●リュミエールの「列車」を本気で避けてみたかったとか、小津や成瀬を封切りで見たかったとか、ヌーベルバーグの出現に立ち会いたかったとか、もはや実現不可能な夢を見ることの代替行為としての映画鑑賞っていう側面は僕の場合避けがたくあると思う。そういう体験ができないから、しかたなく、周回遅れで「古典」を、あるいは、やむなく新作を見る。常にそんなにネガティブなわけではないが根底はそういうスタンスで映画を見続けている。
●でも、イーストウッドの「ヒアアフター」を封切りで見て、その2週間後に大地震を経験するとか、そのときそこにたまたまいたからできた体験だよなぁとも思うわけです。映画の発明やヌーベルバーグの出現みたいな「事件」に立ち会った人も別にその体験を熱望していたわけではないんだよね。きっとたまたまそこにいただけなんだ。それを歴史的事件として認識できていたかどうかすら怪しい。でも僕はその人に羨望の視線を送ることをやめたりはしない。
●常識的に考えたら、映画の誕生に立ち会った人はイーストウッドやシャマランや黒沢清の新作は見られないわけだ。その人たちが羨むことすら許されなかった世界に僕たちは「たまたま」いる。数十年後には「あいつらは黒沢を封切りで見ていた特権階級だ」なんて思うヤツが出てくるに違いない。
●きっと僕らはこうしている今も、100年前、100年後の誰かが泣いて羨むような事件に立ち会っているんだろうと思う。恵まれてるとかないとか相対的な話じゃなくてね。なんていうか、それは実感を欠いた想像ではなくて、「事件に立ち会わされている」とでもいうべき過去の誰か、そして未来の誰かの羨望の視線を感じるのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿