2011年1月3日月曜日

恵比寿ガーデンシネマ閉館記念2本立て

 1月いっぱいで閉館の決まっている恵比寿ガーデンシネマで2本立て。

「人生万歳!」ウッディ・アレン
 ”Whatever works”、つまり「役に立つものなら何でも」の原題通り、人生何でもありだよという映画。本物の知性は南部的な保守性を愚弄するよりも若い女の肢体を賞賛することに注力しようというウッディに諸手を挙げて賛成ですね。奥さんに逃げられて自殺歴のある偏屈者の元天才物理学者に完全に同調して見てた自分も、それでもありなんだよということで。

「クリスマス・ストーリー」アルノー・デプレシャン
 デプレシャンだから軽くは流せないのは分かってたけど、寝正月からの1発目にはきつい1本でした。

 僕が初詣をなぜ嫌いなのかというと、そこが単に欲望の渦巻く場所でしかないからです。それも「合法的に」いくばくかの金銭と引き換えに欲望を丸出しにしていいとされているからです。単にこの世の似姿を直視したくないのです。
 先月、2日に父方の祖母がなくなりました。最後の方はわけ分かってなかったそうですが、89歳なので天寿をまっとうしたと言えるでしょう。女のくせに(と言ってもフェミニストの反論は受けないで済むと思いますが)虚栄心の塊のような人で、3人の息子の母親でしたが、医者の息子が開業したとか、一流企業の部長になったとか、孫が早稲田に入ったとか、孫の嫁は議員さんの姪だとか、その子たちがよく自分のもとを尋ねてきてくれるとか、そういう「事実」を生き甲斐にしてました。そうした事実への執着心と引き換えに、その内実には驚くべき無関心をもって一切の言及を避けていました。実際その内実は、彼女の息子も家族もさして幸せでもなく、彼女を慕ってもいなかったからです。
 晩年の祖母と同居していた私の両親の隣家に暮らす父の弟(私の叔父。祖母の寵愛を受けていた)とその妻は、介護が必要になった祖母に労力を割くことを露骨に避け、一切の協力を拒否しその重責を私の両親に巧みに押し付けていました。その一貫した姿勢には清々しさすら漂っていたほどです。その叔父夫婦が今は毎日義務のように祖母の仏壇に手を合わせにくるという話を聞いて苦笑を禁じ得ませんでした。そこまでの愚鈍さが許されていいのだろうかと。
 カトリック的な贖罪意識と言えば聞こえはいいかもしれませんが、もっと平たく言えば「祟られたくない」という原初的な不安でしょうか。ささやかな後ろめたさや背徳感すら抱えて生きることはできないという弱さ、そしてその弱さを無自覚に露呈させてしまう土人的な恥知らずさはどこまでも侮蔑に値するでしょう。この伯父夫婦に日本の正月行事に通底する恥知らずさを感じたのだと思います。

 冥福を祈るという表現にどこかトートロジックな響きを覚えるのは、私が冥土には福しかないと知っているからだと思います。ともあれ、この世での役目を終えた祖母にお疲れさまでしたと言いたいです。

 以上をもちまして、デプレシャン「クリスマス・ストーリー」への感想とさせていただきます。

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