2011年10月20日木曜日

とかく無邪気に振る舞いがち

無邪気な大人の危なっかしさっていうのは、見る者の中にアンビバレントな思いを抱かせる。一方では「この無邪気さを許容する世界であってほしい」という切なる願いを抱き、ときには口にさえする。だがこの願いは本物だろうか。否。やはり「この無邪気さが越えられない壁を私は知っている」、そして、彼(彼女)がその壁にぶち当たる瞬間がくることを予測している。やがてそれは例外なく実現する。お調子者が無口になり、自己顕示は自己憐憫の影に身を潜め、楽観は悲観に取って代わり、寛容と自罰は不寛容と他罰に支配される。そして当て処をなくした自己承認要求だけが静かに肥大し続ける。

単に読みが甘いのだ。たかを括っていたからこその無邪気さだったのだ。同情の余地はない。口さがない「先輩方」は悦に入って「彼(彼女)も大人になったな」としたり顔で彼(彼女)の「仲間入り」を祝福するだろう。もうそういうのいい加減飽きた。そんなの全然イケてない。もっと強くしたたかに難所も軽々と走り抜けるだけの知性と明るさをもった、凄みを感じさせるような無邪気さってもんがあるはずだろ?

タイトルはスチャダラパーの名曲「CARS JOINT」よりアニのパートから。

3 件のコメント:

  1. 自分を見ているようです・・・

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  2. やり切るヤツがいたら面白いんだけどな。無邪気なまま成長するヤツ。

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  3. 僕はどうにか再度無邪気になりたいと思います

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