「第9地区」(以下D9)を試写で見てきた。町山智浩や宇多丸師匠が「アバター」を越える傑作SFと煽っていただけに期待が大きかったが、上げたハードルはきっちり越えてきたと思う。相当面白かった。ただ別に事前にハードルを無理矢理上げてみる類の映画ではなくて、たまたまそれほど期待しないで見に行ったら、超面白かった、という体で楽しみたい種類の映画だろう。オリジナリティもあるし、ディテールも凝ってるし、そのパッケージ(第一印象とか売られ方)以上に完成度は高い。だからこそ、自分で発見したい映画だったというのは贅沢なんだろうか。
SF的な設定やメカのディテール、南アフリカの社会背景についての参照項目は枚挙にいとまがないだろうから、それは他に譲ろう。D9で描かれるエイリアンは人類の敵でも味方でもなく、単なる「お荷物」厄介者なのだ。第3種接近遭遇があっさり達成されるオープニングから、ここまでエイリアンが軽視されたのは映画史上初めてと言っていいだろう。「ET」から30年弱で地球のスラム街でゴミを漁るエイリアンを見ることになろうとは。
この映画を見終わって最初に感じたのは「何このカタルシス?」だ。続編のにおいはするものの、きちんとオチをつけていて完全にひとつの作品として完結してはいる。だからといって、そこまでの浄化作用がこの作品のどこにあるだろうか。カタルシスといえば聞こえはいいが、見ている最中の興奮と見終わった後の「賢者モード」とのギャップのすさまじさ。これはすごい。どんなに派手にドンパチやった映画でも、ここまで付きものが落ちたみたいにスッキリはしてしまわないと思う。だからといって、万事解決というわけではない。煮え切らなさも残る。これはひょっとすると単に個人的なバイオリズムにもよるのかもしれないから、再見までその判断は保留とする。雪も降ってたし。ここでは、D9のエイリアンがなぜここまでのリアリティを獲得したのかを考えてみたい。
「ミリオンダラー・ベイビー」に出てきた「ヒラリー・スワンクの家族」というのは、ある種の人々を言い表すのにとても便利だ。それは単にこう言い換えることもできる。「ディズニーランドを楽しめる人たち」。D9で難民として生活を送っていた彼らは「ヒラリー・スワンクの家族」だったんじゃないだろうか。
なぜ、人類と比べても卓越した科学技術を持った彼らエイリアンが、こんな野蛮な惑星で難民状態に甘んじているのか? このシンプルな質問に作り手はごく控え目に答えている。おそらく宇宙船を操縦していたクルーは疫病や事故で死に絶え、数百万の一般人(観光客、労働者?)だけが残されたのだろう。想像してみてほしい、宇宙旅行が可能になった近未来で、海外旅行にでも行くノリで宇宙船に乗り込んだ一般人を残して、宇宙船のクルー(アテンダントもエンジニアも)が死滅してしまうのだ。船頭を失い、故郷に帰る術も失った私たちは異星のゲットーで暮らすことを余儀なくされる。
この映画が画期的なのは、南アフリカを舞台に差別を描いたからではなく、無知で無力な一般階級のエイリアンを描いたからだ。D9で唯一「名前」を与えられたエイリアン、クリストファー・ジョンソンは、劇中でただ1人、人間と心を通わせることができる。それは、彼が途方に暮れた一般人ではなかったからだ。つまり彼が宇宙船の操作方法を知っており、いつ野蛮な人間に撃ち殺されてもおかしくない状況で、「適切」に対処する知性を持っていたからだ。ただ、この映画は彼に、白衣も眼鏡も与えなかった。代わりに彼に与えたのは滑稽とも言える赤いベストだ。
ただごとならぬ事態が進行していると察知した「大佐」(野蛮な人間の代表として描かれている)ですら、「事情を知っている」クリストファー・ジョンソンに一目置かざるを得ない。私はここで、絶滅収容所を生き延びたプリーモ・レヴィやヴィクトール・フランクルを思い出す。狡智に長けた処世術や当たりくじを引き当てるような幸運ではなく「階級」が彼らを救ったのだ。それは人間の通俗さが重んじる肩書きや勲章の数よりも、より原始的な価値基準としてそこにある。背中に×印をつけられて標的にされるエイリアンがいる一方で、薄いトタン一枚で銃弾をかいくぐることができる者がいるのだ。それがこの映画が見せた階級の差だ。小役人のような主人公ヴィカスが一瞬でも英雄たり得たのは、彼が与えられた階級に逆らったからだろう。
「アヴァター」で人類が初めてエイリアンに敗北したのだとすれば、「第9地区」でエイリアンは初めて人類を前にインビクタス(屈服せざる者)たり得たのだ。
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