「エッセンシャル・キリング」 イェジー・スコリモフスキ
「追う者と追われる者」というもっと抽象度の高い映画かと思ったら、「米軍」と「アラブ系のテロリスト」という設定ははっきりと描かれていた。あえてヴィンセント・ギャロという米国人をアラブ人役に配したことには、観念的な異化作用以外はなかったと思う。それよりも、ギャロの歩き方、走り方、倒れ込み方の一挙手一投足が欧米風のそれであることの違和感が通奏低音のように流れ続けていたことが気になった。具体的にどこがどうとは言えないがギャロの身のこなしはアラブ人っぽくない。アラブ人っぽく振る舞おうともしてない。ギャロが悪いわけではないが、スパイという設定の役者の話す外国語がたどたどしいように、それがどちらかと言えば残念だった。
「逃げること」と同義であるような「殺すこと」。彼は避けられない殺人を繰り返しながら逃亡していく。崖から転落したバスに乗り合わせていたギャロは森の中に逃げ込むが、逃げついた先は事故の現場だった。ここでギャロはあっさり投降を試みている。しかし、運命としか言いようがないものの働きで彼は米兵を殺し脱走犯になってしまう。飢えと寒さの極限にあって、この脱走犯が見せたのは「生き残ること」への意志というよりも、「死なないこと」への意志という色合いが濃い。両者は実際には大部分をシェアするが、彼のモチベーションは「捕まらないこと」、「飢えないこと」であって、「復讐すること」や「満たされること」ではもはやない。
ギャロの逃亡が困窮を究めるほどに、具体的に示された「米軍」と「アラブ系テロリスト」という設定はどんどんその意味をうしなっていく。イデオロギーを剥奪されたいわば純粋な殺人を、この映画は否定も肯定もさせてくれない。ただ、そうあってしまうというだけだ。イデオロギーを剥奪された救済も(あの聾唖の女がどんなに反米思想の持ち主であったとしても)単なる人助けに過ぎない。イデオロギーを剥奪された死者はイデオロギーを剥奪されたアラーのもとに旅立つだろう。馬の背の空席として以外に、活動を停止した欧米的な身体がスクリーンに映し出されることはない。
「モールス」 マット・リーヴス
オープニングの空撮で「お!」と思ったが、そこで終わった。シナリオ、色彩設計、配役、CGにいたるまでオリジナルの「ぼくエリ」に比較的忠実に作られていたのだが、その魅力の多くを北欧的なイキフンに負っていた「ぼくエリ」の舞台をアメリカ中西部にしてしまったことで、そのエッセンスの大部分は台無しになっていた。
「ぼくエリ」で好きだったシーンがあって、それは後半でスケートの授業で主人公の少年がいじめっ子の頭を長い棒で殴るシーンなんだけど、誰の視点でもないカメラからロングで撮られているこのシーンの「距離感」がたまらなくよかったということを思い出した。暴力的なはずなんだけど、棒の軽そうな感じとか振りかぶって殴るまでのためのなさとか、他人事感というか無常性というか、復讐とか怒りとかのエモーションを一切排した画面がすごい北欧的で面白かった。それがハリウッドに行ってしまうとどうしても、棒が重そうで痛そうで、苛立ちや怒りがあって、それを見ている視線があって、血が出てってことになる。面白くない。「ハリウッドの考えるリアリティー」の限界なのかな。そもそもその種のリアリティーがどこまで必要なのか。
良かった点は保護者の若い頃の写真が出てくるところ。これで「継承」のテーマが少し浮き彫りになった。「自分がこのメガネ君の『次』なんだ」っていう。「パートナー」に依存するこのライフスタイルで何百年も生きてきて、またこの先何百年も生きていくんだろうなっていう「死なないことの怖ろしさ」がこの映画の謂いだと思うんだけど、そこのニーズはあんまりないのかな。この映画で切り取られた出来事はほんの一断片に過ぎないっていう俯瞰ができると、もっと深くなるしもっと怖くなると思う。
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