2012年3月15日木曜日

朝ログ

何か最近特に観念的に映画を見ることを積極的に自分に許している節があります。蓮實先生からの卒業と考えると、ちょうど小学校入学から大学卒業くらいまでですか。長かったですね。

というのも観念的に撮られた映画というのも普通にあると思うんですね。というかシネフィルじゃなくても映画は撮れるんだから。何も映画表現の固有性からのみ出発する必要はない。既成の文法にとらわれずに、撮りたい人が好きに撮ればいい。映画の愛し方っていうのは一通りではない。というか、愛してなくたって別にいいじゃん、と。俺とは愛し方が違うとか言ってわざわざ分離を生むようなことをするのはそもそも愛ではないんじゃないの、と。

この愛ではない一方通行の契約のようなものをより正確には執着と呼ぶわけですが、大抵の場合執着されてる相手っていうのは迷惑してますよね。映画も相当迷惑してるんだろうなぁとw

映画のようなメディアの場合、何かを「感じる」ということはすでに交感が成立していると思うんです。それってもう十分に愛っていう関係じゃないですか。まずはこの愛を享受すること。そこから出発すればまず間違いはないんじゃないかと思います。

ちなみにこの愛を受け損ねた人の愛の告白こそがヘイトであり呪いであるのだと思います。

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