「トスカーナの贋作」アッバス・キアロスタミ
久々にスクリーンでキアロスタミを見たという気がする。虚実のあわいを進んでいくストーリーが映画というメディアそのものの虚構性を露呈させる、といえばいつものキアロスタミなんだけど。何というか今回はものすごく「演劇的」な要素を強く感じた。3つの言語、それぞれに2つの役割。ヒステリックな母親/妻を演じたジュリエット・ビノシュはこうした遊戯の相手としては相応しいスリリングさを持っているし、夫役を演じる小説家を演じたウィリアム・シメルもスリリングな大人の遊戯として夫婦ごっこを楽しむだけの知性を兼ね備えているように見える。だが、私たちは常に不安にさらされている。なぜなら、この2人がどれだけこの遊戯にノっているかが分からないからだ。というよりも、ノっていいないんじゃないかという不安。特にシメルが見せる倦怠感を帯びた嘆きの表情がその不安をかきたてるのだ。もっとちゃんと演じて私たち観客を安心させてください、といいたくなるような不安定感。だが、ノってはいないけど、決して降りない。1時間半の絶妙な綱渡り芸。眠いけど寝れなかった。トスカーナ郊外の小さな街並みが美しかった。
「アンチクライスト」ラース・フォン・トリアー
いくら何でもそれはベタすぎだろうってことと、いくら何でもそれはエグすぎだろうってことを両方やってくるのがトリアーの魅力なわけで、その振れ幅の大きさについて行ければ面白いし、どちらかにでもついて行けなければ見ない方が良かったということになってしまうんだろう。シャルロット・ゲンズブールもウィレム・デフォーもメチャクチャいい(2人とも顔がいい)んだけどね、後半のエデンのロケとか想像しただけでもつらい。中身というかテーマについて深刻に吟味するような映画なんだとしたら、そこまではついて行けないけど(シャルロット自身が以前から女性性のうちにサタンを見出していたのであって、彼女の息子を殺したのは他ならぬサタンである的な)、狐の穴のカラスとか幻聴が聞こえるところの床を割ったら何かが出てくるみたいなのは好きだな。鈍器にしても刃物にしても、そこら辺に置いてあるものがこんなに怖い映画ってないよね。暴力描写だけは観念的、抽象的レベルに昇華されないのだ。余談だけど、こういう映画にボカシとか入ってるの見るたびに日本ダセエって思ってしまう。
それはそうと「息もできない」の梁益準(ヤン・イクチュン)監督に宇多丸師匠がインタビューしてて、それが結構面白かった。ポッドキャストで聞ける。人を殺そうと思ったときにたまたま手に取ったのがハンマーだったみたいな感じで、何かを表現しようと思ったときにたまたまそこにあったのが映画だったというような話。映画原理主義者は彼みたいな人を敵視したり嫉妬したりするだろうけど、映画の振れ幅を広げてくれているのはこういうタイプの人なんだよな。北野武も最初はそうだった。別にハンマーに愛着がなくたっていいじゃないか。でもまあ実際問題そうやってしらばっくれてられるのは1作目だけなんだな。じきに被抑圧装置が作動してしまうのだ。「君はハンマーについて何も分かっていない」「ぐぬぬ」ってねw
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