2011年11月7日月曜日

キャピタリスト!


不勉強ながら、ぼくは廣瀬純という人を名前くらいしか知らなかったんだけど、「サウダーヂ」のティーチインにゲストで来た彼の知的面白トークにやられた。正直言うと映画本編よりも刺激的な部分があった。司会が富田克也監督と脚本の相澤虎之助、そしてゲストに廣瀬純という形で進められた。

ぼくが特に興味を持った部分をピックアップして要約すると、

ぼく(廣瀬)はこの映画をスクリーンで3回と京都と東京の新幹線の往復の度に見ている。なんでこの俗物だらけのどこにも意外性のない映画が繰り返し見たくなってしまうのか。ラストの方でかかるあの有名な曲(ここでは伏せます)はどうでもいいような曲なんだけど、この映画の中では非常に魅力的に聞こえる。でも、iTunesでダウンロードして聞いてもやっぱりちっともよくない。だから、この映画の最後の方で流れるあの曲が聴きたくてもう一度最初から見てしまう。その曲と同じで、この映画の中の甲府はこの映画の中にしかない。同様に「アバター」のあの森も同じ。あの映画の中にしかあの森はない。あの森が見たくて何度も見てしまう。 
一方で、ヒッチコックの「鳥」のような映画がある。「普通の鳥」が恐ろしいという映画。この映画を見た観客は映画館の外で雀を見たら怖いと思う。だから、この種の映画は何度も見る必要はない。一度見れば十分。 
この部分に関して最後に観客から質問がありました。
Q:「鳥」タイプと「アバター」「サウダーヂ」タイプの映画、つまり、映画の世界観を映画館の外に持って行ける映画とその中で完結している映画。この両者の違いはどこから生じるのか? 
A:その両者は「コミュニストの映画」と「キャピタリストの映画」と言い換えることができるのではないか。「コミュニストの映画」は一度見ただけで恒久的にその人の世界観を変えてしまう。「鳥」を1回見れば、もう死ぬまで鳥が怖い。つまり、1800円払えばもういいわけです。何度も見てもらう必要はない。一方で「キャピタリストの映画」は「この世界はここ(スクリーン上)にしかありませんよ」って何度もお客さんに足を運ばせる。「アバター」なんて3Dだと2500円ですか? 見てくださいこの監督(富田克也)の顔を。キャピタリストでしょう?(笑)

非常に面白い概念だと思いましたね。なお、上記の要約は俺フィルターが存分にかかっているので、廣瀬さんには不本意な部分あるかもしれません。

「サウダーヂ」の「甲府」はきっとリアルに限りなく近いんだと思う。でも、そこにぼくらが見るのはカギ括弧付きの「地方都市」であり「シャッター商店街」であり「不況下の外国人労働者」であり「右傾化する日本の若者」だったりするわけだ。まああるんでしょうね、そういう現実。いるんでしょうね、そういう人たち。盆地の箱庭感というか閉塞感が「甲府」への郷愁を加速させる。それはここにはないどこかを懐かしむ気持ち、まさに「サウダーヂ」。通俗さにおいてディズニーランドに優るとも劣らないテーマパークをこの映画は完璧に演出している。

「コミュニストの映画」としてぼくが最初に思い出したのがイーストウッドの「ヒアアフター」でした。この映画を見た友人は「この映画を見る前と見た後では世界が違って見えた」と。ぼくはそこまでは感じることはできなかったけど、同じような大きさの影響を受けたと思うんです。これってまさに「コミュニストの映画」なんですよね。ぼくはあまりのその映画体験の不可解ぶりに2度見に行きましたが、1度で十分なんですよ。細部に気づくことで解釈の奥行きを増すということはもちろんある。でも最初の1回でぼくたちは十分にいただいてしまっている。というか、1度見てしまったら見る前の世界にはもう戻れない。だから、鑑賞後に必要なのは再度のスクリーンではなく新たな現実と対峙する時間だけ。「そこ」に戻る必要はない。もうそこは世界の、ぼくの一部だから。

また、「コミュニストの映画」と「キャピタリストの映画」をこうも言い換えることができると思うんです。「与える映画」と「奪う映画」。前者は新しい世界を、後者は金銭と時間を。となると、ぼくの興味は圧倒的に「コミュニストの映画」の方だなと確信できるんです。もう15年以上前になりますが、黒沢清の「ニンゲン合格」がまさにそんな映画でした。ガツーンとやられた。個人的に記念碑的な映画だからスクリーンでかかる度に見に行っちゃうけど、「そこ」を通過してしまったという不可逆性はいかんともしがたい。オリベイラとかデプレシャンもそうでした。ぼくにとってはロメールは「キャピタリストの映画」だったかな。

廣瀬さんも(冗談として)言ってたけど、ポリティカルコレクトネス=正しさ的にも映画には現実に立ち向かう力を与えるものであってほしい。クソみたいな現実の片隅にクソみたいな現実の一部がある。それはそれでぼくらのささくれだった気持ちを慰撫するのかも知れないけど、もうそういうものに淫しなくてもいいんじゃね。という思いを新たにしました。


タイトルは蓮實重彦の息子が子ども時代に級友を罵って言った言葉から。

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