2012年2月14日火曜日

運動から遠く離れて

「メランコリア」の予告編でキルステン・ダンストの指先から青いオーラみたいのが出てるの見ただけで泣いちゃうアラフォー男子がお届けする映画3本分の何か。

「パーフェクト・センス」デビッド・マッケンジー
ユアン・マクレガーとエヴァ・グリーンなんだからそりゃ見に行くでしょ。ロンドンを舞台に、五感が徐々に奪われていくという奇病に世界中の人々が冒されていく様を描いたSFラブストーリー。深い悲しみと嗅覚の喪失、暴力的な飢餓感と味覚の喪失、激しい怒りと聴覚の喪失、多幸感と視覚の喪失。五感の喪失の前兆として描かれる病的な感情や欲求の描写が面白い。2人は多数の先行事例を前に、常に「自分の番」を待っている。そんな中で、感覚を喪失しながらも生きることにどれだけ前向きでいられるかという挑戦を描くことに主眼をおいているため、サスペンス、SF要素はやや希薄だ。(その辺でもっと面白くなるのにという不満もあるが)

「感覚を失っても愛し合うことは可能か」というのがこの映画の問いかけだ。嗅覚、聴覚、味覚を失い、さらに視覚を失う瞬間、最後に目にしたものが愛する人であれば、そこに行って触れることができる。だが触覚さえも失ってしまったらどうだろう。映画はその先を描いていない。しかし、誰もが想像してみることだろう。五感を失ってなお、人は決して無ではない世界とどのように対峙することができるのか。その恐怖、あるいは喜びをこの映画は描いていない。いや、映画には描けないのだ。それを想起させただけでもこの映画には意味があった。


「帽子箱を持った少女」ボリス・バルネット
運動そのものの持つ魅力を最大限に表現できた映画のひとつなんじゃないだろうか。冒頭で、駅と少女の家を結ぶ、あの雪の丘陵に渡された木の歩動を滑り落ちるようにして走ってくる鉄道員をロングショットで収めた絵がなぜあれほど感動的なのか。それが紛れもない映画だからだというトートロジックな説明しかできない。何でもそうだと思うけど、本当に素晴らしいものって言い換えが不可能なものだよね。


「ドラゴン・タトゥーの女」デビッド・フィンチャー(ネタバレっぽいこと書きます)
フィンチャーだからね、構図とかカットのつなぎとかそういうモノが一切のストレスなく見れるので、複雑なプロットを説明的にならずに、シャレ乙にw演出できる強さがありましたね。ディテールもよくできてて、あのヘーデスタの洋館と離れの仮住まいとか、あの一帯の雰囲気がめちゃくちゃいいですね。ストックホルム、ヘーデスタ、ロンドンっていう3つの都市(どこも寒そうだが)がちゃんと絵として描き分けられているのもよかった。でも、何よりも心打たれたのは変態サイコパスの台詞でした。

「なぜ危機を察知したのにお前は逃げなかった? 俺の機嫌を損ねるのが怖かったからだろう」

これには本当にズシーンと来ましたね。常に誰かの機嫌を気にしながら生きている僕のような小さな人間にはこれ以上ないくらいの衝撃だったんじゃないでしょうか。これには「他人の機嫌を損ねても大したことはない」という経験を繰り返し積み重ねるしかないんですね。僕も若い頃に比べれば随分気にしなくなった方です。僕が誰かの機嫌をとらなかったり、あるいは意図的に害することでことで気分を悪くしたり、傷ついたりしている人はいるかもしれない。でもその人たちも「僕と同じように大丈夫」だろうと思えるようになったんですね。信頼と言えば聞こえはいいですが、まあそういう事です。

映画と一見関係ない話になっちゃいましたが、リスベットというニュータイプのヒロインが受け入れられるのも、他人の機嫌を気にしてばっかりの人が多いからだという気がしますね。

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