウッドがアンチエイジング産業を批判したその日にボトックス注射をしていても驚かない。むしろ快哉を叫びたい。

2011年2月28日月曜日

Gloomy Sunday

「トスカーナの贋作」アッバス・キアロスタミ
久々にスクリーンでキアロスタミを見たという気がする。虚実のあわいを進んでいくストーリーが映画というメディアそのものの虚構性を露呈させる、といえばいつものキアロスタミなんだけど。何というか今回はものすごく「演劇的」な要素を強く感じた。3つの言語、それぞれに2つの役割。ヒステリックな母親/妻を演じたジュリエット・ビノシュはこうした遊戯の相手としては相応しいスリリングさを持っているし、夫役を演じる小説家を演じたウィリアム・シメルもスリリングな大人の遊戯として夫婦ごっこを楽しむだけの知性を兼ね備えているように見える。だが、私たちは常に不安にさらされている。なぜなら、この2人がどれだけこの遊戯にノっているかが分からないからだ。というよりも、ノっていいないんじゃないかという不安。特にシメルが見せる倦怠感を帯びた嘆きの表情がその不安をかきたてるのだ。もっとちゃんと演じて私たち観客を安心させてください、といいたくなるような不安定感。だが、ノってはいないけど、決して降りない。1時間半の絶妙な綱渡り芸。眠いけど寝れなかった。トスカーナ郊外の小さな街並みが美しかった。

「アンチクライスト」ラース・フォン・トリアー
いくら何でもそれはベタすぎだろうってことと、いくら何でもそれはエグすぎだろうってことを両方やってくるのがトリアーの魅力なわけで、その振れ幅の大きさについて行ければ面白いし、どちらかにでもついて行けなければ見ない方が良かったということになってしまうんだろう。シャルロット・ゲンズブールもウィレム・デフォーもメチャクチャいい(2人とも顔がいい)んだけどね、後半のエデンのロケとか想像しただけでもつらい。中身というかテーマについて深刻に吟味するような映画なんだとしたら、そこまではついて行けないけど(シャルロット自身が以前から女性性のうちにサタンを見出していたのであって、彼女の息子を殺したのは他ならぬサタンである的な)、狐の穴のカラスとか幻聴が聞こえるところの床を割ったら何かが出てくるみたいなのは好きだな。鈍器にしても刃物にしても、そこら辺に置いてあるものがこんなに怖い映画ってないよね。暴力描写だけは観念的、抽象的レベルに昇華されないのだ。余談だけど、こういう映画にボカシとか入ってるの見るたびに日本ダセエって思ってしまう。


それはそうと「息もできない」の梁益準(ヤン・イクチュン)監督に宇多丸師匠がインタビューしてて、それが結構面白かった。ポッドキャストで聞ける。人を殺そうと思ったときにたまたま手に取ったのがハンマーだったみたいな感じで、何かを表現しようと思ったときにたまたまそこにあったのが映画だったというような話。映画原理主義者は彼みたいな人を敵視したり嫉妬したりするだろうけど、映画の振れ幅を広げてくれているのはこういうタイプの人なんだよな。北野武も最初はそうだった。別にハンマーに愛着がなくたっていいじゃないか。でもまあ実際問題そうやってしらばっくれてられるのは1作目だけなんだな。じきに被抑圧装置が作動してしまうのだ。「君はハンマーについて何も分かっていない」「ぐぬぬ」ってねw

2011年2月14日月曜日

Love never sleeps!

「毎日かあさん」小林聖太郎
 西原理恵子をよく知らないが、その筋の人が面白いと言っていたので見に行った。がさつさや荒っぽさを描くには繊細さが要求されるということがよくわかる作品だ。「浮き雲」や「放浪記」の高峰秀子を思い出したが、ダメ男に翻弄される女はとてもパワフルだ。翻弄されるのにはとても体力と精神力がいる。西原の女たちは皆とてもパワフルだ。本人も母親も娘もママさん連中も。男たちは女たちのタフネスの限界に挑む。「どこまで我慢できる?もうさすがに無理でしょ?やっぱり無理だった」それでも女は男を見捨てない。
 ここまで書いてジェンダーに回収してしまっていい話なのかどうかということに甚だ疑問がある。というかそれはおそらく間違っている。この映画は「男」や「女」、あるいは「大人」や「子ども」に「人間」を代入しても成立するようなパワーポリティクスを描いていたのだと思う。

「ウォール・ストリート」オリバー・ストーン
 前作を見ていないが、そんなことは関係なく文句なく駄作だと思う。それも歯車がかみ合わなくて失敗してしまったのではなく、何度撮り直してもよくならないと思う。演出が致命的にひどい。パワーポリティクスをすべて感情論にすり替えていて、それにいちいち鼻白む。脚本も面白くなる要素はあるけど元々それほど良くはない。ハリウッドでもこんなにダサいものが撮れるのかということに改めて驚いた。2ちゃんのスレにあった冒頭で出所してきた黒人のラッパーで1本撮った方が面白そう、という意見に激しく同意。マイケル・ダグラスは別に好きな役者ではないけど、これが遺作になったらさすがにかわいそう。

2011年2月12日土曜日

ちゃんとバカにしようと思う

 そんなに昔からある言葉ではないと思うが「上から目線」という言葉は人間の(日本人の?)「比較オブセッション」を端的に表している症例のひとつだと思う。僕を含めて、ほとんどの人は「バカにされる」ということにものすごく敏感だ。人は上から目線を感じたときに何に憤っているのかと内省・観察してみたが、おそらくは評価が不当であることや劣等感を刺激されたことよりも、相対的な位置関係そのものに憤りを感じているのだ。誰それよりも下に見られているという。実際に自分がその上から目線の人に比べてどれくらいバカか/バカでないかということはここではあまり重要ではない。僕が言葉を覚え始めたころから持っているある感覚を改めて言葉にすると、目線の位置よりも自身の絶対的な立ち位置について考察すべきではないかということになる。バカにされることとバカであることのどちらを避けたいのか?

 バカであることを隠蔽し続けることはできても、非バカにはなれない。バカに見られないようにする努力とバカであろうとしない努力とはまったく別のものだ。まったく逆のベクトルを向いている。無闇に人を傷つけるつもりはないが、他人を正しくエバリュエイトすることに遠慮や情けを差し挟むのは辞めにしようと思う。評価は重要なプロセスのひとつだから。バカに見られないための努力を積み重ねている人に対しては特に。無論、僕自身もそうしてもらいたい。

スクリーンから自己愛がアフレック

「ザ・タウン」ベン・アフレック
 アメリカではいつからなのか悪者を格好良く描くなとか最近では喫煙者を格好良く描くなという訳の分からないPCが浸透しているんだけど、そこにもうひとつ付け加えてほしい。バカを格好良く描くな。バカはちゃんとバカっぽく描け。
 生まれついての犯罪者みたいな連中の中でなんで監督・主演たるベン・アフレックは全然バカっぽくないの? 周りの奴らは本当に救いようのない底辺のバカでクズなのに、主人公だけはクールでスマートで銀行の支店長を務めるようなキャリアの女と付き合えるっていうところにアメリカンドリームを感じる。。。わけねえだろ。
 ムショ暮らしかシャバにいても犯罪で生計を立てるしか生きるすべを知らない連中。とまではいかなくても僕らの周りにはグリーとか韓国ドラマとかAKBとかパチスロとかそういう事にしか興味のない精神的底辺にいる人間はいくらでもいて、もう十分うんざりしているのですよ。そういうのがどれくらい自発的に愚かであることを選択しているかっていうことはごまかさないでちゃんと描いていただきたい。

 とまあ、個人的ルサンチマンはそれくらいにして、結構面白かったですよ。特に冒頭の銀行強盗のディテール。防犯ビデオの録画HDDを電子レンジでチンするとか、指紋を消すため(?)に漂白剤をばらまくとか、そういうつまらないところには感心した。けど、さすがに捕まるでしょ。こんなこと繰り返してたらっていうレベル。こんな生活をせざるを得ないという「環境」はよく説明されている(結果的に取ってつけたようにはなってるが)と思うんだけど、主人公と武闘派のジェレミー・レナー(マジで怖い)の濃密なはずの絆みたいのが実感できなかった。花屋のピート・ポスルスウェイトも同じ。小さい頃からこの街の支配下にいるという感じが主人公にないのだ。潜入捜査官って言われた方がまだ納得出来る。なぜならひとりだけ気取ってるから。

 こういうのを見ると、北野武っていうのは俳優としての自分を客観視できるという能力に恵まれた人なんだということがわかる。繰り返すけど、意外に面白かったんですよ。まあベン・アフレックが「ミスティック・リバー」をやったらこうなるよねっていうくらいは面白かった。

2011年2月8日火曜日

フェイスブックに匹敵するアイデア売り出し中

「ソーシャル・ネットワーク」デビッド・フィンチャー
 冒頭のパブでのガールフレンドとの会話が素晴らしい。主人公のマークの肥大した自尊心と本来それとは矛盾するはずの過剰な非承認願望。最初の5分でこの映画のテーマのすべてを語り尽くしてる。「有名になってお金持ちになってモテたい」。マークの「クラブ」に象徴される病的な非承認願望の強さはそうした通俗な欲望を軽く凌駕するほどのものだ。「ナップスター」の生みの親であるというだけで胡散臭いITゴロのショーンに素直に熱を上げてしまうのも彼が権威だからだ。(実際にショーンには独特のクールさと経験がある。凡百にはわからない天才の匂いを嗅ぎ取ったとも言えるかもしれない)
 マークの目的は金でも女でもなく彼の考える「クール」を実現することだったと思う。相棒のエドゥアルドがグルーピーに浮き足立っても、ショーンの目当てがドラッグとセックスでもマークの頭にはフェイスブックのことしかない。
 そういうやつとはどんな勝負をしても勝てない。そういう教訓劇だ。ハーバードの学長の言うように我々学生に求められているのは正しくあることではなく、常に創造的であることだ。その勝負から降りたものに栄光はない。ボート部の双子が徹底的にダサく描かれていたのも素晴らしい。ただ今年(アメリカでは2010年)を代表する1本とか言われると、さすがにそれはないと思う。

 ところで私には莫大な富を生み出す未着手のアイデアがあるんだ。今ならヨーグルトチェーンくらいの値段で誰かに譲っても構わないと思っている。じゃないと自分でCEOやるよ、ビッチ!

「冷たい熱帯魚」園子温
まあでんでんさん(面識があるのでさん付け)の終始ハイテンションな怪演で150分は長く感じなかった。最初の諏訪太郎をアレしちゃうところの雰囲気とかちょっと常軌を逸してて面白い。実際にこういう人いるし、何とか性人格障害で片付けられちゃうのかもしれないけど、常にあらゆる人に対して潜在的に精神的優位に立つことの出来る人というのには興味がある(ソーシャルのショーンを演じたジャスティン・ティンバーレイクにも通じる。反感を抱かせながらも服従させる)ピカレスク・コメディっていうジャンルがあるかどうか知らないけど、これはそんな映画。エロもグロも思ったほどではなく、ほどほど。

2011年2月5日土曜日

「キック・アス」

ヒューマントラストシネマ有楽町で「キック・アス」を観てきた。旧シネラセットなんだけど、せっかくビルを綺麗にしたのに、1階はパチンコ屋のままでなんかいろいろ中途半端だった。客入る下世話なタイプの映画だと思うんだけど、箱もちいさくて(100人入らないくらい)ちょっとないわという感じだった。

映画はまあまあ面白かった。アメリカ的な萌えの表現というのがよくわかった。13歳の美少女が「この腐れオマンコ野郎どもが」とか言うのがいいんだよね。それは確かによかった(笑)メガネデブのオタクの友達とか、仇役のダミーコの息子とか顔のつくりが出落ちっぽい感じも悪くない。まあどうのこうのというよりも見て楽しむタイプの映画ですね。ダミーコ親父のシャツのセンスとか着こなしが半端じゃなく格好良かった。

2011年1月12日水曜日

ガッカリガーリー

From Evernote:

ガッカリガーリー

 財布を忘れて出てきた僕に休日のアーバンライフを味わわせるために新宿まで出てきてくれた大学の同級生のO君と中村屋でカレーをいただいた後に、お茶でも飲もうとたまたま降りていったのが、三越の裏手の若者向け宝飾店の地下1階にあるFLAG'S CAFEという喫茶店だった。階段を降りていくうちに何となく場違いな雰囲気を感じてはいたのだが、引き返すのも面倒くさい&敗北感があるので、そのまま案内された席に座って一息つくと見事なまでに周りが女子一色だった。一人カフェなどをしていれば似たような光景に出くわすことは珍しくないが、ここまで徹底した花園感(≠神社)は初めてだった。まあアウェー感を愉しむのも吝かではないという程度の余裕は持ち合わせているつもりだったが、音、温度、湿度、香り、色彩とあらゆる面で先ほどまでいた中村屋とのギャップを埋められないでもじもじしていると、上気した中高一貫私立男子校卒のおじさん二人の元にコーヒーとケーキが運ばれてきた。
 興奮の中にいながらも、我々は冷静だった。いや、ケーキのひとかけ、コーヒーのひと口が冷静さを呼び戻してくれたのかもしれない。ガーリー幻想は一瞬で崩壊した。缶詰のシロップ漬けの杏、甘いだけの白っぽいカスタードクリーム、ぱさぱさしたタルト生地。臭味と苦味だけが突出した濁ったぬるいコーヒー。ケーキをのせた白い皿の大きな余白に点在するオレンジと茶色のソースが「っぽさ」だけを演出し自足している。しかし我々の怒りの矛先は決して店ではない。「なんだお前らも結局あれか、イキフンか!」
 「っぽさ」の演出に特化した現代特有の(?)丸井的カルチャーに淫しているのは男だけじゃないってことくらいはわかってたつもりだけど、こと「ガーリー」に関しては幻想の対象としてくらい機能していてほしかった。にしてもひどくないか? お前ら、甘いものに目がないんじゃないのか?
 いや、「ガーリーの聖地」がここじゃなかったっていうだけの話で、別に「ガーリー幻想」の崩壊ではないよね。本当に美味しいもの好きの女子もちゃんといるのは知ってるし、繊細さにおいてやはり女子の方が遥かに優れてると感じることの方が多いし。ただ、女には寺門ジモンみたいな奴はいないよねっていう話。

このうすら寒さ、4℃。

2011年1月5日水曜日

2010年ベスト10

本数大して見てないので意味ないんですけど、一応総括ということで。

■1位 「バッド・ルーテナント」ヴェルナー・ヘルツォーク
監督賞、作品賞ならびに主演男優賞という感じですね。突出した1本では決してないと思うんだけど結果的にそうなってしまいました。ニコラス・ケイジが腰痛持ちという時点でこの傑作は半分成功したようなものといってもいいでしょう。同じプロットでいいから「バッド・サージェント」も見たいですね。

■2位 「息もできない」ヤン・イクチュン
処女作っていうのは誰にとっても二度と撮れない一本で、作家は後先考えないでそこにすべてをぶちこもうとするもんだからたまにとんでもない傑作が生まれる。「勝手にしやがれ」も「大人は判ってくれない」も「獅子座」も「美しきセルジュ」も(そういえば去年はロメールとシャブロルを失った年でもあった)商業映画1本目特有の若さやみずみずしさ、一回性みたいなものがフィルムに刻み込まれている。(余談だが映画に限らず高橋源一郎の「さよならギャングたち」や小沢健二の「犬が吠えればキャラバンは進む」なんかにもそれを感じる、ジャンルは問わないんじゃないかと思う)「息もできない」はまさにそうした1本で、作家その人のそれまでの人生が凝縮して詰まっていると言えるような作品になっていると思う。僕はこういうものを撮ってしまった監督のその後にはあまり期待しない(笑)。気楽に撮ってほしいから。主人公の口癖である「シバラマ」は昨年の流行語大賞にも輝いた。

■3位 「エア・ベンダー」M・ナイト・シャマラン
シャマラン信者乙。というだけではなく、単に娯楽映画として、また男子の成長譚としてよくできてませんでしたか?ってあまり多くの人が見なかった映画でもありますが……。先日、飛行機の中でやっていたので再見したのですが、やっぱり面白かったですね。アンが土の民を扇動して蜂起するところなんか、小川紳介かガレルかっていうくらいで涙なくしては見られないでしょう。続編があと2本もあるというのが生き甲斐のひとつになってます。

■4位 「インビクタス」クリント・イーストウッド
いや、もう完璧な映画なんだけど、すでに次回作「ヒアアフター」が気になってしようがないので4位。ラグビー選手の次に霊能者ってすごくないか、マット・デイモン。

■5位 「アウトレイジ」北野武
痛い暴力映画作家として帰ってきた武にエールを送ります。武のキャスティングのうまさ(=日本のテレビタレントの使い方)っていうのも他の作家に学んでほしいところだと思う。

■6位 「ナイト&デイ」ジェームズ・マンゴールド
ザ・ハリウッド的な華やかさっていうのは、斯様に繊細な演出に支えられていなければならないという見本のような映画でした。年に1本でもこういう映画があるうちは僕たちはハリウッドを見続けるんだと思います。

■7位 「インセプション」クリストファー・ノーラン
鑑賞後のオルグを含め、映画体験として面白かったですね。ハズしてもいいので、作家も観客もこういう「アイデア勝負」みたいな映画に果敢に挑戦してほしいと思います。

■8位 「ベストキッド」ハラルド・ズワルド
ジャッキーと芸達者なガキに。次回作にも期待しつつ。

■9位 「十三人の刺客」三池崇史
今年は特に邦画はあんまり見てないんですけどね。これと松たか子が出てた「告白」くらい。

■10位 「アリス・イン・ワンダーランド」ティム・バートン
まあ、見てる映画の半分くらいは新作じゃないんで、去年公開に限定するとこういうのも入ってきますね。物足りない1本でした。

■番外 「メーヌ・オセアン」ジャック・ロジエ
この時代性を超越した映画が2000年代に不可能だという明確な理由は見あたらない。だから、こういう映画を撮る人がいないだけなんだと思う。現れてほしい。

正月休み悪あがき2本立て

ゴダールを何となく敬遠してしまった……。

「バーレスク」スティーブン・アンティン
クリスティーナ・アギレラもシェールも知らないんだけど、「フレンチカンカン」と「紳士は金髪がお好き」オマージュの部分は完璧に好きだった。金髪のボブで「男たちなんてかわいいもの」っていう感じでマリリンよろしく踊るところは個人的にもぐっときた。ストーリーは変にややこしくしないで、つぶれかけたキャバレーを実は才能にあふれる田舎娘が立て直すっていうだけで十分じゃないか。要はこの映画のいかがわしくフランス的なところは全部好きで、リーズナブルに叙情的な(アメリカ的な)ところはあまり面白くなかった。こういう「キャバレー」的なショーを実際に見てみたいと思った。生で見たら本当に楽しいと思う。正月映画なんだからもうちょっとシンプルに作ってほしい。
まあ「才能が開花する瞬間」とかボロ泣きしてましたけどね。

「トロン:レガシー」ジョセフ・コジンスキー
オリジナルを覚えていないがまあまあ楽しめた。これで3D映画は4本見たが、視覚的にはまったく快楽とほど遠い体験であることだけは痛感したので、もう当分はいい。2Dでいい、というか2Dがいい。
主人公が父なる神の息子という点では、ハリポタから連綿と続く「シルシつき」のシリーズといえる。人物の配置がフロイト的すぎるという批判も可能だろう。異世界の創造主のひとり息子が現実世界のアダムになるという創世記的な側面よりも、創造主が異世界で遂げた成長の物語がメインと読めた(アリス的な。それは息子にも言えることだけど)。創造者であって支配者ではない神というキャラクターは案外この世界に似ているのかもしれない。思惑とは異なる世界を前に「ただ座して待つ」神というのが容易に想像できてしまうのだが、神の息子の乱入によって事態が思わぬ収束を見せるというのも「今」の似姿と言えなくもないのかもしれない。
個人的にはあのアイデンティティともいえるディスク(実際に非常に重要なガジェットとして劇中でも重要な役割を果たす)を武器にして投げあうという野蛮な設定にとても惹かれた。

2011年1月3日月曜日

恵比寿ガーデンシネマ閉館記念2本立て

 1月いっぱいで閉館の決まっている恵比寿ガーデンシネマで2本立て。

「人生万歳!」ウッディ・アレン
 ”Whatever works”、つまり「役に立つものなら何でも」の原題通り、人生何でもありだよという映画。本物の知性は南部的な保守性を愚弄するよりも若い女の肢体を賞賛することに注力しようというウッディに諸手を挙げて賛成ですね。奥さんに逃げられて自殺歴のある偏屈者の元天才物理学者に完全に同調して見てた自分も、それでもありなんだよということで。

「クリスマス・ストーリー」アルノー・デプレシャン
 デプレシャンだから軽くは流せないのは分かってたけど、寝正月からの1発目にはきつい1本でした。

 僕が初詣をなぜ嫌いなのかというと、そこが単に欲望の渦巻く場所でしかないからです。それも「合法的に」いくばくかの金銭と引き換えに欲望を丸出しにしていいとされているからです。単にこの世の似姿を直視したくないのです。
 先月、2日に父方の祖母がなくなりました。最後の方はわけ分かってなかったそうですが、89歳なので天寿をまっとうしたと言えるでしょう。女のくせに(と言ってもフェミニストの反論は受けないで済むと思いますが)虚栄心の塊のような人で、3人の息子の母親でしたが、医者の息子が開業したとか、一流企業の部長になったとか、孫が早稲田に入ったとか、孫の嫁は議員さんの姪だとか、その子たちがよく自分のもとを尋ねてきてくれるとか、そういう「事実」を生き甲斐にしてました。そうした事実への執着心と引き換えに、その内実には驚くべき無関心をもって一切の言及を避けていました。実際その内実は、彼女の息子も家族もさして幸せでもなく、彼女を慕ってもいなかったからです。
 晩年の祖母と同居していた私の両親の隣家に暮らす父の弟(私の叔父。祖母の寵愛を受けていた)とその妻は、介護が必要になった祖母に労力を割くことを露骨に避け、一切の協力を拒否しその重責を私の両親に巧みに押し付けていました。その一貫した姿勢には清々しさすら漂っていたほどです。その叔父夫婦が今は毎日義務のように祖母の仏壇に手を合わせにくるという話を聞いて苦笑を禁じ得ませんでした。そこまでの愚鈍さが許されていいのだろうかと。
 カトリック的な贖罪意識と言えば聞こえはいいかもしれませんが、もっと平たく言えば「祟られたくない」という原初的な不安でしょうか。ささやかな後ろめたさや背徳感すら抱えて生きることはできないという弱さ、そしてその弱さを無自覚に露呈させてしまう土人的な恥知らずさはどこまでも侮蔑に値するでしょう。この伯父夫婦に日本の正月行事に通底する恥知らずさを感じたのだと思います。

 冥福を祈るという表現にどこかトートロジックな響きを覚えるのは、私が冥土には福しかないと知っているからだと思います。ともあれ、この世での役目を終えた祖母にお疲れさまでしたと言いたいです。

 以上をもちまして、デプレシャン「クリスマス・ストーリー」への感想とさせていただきます。