「ライク・サムワン・イン・ラブ」アッバス・キアロスタミ
また、得も言われぬ映画を撮ってくれましたね、ミスター・キアロスタミ。
これまでいくつかの作品で虚と実の境界線上を綱渡りのようにして渡って見せてきたキアロスタミでしたが、今回はフィクションを俯瞰させる「メタ」な視点を劇中に導入することなしに、飽くまで劇中で完結させながらも、スクリーンに風穴を開けるような(リテラルにラストシーンを想起されることでしょう)とんでもない映画になっていたと思います。
そこで描かれているフィクションももちろん面白いんだけど、最終的にこの映画の面白さに寄与したのはプロットや演出や照明・カメラワークや録音(どれもものすごい高いレベルで達成されていたのだが)ではなく、「私(観客)は何を面白いと思ってしまったのか」というメタに連れて行ってくれるこの映画の構造なんじゃないかと思うんです。
これってまさに僕が「トスカーナの贋作」のときに本当はやってもらいたかったことだったんです。「トスカーナ」では旅先で偶然出会った男女が「夫婦のふりをする」というカギ括弧つきの「虚構性」によって観客をフィクションの世界に没入させないという意地悪なことをしていたと思うんですが、僕は意外性も感じなかったし、正直あまり面白いと思わなかったんですね。おそらく似たような理由でヘルマンの「果てなき路」もそれほど面白くはありませんでした。
で、今回この映画を見て「あ、これだ。これが見たかったんだ」と得心したわけです。劇中で奥野匡と高梨臨が期せずして「おじいちゃんと孫」を演じなければならない場面がありますが、これは「トスカーナ」のように登場人物の内面を通して観客に揺さぶりをかけるような嘘ではないわけです。奥野匡にとっては単なる方便ですし、高梨臨にとってはバレたら困る不安の種程度のものであって飽くまで劇中で処理されうる問題にすぎません。つまり、嘘はサスペンスとしては機能していても、観客にフィクションの傍観者として以上の視点を提供することはないわけです。
それなのに、それなのにです。おそらくこの映画を見終わった多くの観客は自分が単なる1本の劇映画を見たということには納得がいかなかった。確かに役者たちの演技は素晴らしかった。高梨臨がベッドに入る寝室での照明も素晴らしかった。柔らかい音で鳴るエラ・フィッツジェラルド、ボルボのフロントグラスに映る高速道路、狂気を感じさせる隣人。そうした忘れがたい細部の総和と私たちが最終的にこの映画から受け取った物が量的にも質的にもあまりにも違いすぎるということに戸惑わずにはいられなかったのです。
ここではこれ以上の詮索はやめておきますが、この作品が映画の可能性をまたひとつ押し広げてくれたということだけは間違いないと思っています。必見です。
0 件のコメント:
コメントを投稿