2013年3月24日日曜日

The hate will never die!

EVERNOTEに書いておいたはずが消えちゃったと思ってたら、「コンフリクトがあります」というメッセージとともに残ってました。ヘイトは死なず!コンフリクトマンセー!


「ライフ・オブ・パイ」アン・リー ★ネタバレ注意
まあ面白い映画だった。といってもメタ的に。まあそうしたメタ的なテーマからは外れたところで、冒頭からインドのポンディシェリという旧フランス領のマリアージュ・フレール的な風土が素晴らしく、そのパラダイス感を味わうことで前世コロニアリストの役割の大半を終えたわけですがw

少年と家族の移住が決まって船に乗りこんですぐ、船付きのコックがジェラール・ドパルデューなんだけど、まあ異様なまでの存在感で登場するわけです。もちろんこの刻印には意味があるわけですが、その手法はちょっとニクいところがあって、そこがこの映画の一番面白いところでした。

予告編で見たときはすごい寓話的な物語なんだろうなぁと思って見てました。正直、わざわざ見なくてもいいかなという感じの。実際終盤までそういう話でもあったと思います。でも、スピクラスタや映画クラスタでも反応している人が結構いたので自分の目で確かめてみることにした次第です。ダイレクトにスピリチュアルな「サレンダー」的なメッセージもあって、そういう映画にも見えなくはないですが、実際は(この上なく残酷な)「現実」をどのように語り直すのか、伝えるのかというメタなテーマを内包しておるわけです。

でも、寓意化された現実、つまり、「寓話=オブラートに包まれてトゲを抜かれた現実」にどれだけの意味があるのだろう。苦味やトゲこそが現実の謂いではなかったのか。あえて語らなかった部分にこそ現実のエッセンスが宿っていたんじゃないかと。苦味やトゲが舌や肌に傷跡を残して(外傷になって)初めて他人の生きた現実なんて意味を持つんじゃないのかね。過激ならいいってわけじゃないし、露悪趣味にはうんざりするけど、口当たりをよくすることで真意は間違いなく伝わりにくくなると思うよ。というわけで素直にドパルデュー大暴れバージョンキボンヌ。


「チャイニーズ・ブッキーを殺した男」ジョン・カサヴェテス
ベン・ギャザラ、シーモア・カッセルというカサヴェテス組が見せるキャバレーを舞台にした男臭い1本です。キャバレーのオーナーベン・ギャザラがやっと借金返し終わって経営もうまく回り始めたところで調子に乗って博打でまたまた大きな借金を背負ってしまうという切ないお話。冒頭のカフェから変なフレーミングで興味をかきたてられます。キャバレーの出し物のクオリティーは決して高くない、というか微妙にすべってるのを結構長いシーンで見せていて、久しぶりにこういうものを見ると、なんか贅沢をした気分になりますね。ラストで赤い血糊というジャンル映画の掟を律儀に守っているところは微笑ましくもありました。



ちなみに「チャイニーズ・ブッキー」はデジタル上映でした。原因は分かりませんが、終盤で音割れが何回かありました。残念です。
余談になりますが、僕は長らくテレビやVHS、DVD、blue-rayで、飛行機の中で、あるいはダウンロードしたデータで「映画」を見たと言い張る人たちを軽蔑してきました。僕もごく稀に見ることは見ますが、その体験を持って「映画を見た」とは思っていません。ホームシアターとか言ってる人はキチガイ認定ですw mp3をどれだけ高音質で聴くかみたいな倒錯的な話じゃないですか。でも実際は結構多いんですよ。グリフィス全部見た。イーストウッド全部見た。ヒッチコックもトビー・フーパーもロッセリーニも全部見た。小津も成瀬もスピルバーグも全部見てる。年間600本見る。暇さえあれば見る。電車の中でも見る。TSUTAYAに通いながらそんな世迷い言を吐く輩は今でも後を絶ちません。

僕はそういう輩が現れる度に、いやいや、冗談いってもらっちゃ困るよ。キミが見たのは月じゃなくて偽の太陽。映画じゃなくてRGBの集積だから、と心の中で呟くのです。どんな愛し方をしても自由なんだけど、愛の対象が違うんだよっていうことははっきりさせておきたかったんですね。面倒くさくないですw 違うものは違うというだけです。

一方「スクリーン=フィルム」で映画を見ることによって自らをアイデンティファイしようとしていたせこい部分もあったと自覚していますが、やはり、その「違い」を映画の原初体験として持ってしまった者としては「これ」と「あれ」を一緒くたに語ることはどうしたってできないのです。しばらく前から既にデジタルで撮影されている映画がほとんどだという事実も最近知らされました。それでもやはり、フィルムで撮影されたものがデジタルで上映されるのは非常に耐え難い。心情的にという以前に、質感がまったく違う。渋谷のイメージ・フォーラムでガレルの「愛の残像」を見たときにそれは痛感しました。特にリュプシャンスキーのモノクロで軟調の絵づくりなはずなのに、妙に輪郭線がシャープでざらついたものすごく残念な仕上がりでした。今でもフィルムで見直したいと痛切に願っています。

デジタルで撮ったものはもうわざわざフィルムにする必要ないです。でもフィルムで撮ったものはフィルムでかけてもらえませんか? 確かに人間の知覚の限界というのはあるでしょう。フィルムとデジタルの差が人間の知覚では区別できないレベルに限りなく近づいているというのは事実だと思います。でも、見せている「もの」が違うというのも厳然たる事実じゃないですか? 今までプリントがなくて見るチャンスがなかったものがスクリーンで見られるようになるという功利主義的な主張も分からないではありませんが、フィルムで見られるものをデジタルで見たくはないんです。そんなにおかしな主張ではないと思うんですがね。

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