2012年4月13日金曜日

人はなぜテレパシーを捨てたのか?

今よりも霊性が高い文明に人類が生きていた時代、彼らはテレパシーでコミュニケーションをとっていた、なんていう話はとても興味深くはあるのだけど、腑に落ちない点がある。それは、言葉を使う必要がなかったんなら、何でテレパシーが言葉にとって替わってしまったのか、という素朴な疑問だ。だが、今の言葉によるコミュニケーションのあり方を見ていると何となく、テレパシー衰退の原因がわかるような気がする。

というのも、現代人は言葉を使ってよりよく(より濃密に、より効率的に、明確な意図を持って)コミュニケーションしようとしているようには見えないからだ。多くの発話者は伝える内容の充実もそれを伝えるツール(言葉)の洗練にもまるで興味がないように見える。ただ、言質の獲得と自己愛の表出にしか使われない言葉は本当にもったいないし、かわいそうだ。そう考えると、テレパシーにも今の言葉のような衰退の過程があったということはわりと容易に想像できる。そのツールの持つ主たる機能(言葉の場合は伝達だ)を使わないことで、それはどんどん「使えない」ものになっていく。意図して使わないのならともかく、気づいたときには使おうと思っても使えなくなってしまっているのだ。

このまま言葉の持つ伝達・表現の機能をないがしろにしていけば、言葉はさび付き、思考もそれに合わせて縮小していくだろう。それでは、何が言葉にとって替わるのか。全人類が共通で数文字の表音文字と数種類のエモティコン(絵文字)を使うようになるという未来は案外簡単にやってきてしまうような気もする。

翻って、かつてはテレパシーで活発に(ここでいう活発さとはトラフィックの量ではなく、メタ情報を含む情報量の多さことだ)コミュニケーションが行われていたとすれば、その能力よりもそこで交わされていたやりとりこそが、知的・精神的に高度に洗練された素晴らしいものだったんじゃないかと夢想したくもなる。

思想やアイデアは母語を用いて表現したときに最大限にその伝播力を発揮するという当たり前の事実に基づけば、「言葉=母語を大切にする」というのは何も政治的・情緒的な話ではなくて、よりよく生きるために日々使う食器や工具を丁寧に扱おうという程度の当たり前の話だと思う。

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