「ウルフ・オブ・ウォールストリート」マーチン・スコセッシ
なぜジョーダンという男はそこまで金に執着したのか?エクスキューズのようなことを大声でいうことはあっても、彼の内面が掘り下げられることは一切ない。おおよそ内面といったものを欠いたこの主人公のように、マネーとドラッグとセックスという表層におおわれた内面を欠いた狂騒的な映画だった。狂騒をどんなに衝撃的に執念深く描写したところで、それは内面へといたる道ではない。
ブロンド妻を口説くシーンでは、素面でドギマギしているところに女の方から素っ裸で現れてくれるし、FBI捜査官とのおおよそ心理戦といった高等戦術からはほど遠い恫喝と買収の試みは「俺は金持ちだけど、お前は貧乏だ」という極めてシンプルな二項対立の概念を露わにするに終わる。感情的になることはあっても、内面へのアプローチは周到に避けられ、ビジネスの拡大と乱痴気騒ぎだけが描かれる。両親は協力者ですらある。
ジョーダンのオブセッションやデプレッションにはまったくフォーカスされないまま、それらの処方箋としてのドラッグとセックスとマネーにただただ溺れる様は痛快さからもむなしさからも遠い。それはフィジカルな経年変化だけを重ねて、成熟を感じさせない俳優レオナルド・ディカプリオに酷似している。そういう意味ではハマり役だったと言えなくもないのかもしれない。
「わたしはロランス」グザヴィエ・ドラン
去年見逃していた1本。友人夫妻と下高井戸シネマに見に行った。
都下にあって(23区内ではあるけど)ゴダールやロメールやエリセなどの特集上映をかけてくれていたので、かつては通い詰めていたこの映画館だが、20年近く前と変わらずヨーロッパ系に強い「ふるきよきミニシアター的」なセレクションで今もそこそこ入っているようで安心した。今回も「ロランス」に合わせてドランの関連作をかけるなどの配慮はさすがだと思う。見ればよかった。
男性のミッドライフクライシスを描いた3時間近い長尺という点で上記の「ウルフ・オブ~」と重なる点があるが、内容的には対照的な1本だ。ジョーダン・ベルモットが外へ外へと向かって行ったのに対して、ロランス・アリアは内へ内へと答えを求めて行く。
冒頭、ストリートを練り歩くカメラに向かって執拗に視線を送り続ける男女のショット。観客はやがてそれがトランスジェンダーの主人公に向けられた好奇の目であることに気づく。これから見せる物語を端的に示唆するスマートなオープニングだ。
もともとストレート同士の恋人であったロランスとフレッドは、ロランスの内なる女性の顕在化によって、その関係の均衡を崩す。当然2人につきつけられることになる「それでも愛は可能か」という問いに、2人は意地になっているかのように決してノンと言わない。カツラのおばさんのウェイトレスの下世話な質問に怒りをぶちまけたフレッドがマイノリティーを代表する正義の代弁者に見えないのは、2人の苦悩があまりに特別だからだろうか。いや、彼女の挑戦があまりにも無謀に見えたからだ。そのような「愛」は不可能なのではないか?私はそう思いながらロランスがトランスして以降の2人を眺めていた。
それを愛と呼ぶにはあまりに濃密な関係というものは、男女間に限らずしばしば生じてしまう。そのような結びつきは、彼らの他人との関係においても常に支配的である。ときにそれは忘れ去られたかに見えるが、自分がその関係の支配下にいることを思い出すには短い一通の手紙で十分なのだ。この映画でとりわけ感動的なシーンが2つあった。ひとつはフレッドがピンク色に塗られたレンガに触れるシーン、もうひとつはナタリー・バイがテレビジョンを持ち上げて床に投げつけるシーンだ。前者は愛によって結びついた2者の関係の絶対性が再確認されるシーン、後者は恐怖によって結びついた2者の関係の脆弱性が露呈するシーンだ。
そして、最後の台詞(最初の台詞でもある)がタイトルクレジットになるというエンディング。"Laurence Anyways"の2語で示された「外見が(内面も?)どうであれ、わたしはロランスなのだ」という含意にも、3時間近く彼らに付き合った観客を唸らせるものがある。音楽も素晴らしかった。
なぜジョーダンという男はそこまで金に執着したのか?エクスキューズのようなことを大声でいうことはあっても、彼の内面が掘り下げられることは一切ない。おおよそ内面といったものを欠いたこの主人公のように、マネーとドラッグとセックスという表層におおわれた内面を欠いた狂騒的な映画だった。狂騒をどんなに衝撃的に執念深く描写したところで、それは内面へといたる道ではない。
ブロンド妻を口説くシーンでは、素面でドギマギしているところに女の方から素っ裸で現れてくれるし、FBI捜査官とのおおよそ心理戦といった高等戦術からはほど遠い恫喝と買収の試みは「俺は金持ちだけど、お前は貧乏だ」という極めてシンプルな二項対立の概念を露わにするに終わる。感情的になることはあっても、内面へのアプローチは周到に避けられ、ビジネスの拡大と乱痴気騒ぎだけが描かれる。両親は協力者ですらある。
ジョーダンのオブセッションやデプレッションにはまったくフォーカスされないまま、それらの処方箋としてのドラッグとセックスとマネーにただただ溺れる様は痛快さからもむなしさからも遠い。それはフィジカルな経年変化だけを重ねて、成熟を感じさせない俳優レオナルド・ディカプリオに酷似している。そういう意味ではハマり役だったと言えなくもないのかもしれない。
「わたしはロランス」グザヴィエ・ドラン
去年見逃していた1本。友人夫妻と下高井戸シネマに見に行った。
都下にあって(23区内ではあるけど)ゴダールやロメールやエリセなどの特集上映をかけてくれていたので、かつては通い詰めていたこの映画館だが、20年近く前と変わらずヨーロッパ系に強い「ふるきよきミニシアター的」なセレクションで今もそこそこ入っているようで安心した。今回も「ロランス」に合わせてドランの関連作をかけるなどの配慮はさすがだと思う。見ればよかった。
男性のミッドライフクライシスを描いた3時間近い長尺という点で上記の「ウルフ・オブ~」と重なる点があるが、内容的には対照的な1本だ。ジョーダン・ベルモットが外へ外へと向かって行ったのに対して、ロランス・アリアは内へ内へと答えを求めて行く。
冒頭、ストリートを練り歩くカメラに向かって執拗に視線を送り続ける男女のショット。観客はやがてそれがトランスジェンダーの主人公に向けられた好奇の目であることに気づく。これから見せる物語を端的に示唆するスマートなオープニングだ。
もともとストレート同士の恋人であったロランスとフレッドは、ロランスの内なる女性の顕在化によって、その関係の均衡を崩す。当然2人につきつけられることになる「それでも愛は可能か」という問いに、2人は意地になっているかのように決してノンと言わない。カツラのおばさんのウェイトレスの下世話な質問に怒りをぶちまけたフレッドがマイノリティーを代表する正義の代弁者に見えないのは、2人の苦悩があまりに特別だからだろうか。いや、彼女の挑戦があまりにも無謀に見えたからだ。そのような「愛」は不可能なのではないか?私はそう思いながらロランスがトランスして以降の2人を眺めていた。
それを愛と呼ぶにはあまりに濃密な関係というものは、男女間に限らずしばしば生じてしまう。そのような結びつきは、彼らの他人との関係においても常に支配的である。ときにそれは忘れ去られたかに見えるが、自分がその関係の支配下にいることを思い出すには短い一通の手紙で十分なのだ。この映画でとりわけ感動的なシーンが2つあった。ひとつはフレッドがピンク色に塗られたレンガに触れるシーン、もうひとつはナタリー・バイがテレビジョンを持ち上げて床に投げつけるシーンだ。前者は愛によって結びついた2者の関係の絶対性が再確認されるシーン、後者は恐怖によって結びついた2者の関係の脆弱性が露呈するシーンだ。
そして、最後の台詞(最初の台詞でもある)がタイトルクレジットになるというエンディング。"Laurence Anyways"の2語で示された「外見が(内面も?)どうであれ、わたしはロランスなのだ」という含意にも、3時間近く彼らに付き合った観客を唸らせるものがある。音楽も素晴らしかった。
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