不安、憎しみ、嫉妬、執着……「手放すべき何か」があったとして、それらが自分にとっていかに有害かを知ることは、実はそれほど重要ではない。むしろ、それらが自分の、あるいは他人の心身をどれだけ害するのかを理解することは、手放すことのきっかけにはならないことも多い(「手放すべきだ」ということへの理解は進むかもしれないが…)。
依存症を考えれば、手放すことの難しさとその有害性を知ることの無関係が分かるだろう。アルコールでも薬物でも嗜好品でもセックスでも人間でも。人は容易に自分にとって有害なものを望むことができる。ときとしてそれは抗い難い欲望として現れることもある(この欲求にはおそらく自己否定から生まれる自罰的な側面があると推察するが、それはまた別の話)。
私たちはただそれらが「不要だ」と知ればいいだけだ。「有害であること」と「不要であること」の差は大きい。不要であることの理由は必ずしもそれが有害であるからではない。「不要さ」とは何かに依拠して成立する概念ではなく、「必要」に属していないというだけだ。
有害なものを欲する一方で、私たちは不要なものを望むこともできるだろう。ただ、私たちはそれをしないだけだ。なぜならそうする必要がないから。数年前に10年間吸い続けたタバコを瞬時にやめたときに達した境地がこれだったと思う。だから私には「禁煙している」というステータスはなかった。何かをやめようと思ったら、その不要さを知ればいい。
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