2011年4月4日月曜日

愚直に可視化された解脱

「somewhere」ソフィア・コッポラ

 日本人は娯楽に飢えているのだろうか。いつからコーエン兄弟の映画で立ち見が出るようになったのか。というわけで、武蔵野館「トゥルー・グリット」をパスして、2本立ての2本目で見るはずだった新ピカ「somewhere」へ。

 「ヒアアフター」が「津波で始まってブックフェアで終わる映画」だとしたら、「somewhere」は「サーキットで始まって一本道で終わる映画」と言うことができる。ここには意図的な明快さがある。はっきりとそこで何を描きたいかという意図がワンシーンワンシーンにある。やり過ぎってくらいそれははっきりしていて、さすがにちょっとどうなんだろうというシーンもたくさんある。だから僕にとってはソフィアは「シャレ乙なアート系映画のカリスマ」とはまったく反対の「フロイトのお弟子さん」みたいな人だ。あからさますぎるくらいの「直截的なメッセージ性をはらんだ画面」を「シャレ乙さ」を装うことで、照れと趣味の悪さを隠蔽しているのだ。だからソフィアの映画の楽しみ方は身を捩りながらその照れを共有することにほかならない。実は「バージン・スーサイズ」の最初っからそうなんだけどね。

 ここにきてソフィアのテーマはよりその輪郭をはっきりと浮かび上がらせてきた。「ロスト・イン・トランスレーション」も「マリー・アントワネット」もそうだったけど、有名俳優や王女様といったシルシ付きの人々のシルシ付きゆえの孤独を描いている。本作のメインテーマもそこにある。主人公のジョニーは空虚さのシステムの中心に据えられてしまった「ジョニー・マルコという人気俳優」を演じている自分にうんざりしながらも抜け出せないでいる。そこで要求されている役割を承知し尽くしていて、またどの程度の逸脱が可能かも知り尽くしている。もちろんこのまま求められるイメージをなぞっていくことはできるだろう。だが、それが何になる?空虚さのサーキットから抜け出すためには、どうすればよい。妻は去り、娘もいずれは去っていくだろう。
 荒野の1本道でフェラーリを乗り捨てた男が歩く先に何があっても別に構わない。空虚さのサーキットから抜け出すことが目的だったのだから。また元のサーキット、あるいは別のサーキットに戻ることも容易な選択肢の1つとして残されてはいるが、彼はきっと戻らないだろう。解脱者は輪廻の輪に戻らないというのがルールなのだから。

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