2011年9月16日金曜日
群馬
そう、そのときに生まれたのがこの「だるま弁当!」ってギャグなんだ。もう手も足も出ませんっつってね。
2011年9月13日火曜日
業に従う
だらだらした週末でこれといって、神保町で成瀬とか下高井戸でルノワールとかピンポイントで見たいのはあったんだけど結局東京ポッド許可局を聞きながら寝てた。
「東京公園」 青山真治
吉祥寺のバウスシアター、レイトショーで。こういう映画を見に来る女の子は今も縞々とか着てるんだね。ミニシアター系の文化臭が年々ツラくなってくる。シネコンで手をべとべとにしてヨダレを垂らしながらキャラメルがけのポップコーン食ってるカップルとかに囲まれてた方が気が楽っていうか。実際はどっちもクソなんだが、深刻さを帯びた文化臭よりも軽薄で甘ったるいキャラメルの臭いの方がまだ開放感がある。目つぶってても臭いって逃れられないからツラい。
おそらく作品がそうした文化臭からどんなに遠ざかっても、そうした文脈で主にそうした人々にのみ消費されるというあまり幸福とは言えないような作家の一人として青山真治は映画を撮り続けているのかもしれない。
死んだ親友の幽霊はいささか過剰な実在性を帯びているかに見えるが、それはとりもなおさず幽霊を目撃する三浦春馬が、親友の恋人であった榮倉奈々との関係を、親友の「生前」と同様に保つために、つまり気を確かに持っているために自発的に創造した幻影なのだろう。こうした幽霊に代表されるようなアリバイ=エクスキューズがどんどん不要になっていくそんな映画だったと思う。犯人であったにしろなかったにしろアリバイは不要である。ただ、不要なアリバイ——世間体、既成概念、深謀遠慮——を手放すまでにいたる必要なプロセスをこの映画は描いた。
たぶん、この作家には珍しく複数のプロット=人間関係が同時に進み、それが主人公の大学生を軸に絡み合いながら螺旋状に上昇していく。オフビートとも「淡々」とも違う気負わない語り口が心地よい。いわゆる「芸能人」を使って、こういう気負わない話を撮れるところに、女優と結婚した人の業というか貫禄を感じた。もちろんいい意味で。
「ハウスメイド」 イム・サンス
予告編を見て、完全にエロ目的で見に行ったけどまあまあ面白かった。もっとどろどろした昼ドラ系の女の情念バトルかと予想してたけど、そこは意外にあっさりしてた。エロもほどほど。主人公のバツイチ女性が住み込みで勤める、いわゆる「上流階級」の描写が面白い。ワインをメイドがテイスティングするとか、戯画的かつ記号的で地に足着いてない感はあるんだけど、こんな描写すら今の日本にはなくなってしまった。(金持ちは描けてもハイソは描けない)
階級闘争が持てる者と持たざる者との争いなら、それは常に持たざる者から持てる者へと仕掛けられる戦いだということをまざまざと見せつけられる。それは金銭ではなくいわば階級闘争に関与しようとしない「無邪気さ」を持たない者から無邪気な者へと仕掛けられた戦いだ。「上流階級」に属する者が、そこに居続けるために放棄した無邪気さを手にしている者を目の前に戦いは必然的に繰り広げられる。一度手放された無邪気さは2度と獲得できない。それは事後にしかわからない。つまり無邪気さとは常に「私はかつて無邪気であった」と回顧することでしか認識できない美徳の1つなのだ。 吹き抜けのロビーに螺旋階段というムルナウ〜ヒッチコック的な映画装置への配慮も見受けられたが、成瀬なら最初の数十分で屋敷の構造を立体的に観客に把握させていただろうなと嘆息する。そういう配慮はまったくなかった。結構大事なところなのに。また、オリジナルの「下女」というタイトルを是非生かしてほしかった。「下女あるいは火病」とか。
「コクリコ坂から」 宮崎吾朗
パッションの欠如。時代背景、ストーリー、キャラクター、ディテール。あらゆる物が作者の情熱の対象ではないことが、皮肉にも父親の作品との対比によって明確に浮かび上がる。ハヤオってすげえんだ。
偶然にも?この3本に共通していたのが禁じられた男女の関係でした。くわばらくわばら。
2011年9月6日火曜日
この支配からの卒業
「ツリー・オブ・ライフ」 テレンス・マリック
生命の叙事詩的な壮大な側面を切り捨てて、単純に親子物と言いきってしまいたいという誘惑に駆られる。というのも、父ちゃん母ちゃんの物語として過不足なく描かれている上に、「生命の一大叙事詩」から末端組織としての「ある人間の親子」へのリンケージが希薄なのだ。かといってそれがうまくリンクしていたからどうだという話でもある。
僕は素直に「父ちゃん母ちゃんの物語」として悪くなかったと認めたい。音楽家としても技術者としても成功することができなかった父親の複雑な人物像は魅力的だし、その彼が望んでいた「成功」を、疑いつつも手に入れた長男が、深層心理と思しき砂漠や海の浅瀬で少年時代の自分や家族と見せる和解のシーンは感動的だ。
見よう見まねのギターで父のピアノとセッションし、水彩画では自由な色彩感覚を見せる弟に対する嫉妬の抑制された描写が長男の不器用さ輪郭のくっきりと浮かび上がらせている一連のシーンは素晴らしい。おそらく彼がその後数十年にわたりルサンチマンに生きざるを得なかったことを想像させる。そして不意に訪れた解放である。
この「物語」を因果関係で読み解こうとするとたちまち「難解」さが立ち現れるだろう。なぜ、おそらくはずっと父の影響下で成長した長男と父(生きているのかいないのかも示されていない)との和解が可能だったのか。その契機をこの映画はまったく描いていない。なぜなら理由など必要ないからだ。「和解」は少年時代に生じた「不和」に内包されるようにしてただあった。不和の中に播かれた小さな種が実を結んだのだ。
支配が前提であったような世界で解放は必ずしも僥倖とは言えない。それはリテラルに目眩のように彼の足下を揺らし高層建築を揺らす。彼は自分が解放を望んでいたことを忘れてしまっていたのだ。この解放が彼に何をもたらすのかはわからない。ただ、それが彼の世界を変えたことをただ祝福したい。