イーストウッドという人はこれまでも様々な形でアメリカという国の病理を告発してきた。ときに冗談めかし(「ブロンコ・ビリー」「スペース・カウボーイ」)、ときに深刻な面持ちで(「ミスティック・リバー」「グラン・トリノ」)。そしてついに、事ここに至って彼はついにアメリカという国を「総括」してしまった。「ヒアアフター」の日本公開から2週間後にあの地震が起きたことを考えれば、この公開時期は恐ろしいほど時宜に適っているというほかない。
民主主義国家の一政府機関の首長が専制国家の君主のように48年もの任期を務めた(ムバラクよりもカダフィよりも金日成よりも長い!)というだけでもその事態の異常さが透けて見えるだろう。この映画はFBI長官のJ.E.フーバーがその人生の終幕にさしかかり、おのが虚飾に満ちた人生の最後の包装紙としての「自伝」を綴るという形で描かれる。
母に英国女王たるジュディ・デンチ、そしてその息子に移民の子レオナルド・ディカプリオを配役することで、イーストウッドがフーバーその人にアメリカを体現させていることは言うまでもないだろう。
いわゆるオカマが女性よりも女性らしいと言われるように、演じられた者は常に過剰さを身にまとう。フーバーがその母によって演じることを強いられた「強い男」の過剰さ(らしさ)は虚勢、排他性、攻撃性、性倒錯としてドラマチックに表現され続けた。そして、その過剰さにイーストウッドはアメリカの似姿を見出したのだ。「我々はかくも狂気に満ちていた」と。
母と妻(ジュディ・デンチ、ナオミ・ワッツともに英国人)という二人の女性によって拒絶され去勢されつつ、なおもマチスムを強要されるというアンビバレンツを生きなければならなかったという不幸こそがアメリカだった。「繊細な野暮ったさ」を身にまとったフーバーを陰とすれば、アメリカの陽の部分をいかにも西海岸的な「野蛮な洗練」を身にまとったアーミー・ハマーが演じているという点も興味深い。
「アメリカ映画」においてこれだけの辛辣さが許されるのは、アメリカ人の鈍感さの上に胡坐をかいているというだけではなく、この映画が大上段に国家や政治を語ることを周到に避けていたからだと思う。あくまでジョン・エドガー・フーバーその人のテリトリーからこの映画は一歩も外に出なかった。キューバ危機はおろか、第二次大戦すらまったく触れられることなく半世紀を生きたアメリカの政府機関の長の人生を語るという離れ業をこの映画は素知らぬ顔でやってのけた。だがそれはこの映画の倫理である以上に、フーバー=アメリカの相似形をより際だたせるための手法として見事に機能した。
加えて、この映画のあからさまに失敗している特殊メイクと照明は、フーバーという男がまとってしまった「不自然さ」を強調するという役目を図らずも担うことで、この映画の完成度を高めることに貢献していたともいえる。
ともあれ、イーストウッドがこんな映画を撮ってしまった以上、もうアメリカは終わるしかない。
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