大学生の頃、中野の公園でフリスビーのフォアハンドスローを成城大学アルティメット部の部員に習ったことを思い出した。2人でキャッチボールならぬキャッチディスクをしていたところに、そのフォームがあまりに美しく、そして不可解だったので思わず教えを乞うたのだ。
右足前のスタンスで、ひざの高さでバックスイングをとって、右足加重のまま投げるというのだ。当時の私は、そうした動きが「フォーム」として理論化、言語化されていたことにまず驚いた。実際にやってもらうとわかると思うが、日常生活の中ではまったく似たような動きがなくひどく不自然に感じられた(今思えばナンバの動きやカットマンのフォアカットに近い。現代日本人の生活になじみがないだけということなのかもしれない)。特にディスクを前に投げ出す推進力が得にくいのだ。素振りを真似するだけでもギクシャクしてしまって、何度もおかしなところを指摘された。勘所の悪い私にアルティメット部員の1人はまずは理屈で納得させようと「重心を下げる力を回転運動に変える」という言葉で説明してくれたのだが、余計混乱したことを覚えている。垂直方向のエネルギーが何で水平方向のエネルギーに変わるんだよと。
しかし、教えを忠実に守りその後も素振りや投擲を含む練習を一人のときも続けたところでひと月くらいでその動きが不自然ではないと感じられるまでになった。「重心を下げる力を回転運動に変える」というやり方も実感としてわかるようになった。そしてわかったことは、畢竟「フォーム」とはすべて文化的なコードに縛られている「不自然な」動きだということだ。人は訓練によって「不自然な」動きを体得するのだと。今読んでいる内田樹と成瀬雅春の対談本に同じようなことが書いてあってふとそんなことを思いだした。
形(かた)を真似ることで本質が宿るという理屈も、形は結果に過ぎないのだから真似ても本質には到達できないという論も、どちらも本当だと思う。原理主義者としてはなんとしても本質(原因)を探り当ててそこから必然的にたどり着く結果に向けて出発したいという強い願望があるのだが、効率や明快さを求めることで失われる有形無形の情報やエネルギーも少なくないという自戒もある。結局は夢中であれこれやっているうちに気がついたらできていた、そこにたどり着いていたというのが一番の近道なんだと思う。効率的にゴールにたどり着くためのメソドロジーを確立することに躍起になるよりは、素直に「始めてみる」「やってみる」ことの方が何百倍も「効率的」なのだ。
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