当時から「データの軽さ=情報量の貧しさ」を志向するっていうのはどう考えても納得がいかなかった。人間はあらゆる事象を自分の認識の限界の中でしか受容できないのに、我々の認識の限界がこの辺だから、受容できる範囲のものを作っておけば(圧縮しておけば)それで十分ですよねっていう発想。これは貧弱だ。
そもそも我々は認識の限界以上のものをどのように認識しているか分からないというのに。顕在意識上で理解できないからといって、それはありのままの現実を受容していないということにはならないだろう。つまり人間の耳には○ヘルツから●ヘルツまでしか聞こえないので、○ヘルツ以下と●ヘルツ以上のデータはカットしました。音楽が聴覚だけの体験だというならそれもひょっとしたら効率的と言えるのかもしれない。しかし聴覚以外の感覚が何らかの振動なり何なりをを感じているということは十分に考えうるし、その経験がどれだけ重要なものか、あるいは無視しても問題ないものなのかは推し量ることができない。
推し量ることができないと言いつつ、僕は直観的に○ヘルツ以下、●ヘルツ以上の情報にこそ豊かさが宿っていると感じている。というよりも、自分に認識できる範囲なんて、ありのままの現実の圧倒的な情報量の前では問題にならないくらい小さすぎると感じているのだ。
圧倒的な情報量の前で、いかにそれと折り合いをつけ、理解したように振る舞い、手なずけけることができるか。それはしばしば私たちの能力やスキルと言い換えられることもあるが、そんな貧しさを競い合うことには何の意義も感じない。
自分の狭量な認識の枠に収めるための「意味づけと解釈」の技術にこれ以上磨きをかけないこと。もはや無自覚に行っている「意味づけと解釈」の作業を控えること。この作業を自動化している我々と現実の間にあるフィルターを取り除くこと。RAWな世界と対峙することで、狂ったように見えたとしてもその方がいい。生の方が気持ちいいに決まってる。
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