2012年6月6日水曜日

サニーサイドの生還者

「サニー 永遠の仲間たち」カン・ヒョンチョル
韓国のOBAさんたちがはしゃいでる予告編を見たときは「これはないな」と思ってスルーするつもりだったんだけど、ツイッターのTLで信用できる人たちがやにわに騒ぎ出したので、会社を早引けして慌てて駆けつけました。そうです、私はこういう「口コミで広がる情報の終着駅にいるおじさん」です(笑)

「韓国映画」を語れるほど本数は見てない、というかお墨付きをもらった数本のものしか見てないけど、今の韓国は間違いなく傑作と呼べる作品を相当数つくってるんじゃないだろうか。00年代頭の「子猫をお願い」くらいから始まって最近では「哀しき獣」まで、これらの映画には、やかましくて、直情的で、乱暴で、大袈裟で、恨みがましくて、お節介な「僕のよく知っている韓国」がきちんと映りつつも、優しくて、内気で、忍耐強くて、礼儀正しくて、大らかな「僕のよく知らなかった韓国」が映し出されている。そのどちらをも今や「韓国っぽい」って感じるんだけど、結局のところ「韓国っぽさ」っていうのは人間っぽさの謂いだと言ってもいいんじゃないだろうか。

つまり、韓国映画には振れ幅の大きな、あけっぴろげな民族性をありのままに描き出すことでむき出しの「ヒューマン」を描きやすいっていう特長があるんだと思う。これは「映画」にとってはこの上ない僥倖で、なかなか今の日本で同じことやろうと思っても難しくて、正直ちょっとずるいとすら思うんだけど、逆によくできた韓国映画は積極的にこのずるさを活かしているという側面もある。

この「サニー」もそういう「ずるい」映画の一本で、「面白いデブ」とか「アネゴ肌」とか「クールビューティー」とか、そういう戯画的なキャラが特に「過去」を描いた場面ではすごい生々しく見える。一方で、かつてのが戯画的なキャラの角が取れてのっぺりと平板化してしまった時代としての「現在」があって、不意に甦った過剰な過去が平板化した現在を大きく揺り動かす原動力になっているっていう物語の構造はシンプルだけどとても力強い。

この映画が恐ろしく涙腺を刺激するのは、ひとつには「過剰な過去が平板化してしまった」=「かつてそうであったものが今はそうではなくなっている」という当たり前のことを描いている(第一波)からなのだが、そのような変化を諦念とともに受け入れるだけではなく、「平板化した現在が過剰さを取り戻す」=「今もなおそうであってもいい」という事実を彼女らが受け入れていく様(第二波)を見せてくれたからなんだと思う。母や妻や嫁を演じることが「生」と同義語になってしまった彼女らが、何者をも演じずに生きていたリアルな生を取り戻すプロセスがまた感動的なのだ。

お客さんが多かったので努めて理性的に分析的に鑑賞しましたが、ほぼ全編にわたって容赦のない「ウル」トラップが仕掛けられているので、泣こうと思えばいくらでも泣けますね。泣くためだけにもう一回行きたいくらい。語りたくてしかたがないディテールについては、この映画を観たおじさんやおばさんらとオフラインで語らうとしよう。それもこの映画の大きな楽しみのひとつだからね。

僕の中では「モテキ」のように「今、スクリーンで観るべき映画」の筆頭に挙げられる1本ですね。あと、「SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」もお忘れなく。最近すごい面白い映画しか観てない気がして怖い。

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