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この2度にわたるブログエントリーで樹先生は、ロラン・バルトの「零度のエクリチュール」について『「言語運用は階層社会を再生産するためのもっとも効率的な装置である」という知見そのものが階層上位にのみ限定的にアナウンスされ、階層社会で下位に位置づけられている人々は、そのような鳥瞰的な視座から言語について考察する機会から事実上隔離されているのである。』とそのエクリチュールの構造的な矛盾を指摘し、『バルトの言語についての知見は、できるだけ多くの読者にリーダブルなかたちで示されるべきものであった。』と結論づけている。
激しく同意である。だからこそ樹先生の共同体の在り方についての知見もできるだけ多くの読者にもっとリーダブルなかたちで示されていいと思う。はっきり言って樹先生が採用しているエクリチュールは多くの市民には届かない。まだまだ「高踏的」過ぎる。もっと意地悪に書けば、高踏的なエクリチュールによって「大学教授」たり得ている部分がある。
大学という職場や樹先生の著書を自分からすすんで手に取る読者との間では、高度に知的なエクリチュールによってコミュニケーションが成立しうる。また、そのような高度に知的なエクリチュールでしかコミュニケーションが成立し得ない場所として大学があると言ってもいいのかもしれない。樹先生がどれだけ市井のリテラシーを過大評価しているのかわからないが、今の書きっぷりでは社会の垂直的な流動性が促されることはない。むしろ、バルトやブルデューがそうであったように、その意図に反して、高度なエクリチュールによって階層の固定化に拍車をかけてしまう。また、共同体の成員には必ず「アホ」もいて、彼らだけを相手にしないということはその共同体か小さくなればなるほど避けられないことになっていくはずだ。
樹先生がバルトやブルデューに望んだように、私も、内田樹のようなすぐれた知性のみが生み出しうる卓見をできるだけ多くの人々が「リーダブルなかたち」で享受できることを望む。
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