だから、正しい信念なんてものはないんだよ。スピリチュアルの落とし穴はここにあって、熱心な人ほど正しい信念を増やしてしまっている。例えば、捨てなければいけないという新しい信念。それは今まで持ってたものに比べてきれいで魅力的に見えるかもしれないけど、新しい捨てるべきものでしかない。気づきにしたって別の視点が生み出した別の信念にすぎない。信念に優劣はない。上品も下品も正誤も霊性の高い低いもない。あらゆる信念から解放されたところにしか真に見るべき世界はない。
信念から解放されるために新しい信念を獲得するというプロセスは必要ない。宗教もヨガも瞑想もワークも何らかの信念に基づいている以上、その信念からの解放を遠ざけるものでしかない。もちろん信念は不要であるというドグマも。
ここまでわかったらやることはひとつ。すべての信念をひとつ残らず捨て去ること。すべてを一気に放り出すのも少しずつ削りとっていくのも好き好き。大事なのはいかなる信念の支配下にあるのか気づいていくということ。
思考を止めるべきというのは、あらゆる思考は何らかの信念に基づいているから。知識やノウハウが曇った目を余計に曇らせてしまうから。
自分を探したいならそこから一歩も動かないこと、あらゆる思考、精神活動をストップすること。すべての活動をやめて距離がゼロに戻ったところに「自分」はいる。
2012年8月26日日曜日
2012年8月15日水曜日
自分探しの旅 盆ボワイヤージュ4
—なぜあれほど熱烈に愛読していたスピリチュアル本を読むのをやめたのですか? 依存といっても過言ではなかったと思うのですが(笑)。
「もはや洞察を外側に向けるべきときは少なくとも個人的には終わったと感じています。助けになるだけの智恵はもう十分に手にしていると気づいたのです。1つ、パパジの教えによって『移動』が必要なくなったということが大きいでしょうか。『いまここ』はさまざまな局面で語られていますが、その究極的な謂いは『いまここ』という言葉でしか言い表せないものです。この『いまここ』という概念は覚醒のために私たちの身体や精神の移動が不要であることを示唆しています。文字通り、答えはいまここにある、いまここにしかないからです。いまここを追い求めて過去のあそこや未来のそこにいく必要はない。移動は不要である以上に、根本的に間違ったアクションだったのです。座禅でいう只管打坐という言葉も同じことを伝えていると言えるでしょう」
—そのままマスターぶってお答えください。では、ただそこに心身ともにとどまっていればいいと?
「そうです。ただそれが私たちにはとても難しく感じられるのです。一切の精神活動を一旦休止するということは多くの現代人にとっては不可能と思えることでしょう。そのためにさまざまな精神活動休止のための『手法』が考案され、売買され、人口に膾炙しました。それが昨今のスピリチュアル産業の隆盛です。しかし、今ではその『手法』そのものが過ちであると断言できます。いかなる手法でも、です。正しい手法というものはありません。楽しい苦役がないのと同じことです」
—『いまここ』にとどまるためのあらゆる手法が過っているとはどういうことでしょうか?
「簡単に言えば、何もしないために何かをする、というのがおかしいのです。何もしない、を実践するには、他の実践をとりあえず休止して、何もしないを徹底するだけです。やめるのはやめたいときにやめればいいだけです。呼吸や心臓の拍動を除いてあらゆる活動がそうです。やめ方などない、ただやめるだけです。しかし、やめる自由がないという錯覚がまず我々をいまここから遠ざけていると言えるでしょう。やめる自由がないという錯覚に私たちは捕らえられているのです」
「もはや洞察を外側に向けるべきときは少なくとも個人的には終わったと感じています。助けになるだけの智恵はもう十分に手にしていると気づいたのです。1つ、パパジの教えによって『移動』が必要なくなったということが大きいでしょうか。『いまここ』はさまざまな局面で語られていますが、その究極的な謂いは『いまここ』という言葉でしか言い表せないものです。この『いまここ』という概念は覚醒のために私たちの身体や精神の移動が不要であることを示唆しています。文字通り、答えはいまここにある、いまここにしかないからです。いまここを追い求めて過去のあそこや未来のそこにいく必要はない。移動は不要である以上に、根本的に間違ったアクションだったのです。座禅でいう只管打坐という言葉も同じことを伝えていると言えるでしょう」
—そのままマスターぶってお答えください。では、ただそこに心身ともにとどまっていればいいと?
「そうです。ただそれが私たちにはとても難しく感じられるのです。一切の精神活動を一旦休止するということは多くの現代人にとっては不可能と思えることでしょう。そのためにさまざまな精神活動休止のための『手法』が考案され、売買され、人口に膾炙しました。それが昨今のスピリチュアル産業の隆盛です。しかし、今ではその『手法』そのものが過ちであると断言できます。いかなる手法でも、です。正しい手法というものはありません。楽しい苦役がないのと同じことです」
—『いまここ』にとどまるためのあらゆる手法が過っているとはどういうことでしょうか?
「簡単に言えば、何もしないために何かをする、というのがおかしいのです。何もしない、を実践するには、他の実践をとりあえず休止して、何もしないを徹底するだけです。やめるのはやめたいときにやめればいいだけです。呼吸や心臓の拍動を除いてあらゆる活動がそうです。やめ方などない、ただやめるだけです。しかし、やめる自由がないという錯覚がまず我々をいまここから遠ざけていると言えるでしょう。やめる自由がないという錯覚に私たちは捕らえられているのです」
自分探しの旅 盆ボワイヤージュ3
スピ系説教の間に「トータル・リコール」の感想を紛れ込ましてやろうw
何となく楽しみにしてたんですが、忙しいだけでわちゃわちゃしてて騒がしくて面白くありませんでした。シュワちゃんのオリジナルの方や「ブレードランナー」「マイノリティー・リポート」がなぜ面白かったのかを今一度振り返ることでこの作品が改めるべき点が浮かび上がると思いますが、そこまでの愛がないので他の方に譲ります。
ちょうどこの映画を見た日の朝、悪夢を見ていました。それも覚醒夢。内容は、仕事でいなければならない場所に自分がいないというリアルでなくもないイヤな夢でした。それが大阪か名古屋だったのですが、自分は新幹線で東京の実家に戻ります。戻った実家が建て直す前の古いものだったので、なんだやっぱり夢か、とそこで胸をなで下ろすのですが、その世界から抜け出すことができずに、夢だってはっきりしたんだからもうこの世界から解放してくれよと意識しているにも関わらず、自然に目が覚めるまで不安と恐怖と義務感とに苛まれ続けるという最悪の状況でした。
どうしたら夢だとわかっているこの世界から目を覚ますことができるのか。これはこうして目を覚ましている今もまさに最も重要なテーマなわけです。「トータル・リコール」でもまさに同じような場面がクライマックスに用意されていて、ああこのシンクロには深い意義を感じるなどと一人悦に入っておったわけです。
どうしたらこの夢から目を覚ますことができるのか。自力で起きたいけどそのやり方がわからない。誰か叩き起こしてくれないだろうか。そもそも眠っている自分とはどこにどのような形で存在するのか? ぼくが今おぼろげに感じているのは遠くから目覚まし時計が鳴っているような、そんな気配なのです。
何となく楽しみにしてたんですが、忙しいだけでわちゃわちゃしてて騒がしくて面白くありませんでした。シュワちゃんのオリジナルの方や「ブレードランナー」「マイノリティー・リポート」がなぜ面白かったのかを今一度振り返ることでこの作品が改めるべき点が浮かび上がると思いますが、そこまでの愛がないので他の方に譲ります。
ちょうどこの映画を見た日の朝、悪夢を見ていました。それも覚醒夢。内容は、仕事でいなければならない場所に自分がいないというリアルでなくもないイヤな夢でした。それが大阪か名古屋だったのですが、自分は新幹線で東京の実家に戻ります。戻った実家が建て直す前の古いものだったので、なんだやっぱり夢か、とそこで胸をなで下ろすのですが、その世界から抜け出すことができずに、夢だってはっきりしたんだからもうこの世界から解放してくれよと意識しているにも関わらず、自然に目が覚めるまで不安と恐怖と義務感とに苛まれ続けるという最悪の状況でした。
どうしたら夢だとわかっているこの世界から目を覚ますことができるのか。これはこうして目を覚ましている今もまさに最も重要なテーマなわけです。「トータル・リコール」でもまさに同じような場面がクライマックスに用意されていて、ああこのシンクロには深い意義を感じるなどと一人悦に入っておったわけです。
どうしたらこの夢から目を覚ますことができるのか。自力で起きたいけどそのやり方がわからない。誰か叩き起こしてくれないだろうか。そもそも眠っている自分とはどこにどのような形で存在するのか? ぼくが今おぼろげに感じているのは遠くから目覚まし時計が鳴っているような、そんな気配なのです。
自分探しの旅 盆ボワイヤージュ2
今朝の珈琲館のウェイトレスの方を見ていて思ったのは、人は「そう思われたい自分」を確実に演出することに成功してしまうということです。彼女の場合であれば「自分を忙しそうに見せること、一生懸命仕事をしている風に見せること」に100パーセント成功しています。しかしそれは決して彼女が「忙しいこと」や「一生懸命仕事をしている」ことと同義ではありません。このギャップこそを人は敏感に感じ取ってしまいます。
ぼくの会社にもいろんな人がいます。「仕事が暇だと思われたくない私」「重要な仕事をしていないと思われたくない私」「バカだと思われたくない私」みんな完璧にそういう自己演出に成功しています。みんながみんなちゃんと「そういう風に見られたい(見られたくない)人」に仕上がっているからです。そういう人とやり取りすると、すべてのメッセージにメタタグの様にそうした自己像が貼り付けられているので、受け手が余程鈍感でない限りそれは確実に周囲に伝わっていきます。ああ、この人重要な仕事を任されてる風に見せたい(ということは本当は大したことしてない)人なんだなぁ、とか、この人はバカだと思われたくない(ということは本当はバカな)人なんだなぁってね。それが当人の意図かどうかは別にして。まあ多くの場合は不本意でしょうけどね。また、鈍感な受け手というのも案外多いことがこの種の恥知らずが横行する一助になっているとも思いますが。
「思考は実現する」っていうのはスピリチュアル界でももはや根幹をなすコンセプトになっていると思いますが、引き寄せ厨とかポジティブ狂の人の脇が甘いなと思うのはこういうところですね。望むと望まざるとに関わらず思考は実現してしまうっていうことです。みんなこのことに対して無自覚というかお気楽なんだよなぁ。その思考、実現しちゃってますよ。
ぼくの会社にもいろんな人がいます。「仕事が暇だと思われたくない私」「重要な仕事をしていないと思われたくない私」「バカだと思われたくない私」みんな完璧にそういう自己演出に成功しています。みんながみんなちゃんと「そういう風に見られたい(見られたくない)人」に仕上がっているからです。そういう人とやり取りすると、すべてのメッセージにメタタグの様にそうした自己像が貼り付けられているので、受け手が余程鈍感でない限りそれは確実に周囲に伝わっていきます。ああ、この人重要な仕事を任されてる風に見せたい(ということは本当は大したことしてない)人なんだなぁ、とか、この人はバカだと思われたくない(ということは本当はバカな)人なんだなぁってね。それが当人の意図かどうかは別にして。まあ多くの場合は不本意でしょうけどね。また、鈍感な受け手というのも案外多いことがこの種の恥知らずが横行する一助になっているとも思いますが。
「思考は実現する」っていうのはスピリチュアル界でももはや根幹をなすコンセプトになっていると思いますが、引き寄せ厨とかポジティブ狂の人の脇が甘いなと思うのはこういうところですね。望むと望まざるとに関わらず思考は実現してしまうっていうことです。みんなこのことに対して無自覚というかお気楽なんだよなぁ。その思考、実現しちゃってますよ。
自分探しの旅 盆ボワイヤージュ
会社近くの珈琲館の中年女性店員はいつもあくせく働いている。混んでいても空いていても彼女の一挙手一投足は常に「あくせく」という印象を与える。前のめりで歩き、素早くテーブルを片付け、注文を取り、配膳する。しかし、その所作は間違っても「てきぱき」とは形容できないのだ。おそらくは動作の無駄、ときにその場に相応しくない過剰なスピードがどうしてもその所作から「あくせく」という副詞を想像させるのだろう。
スポーツや武道をかじったことのある人ならわかると思うが、素早い動作の集積が必ずしもスピードに繋がるとは限らない。リラックスしたたゆたうような動きで素人の半分の時間で正しい場所に移動し敵を打つ、あるいは球を打つ。その動作の与える印象は大抵の場合、美しさや優雅さであり決して速度ではない。そうした実例を何度も目撃している者として、この「あくせく」の印象を与える動作は最も避けるべき部類の動作だと直観する。
彼女に今すぐ実行できるアドバイスとして伝えたいのが、速さを意識せずにひとつひとつの動作を丁寧に行ってみてはどうかということだ。丁寧さや優雅さのもたらす印象は必ず彼女の仕事ぶりを一変させることになると思う。
喫茶店でコーヒーをお代わりしながらブログ執筆に休日出勤の朝を費やすおじさんの一席でした。
スポーツや武道をかじったことのある人ならわかると思うが、素早い動作の集積が必ずしもスピードに繋がるとは限らない。リラックスしたたゆたうような動きで素人の半分の時間で正しい場所に移動し敵を打つ、あるいは球を打つ。その動作の与える印象は大抵の場合、美しさや優雅さであり決して速度ではない。そうした実例を何度も目撃している者として、この「あくせく」の印象を与える動作は最も避けるべき部類の動作だと直観する。
彼女に今すぐ実行できるアドバイスとして伝えたいのが、速さを意識せずにひとつひとつの動作を丁寧に行ってみてはどうかということだ。丁寧さや優雅さのもたらす印象は必ず彼女の仕事ぶりを一変させることになると思う。
喫茶店でコーヒーをお代わりしながらブログ執筆に休日出勤の朝を費やすおじさんの一席でした。
2012年8月9日木曜日
ノーラン=作務衣の店員
「ダークナイト・ライジング」クリストファー・ノーラン
最初に断っておきますが、僕は人並みにはこの映画を楽しみにしてたし、実際に楽しんだし、この夏何がお勧め?って聞かれたらこの映画を勧めるかもしれない程度には評価もしてます。その上で以下の感想。
常々「ノーラン演出の不穏さは化調(化学調味料)的」と言ってきたんだけど、これって完璧なギミックで、「過剰なシリアスさ=魚介系の出汁」+「人工的な造形物を広角レンズであおり=炙りチャーシュー」+「過剰なベース音=魔法の白い粉」を調合するといわゆる「ノーラン的な画=流行りのラーメン屋」になると思うんですよ。まあこれを手法として確立したってのはすごいのかもしれないけど、僕はフィクションでも現実でもユーモアが介在し得ないようなシチュエーションにあまり魅力を感じないんですよね。ユーモアの闖入によって脆くも崩れ去るような「シリアスという名の虚構」に鼻白むわけです。もっと言えば茶化したくなる。
「ライジング」というかノーランてそういうシリアス系の典型みたいな人で、「ダークナイト」でもジョーカーがサンデル教授的な命題を押しつけてきて「人はいかに善たり得るのか」みたいのを全力でウィズアウト・センス・オブ・ヒューモアでやっちゃうわけじゃないですか。そういうアティチュードに対してはどうしても少なからずツッコミ目線みたいのが芽生えてしまうわけです。冒頭の飛行機襲撃とかもね。そんなリスクの高い計画を全部計算ずくでやってるのかと。それだけの知性と行動力があるならもっとスマートにできるだろうと。まあそういうのは極力抑えて、ワクワクしながら見ますけどね。でもやっぱりノリノリにはなれないんだわな。野暮なこと言わずに楽しめや、っていうのは主張としてはよくわかるんだけど、それが成立するのは「ミッション・インポッシブル」や「崖っぷちの男」の「緩さ」があるからなわけですよ。ノーランにはその緩さがない。だから「ツッコミ」が「批判」として成立してしまう。これは観客ではなく映画のあり方の問題なわけです。
というわけで、ノーランはあまり得意ではないんだけどまあ楽しみにしてた分くらいは楽しめました。「ダークナイト」のときよりはノーランも成長してたと思うし、爆発とか処刑とかで人もいっぱい死んだしw。あの井戸の中の空間とかエピソードは好きでした。整体師=メンターが恐怖の処し方を教えてくれるのとかああいうのは好きです。あとは何と言ってもアン・ハサウェイですね。彼女は完璧でした。レズじゃなければw(すっかりハリウッド女優になってしまったマリオン・コティヤールは「ミッドナイト・イン・パリ」の方が芝居でもかわいさでも圧倒的に上いってました)
ネタバレになるのかもしれないけどラストのマイケル・ケイン、あそこはマイケル・ケインと男女の後ろ姿の切り返しで十分だったんじゃないですか? そういうところのセンスがないんですよ、ノーランは。
RESIGN=DESIGN
「戦火の馬」スティーブン・スピルバーグ
見てからちょっと時間がたっちゃったから鮮度が足りない。俺のエモーションの……。
ただ、この場違いなサラブレッドが農耕馬として働かされた経験が砲台を引くというおよそ似つかわしくない業務に抜擢されることで一命をとりとめたというエピソードは多くの絶滅収容所を生き延びた人々の証言を想起させる。ジョーイと名付けられた馬があの砲台に繋げられた太い首輪に疎んずることなく頭を通したシーンは「つまり世界とはそういうものなのだ」という積極的な宣言なのだ。それを「不条理」と呼んで諦念とともに受け入れることは誰にでもできるだろう。だがこの映画のスピルバーグは違う。条理を越えた因果律にすべてを明け渡し、手持ちの掛け金のすべてをそこ置いたのだ。おそらく本当は誰もがそうすることしかできない。違いはそれにどのように抗うのか、そのやり方だけだ。
ある一頭の馬に惚れ込んでしまうこと、岩と根っこだらけの荒れ地を開墾すること、そうした無条件の情熱(もちろんストーリーの中ではその成否によって物語の進行方向を大きく変えてしまうわけだが)だけが真実なのであって、一心不乱の努力が報われるといった安易な教育的指導とは根本的に趣を異にするものである。掛け値のない愛情も一心不乱の努力も報われないが、たまたま1頭のサラブレッドが鋤を引いて畑を耕したということだけが「原因」となるのだ。「結果」を生み出すために「原因」をつくるといった類の努力はこの世界では何の意味もなさない。だが「原因」は「結果」をもたらす。人はただそのルールに従うより他にないのだ。スピルバーグはそれに耐えろとも抗えとも言っていない。ただ世界はそうあるということをこの映画で描いている。僕は何よりもその勇敢さに心を打たれた。
観念的じゃない話もちょっと。第1次世界大戦と言えば塹壕なわけだが、この映画の塹壕描写は素晴らしい。ぬかるみに疲弊した兵士たちがよりかかり、倒れ込み、よじ登り、そして馬が疾走する。第1次世界大戦版「プライベート・ライアン」と言ってもさしつかえないだろう。野戦病院の混沌の中で、視力を失った主人公と馬との再会を端的な数ショットで見せる演出手腕にも感嘆せざるを得ない。
また、特に冒頭で、演出ミスと言ってもいいくらいのロケとセットの光線の違いがすごい気になったんだけど、「ジョーズ」の「追いかけっこしてる間に女がいつの間にかジーンズを脱いでいる描写」に通ずるような、ある種のリアリティーの尊重があるのだろうと納得させるだけの力強さがあった。
2番館ではあったが見逃さないで済んでよかった。スピルバーグ作品の中でも「宇宙戦争」に並んで重要な作品、ということは賞を獲ろうが獲るまいがすごい映画ってことだと思います。
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