あらかじめ断っておくが僕はこの手の映画の良い観客ではない。趣味嗜好がある程度固まってきたときからそれは変わらないが、洗練の対極にあるようなこの手の映画を普段は敬遠している。この手の映画というのは、伝達形式よりも伝達内容を重視するような映画。つまり、伝えるべき何かを手紙で読ませるか、役者の目配せで見せるかということに腐心するような映画に対して、伝わればいいのだから大きな声で直截役者にしゃべせておけ、というような映画。前者は繊細でしゃれ乙、後者は野蛮でダサい。もっと分かりやすくいえば小津と黒澤。単純化すればこんな図式で、園子音っていうのは後者の代表だと思ってた訳だ。
映画でも音楽でもノれる、ノれないという表現があるが、良い映画というものはノりやすいものだし、気が付かないうちに観客がノっているような映画が理想だと思う。ただ、これには観客のリテラシーが問われている部分もあるので、一概に作品のクオリティに結びつけるのは乱暴かもしれない。僕自身、映画を長年見ているうちに、しょぼい波にも乗れるようになってきたし、「ノれる/ノれない」という二分法ではなく「ノる/ノらない」という観客の側のさじ加減でどうにでもなるだろうと思えるようになってきたということがある。
いくらでも欠点をあげつらうことができるのを承知で、この映画に僕はノった。しかも、4時間ほぼノりっぱなしでノった。監督が47歳で長編23作目でこれはないだろうっていうところはいくらでもある。役者のアップばっかりで、見てて疲れる。ロケもセットもすんごい雑。衣装もひどい。でも、やっぱりすごいものはすごい。この映画は巷でいわれているようには真摯な映画ではない。カトリシズムと性の問題を扱ってはいるが、ことさら深く掘り下げるようなことはしていない。これはとても賢明なことだ。なぜならそんなことをしても映画は面白くならないからだ。塩田明彦の「カナリア」(タイトルを思い出す為にググッた)を思い出せばいい。まじめに撮れば映画は面白くなるってもんではない。ただしかし、不真面目にふざけて撮れば面白くなるってもんでもない。この映画は「面白さ」を成立させるギリギリの線で、その真面目と不真面目の稜線を綱渡りのようにして4時間も歩き通してみせた(まあ実際はだれた時間帯もあったけど)。そういう意味では大胆でありながらも非常に繊細を要求される仕事だったんじゃないだろうか。この映画が真摯だったのはそのテーマに対してではなく映画自体に対してだったと思う。
ああ何これ、積極的には認めたくないけどこれギリギリのところで映画じゃん。安藤サクラの空恐ろしいパンチラに限らず、至る所でそんな感慨を抱かされるのだ。常にギリギリのところでカットを映画として成立させることで映画というメディア自体の特定の一辺のギリギリを露呈させている、つまり、映画をむき出しにするような試みとしても成功したんじゃないだろうか。力技という表現があるが、その喩えでいえば、相手を倒すことができる最小限の力を行使し続けるような効率的な力技とでもいえばいいだろうか。だからこの映画はその見せかけほどは荒っぽくない。不安要素もあるにはあるけど、これ以上は踏み外しませんからね、ということころを最初のうちに観客に分からせるようにしている。つまり、上質なエンターテインメントとしてとても周到に作り込まれている。タイトルとか見せかけの荒っぽさに対して、この周到さはちょっとずるい。ずるいけど、作り手がただ単にナイーブであるよりは、それくらい狡猾であってくれることは素直に嬉しい。力を活かすためにも最低限の技とセンスは必要だからだ。
最低限の技とセンスによって力技は映えた。圧巻は何と言ってもヒロインのヨーコ(満島ひかり)が砂浜で主人公のユウ(西島隆弘)を組み伏して聖書の「コリント書」から愛についての引用を叫ぶシーン。青空をバックにヨーコのアップでこの一節を叫ばせるんだけど、このシーンの迫力はすごい(いや、このメッセージを新興宗教にハマっちゃった人に叫ばせるかね、って思うほど深イイ箇所の引用)。何か宿っちゃってるなぁっていうのがビンビン伝わってくる。このシーンが浮くことなく、この映画の中にしっかり収まり得たのは、力だけじゃなくて技とセンスがあったからだと思う。19日まで早稲田松竹でやってるから、見られる人は有給とってでもスクリーンで見た方がいいと思う。
併映の「空気人形」は作品自体の中身が空気のようでほとぼりを冷ますのにはちょうど良かった感じですね。しかし、「愛のむきだし」にはなんだか最大の賛辞を贈ってしまったようで悔しいなあ。
0 件のコメント:
コメントを投稿