2010年1月21日木曜日

LIFE is comin' back!

年末に「THIS IS IT」と「アバター」を見てから、人類愛とか環境保護とかを素朴に直截的に訴える(ようになってしまった)人々に、かなり興味の中心がフォーカスしている。そんな折に小沢健二のツアー復帰の一報。

http://hihumiyo.net/

ツアー特設サイトでは、インタビュー形式の小沢健二の独白がわりとまとまった量で読めるようになっている。このインタビューを思いっきり要約すると、「セルフイメージを生きるな、セルフを生きろ」ということだと思う。セルフイメージとパブリックイメージを完璧に同一化させることで、自身の商業価値を最大限に高めていたタイガー・ウッズを引き合いに出して、イメージとセルフとの間に生じたゆがみが裏で蓄積してて、それが爆発してしまったと。実際は対談相手の「うさぎ」の声を借りて、「イメージのいい奴は腹黒い」まで言い切ってる。

もっと卑近な例では会社の人にブログ見つかったら困るから書きたいことも書けない、それでいわゆるウェブ人格と本体との間にゆがみが生じると。会社勤めもしたことないおまえが何でそんなこと知ってんの?(笑)って話ですよ。常にみんなに見られているというオブセッションを抱える有名人がどうしてこういう発想になれるのか分からないけど、まあ、社会問題としてそういうことを考えてると。

これ、個人的にすごいよくわかる。みんな、こんな風に見てほしいっていう自分を常に表現しているに過ぎないというわけだ。最近だとロメールに弔意を寄せる人たちのツイートを見てそれを痛感した。結局そこで表現しているのは故人に対するオマージュでもドマージュでもなく、「ロメールを知的に消費した僕」だったり「フランス映画とかも見てる私」だったり「シネヴィヴァンではじめてウィルキンソンを飲んだ俺」だったり、結局みんな自分語りじゃん。セルフイメージの構築に躍起になってるだけじゃん(もちろん僕も含めて)。

でも、それっていけないことなの? 間違ったことなの? って考えたときに、オザケンは「間違ってる、もうやめた方がいい」って思ってるっぽいんですね。何でそんな風にオザケンが考えるようになったのかというと、やはりそれは自分の経験からだと思うんです。彼自身が「渋谷系の王子様」とかいわれて「痛快ウキウキ通り」歌って、パブリックイメージの中に命を賭けてダイブしていった節がある。(そのときのアルバムタイトルが「Life」っていうのも象徴的だけどあまり笑えない話だ)パブリックイメージにダイブすることで作られたある種の躁状態を冷ややかな目で見ていた人が多かったのも事実だし、僕もその一人だった。そしてある日、彼は「線路を降り」るわけだ(「ある光」)。各種神経症と依存症でセルフイメージとセルフの間の亀裂が臨界点に達する前に。

商品価値を向上させるために虚飾が著名人に強いるチャリティ活動というのはもちろんある。ただ、一方で虚飾を脱ぎ去った人たち、或いは素敵なパブリックイメージが破綻してしまった人たちが見せる純粋さがある。中田英寿はもちろん前者なわけです。しかし、どうもオザケンは後者っぽいんですね。本気っぽいんですよ。童話「うさぎ」に関しても「あっちゃー(ニガワラ)」的な反応を多くの人が、特に知的な人が見せるわけですが、本当にそれで済ませていいものなのだろうか?というのが最近の僕のテーマです。ぶっちゃけ、それで済ましちゃダメなんじゃないかっていう話ですね。そこには僕たちが気づいていない何かがあると。彼らがたどり着いたところからしか見えない風景があるんじゃないかと。

上記のオザケンのインタビュー内容にはかなり俺フィルター(笑)がかかってますから、まずは原典に当たってみてください。すごい面白いです。

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