2009年12月14日月曜日

ブレッソン「罪の天使たち」

土曜日アテネフランセ「罪の天使たち」(ロベール・ブレッソン監督)の上映とシンポジウムに行ってきました。こういう上映会とかイベントにはめっきり足を運ばなくなりました。さすがに知ってる顔もいなくなりましたね。それでも、こういうところにくる適度に知的で適度におしゃれな若い人たちの流れは連綿と続いているんですね。僕なんか勝手に自分が最後の世代だと思い込んでましたけど。

映画はフランスの映画監督ロベール・ブレッソンの処女長編作品「罪の天使たち」。前科者ばかり集めた女子専用の修道院になんでかブルジョワの前科もない女が善意で飛び込んできて、愛を振りまいてみんなを更正させてやろうとか、そういう話。結局女は自爆する形で死んじゃうんですけどね。シンポジウムで分かったんだけど割とみんなは「迷惑な勘違い女が墓穴掘って乙」って感じで見てたっぽいんだけど、僕は逆に死ぬまで信念を曲げなかった。偉い。ってちょっと素朴に感動してたんですね。確かに高橋洋が言うように、未熟者が未熟さ故に身を滅ぼすっていうのはその通りなんですよ。でも、それで「ああ馬鹿だなあ」っていうのと「でもちょっと素敵」っていうのがあると思うんですね。僕は後者だったんですよ。恥ずかしいことに。まあいいですけど。

上映後にシンポジウム。メンバーは柳下毅一郎、高橋洋、万田邦敏、土田環。作家、批評家、研究者とバランスの良いメンバー構成。

柳下はこの映画に見られるブレッソンのフィルムノワール的な嗜好を指摘。ワイルダーの「深夜の告白」を引き、ブレッソンの心理描写を排した演出にも触れる。結果ワイルダーの演出の野暮ったさを露呈させたのは良かったですね。

高橋はブレッソンを「罪」を感じさせる作家と定義し、イーストウッドの「センチメンタル・アドベンチャー」、フリッツ・ラングの「激怒」を引き、映画における「罪」の表現の困難とブレッソンの特異性を強調。

万田は作り手の視点から、通し稽古をしない作家として田舎司祭の日記以降のブレッソンの特異性を挙げる。芝居ではなく画面から映画を作る。つまり、全体があって部分を埋めていくのではなく、断片を積み上げることによってできた全体が映画であるというコンセプト。

今回は最後の万田の指摘について考えてみたい。高橋も語っていたようにおそらくブレッソンはストイックな積み重ねによってしかたどり着けない高みがあるということを信じ、かたくなにそれを実践していた作家なのだと思う。ただ、僕が思うのは彼はそれを信じていたんじゃなくて、知っていたんじゃないかということだ。実際彼の映画はコンティニュイティを犠牲にしたなめらかさのない画面の積み重ねによって、明らかに普通の映画ではなくなっている。だが、彼の制作におけるストイシズムを度外視しても、作品として何か教会や聖堂のような荘厳な趣を湛えている。そうした荘厳さを作品がまとう術を彼は知っていたのだと思う。知の前では信仰など何の役にも立たない。彼はそのやり方が正しいと信じていたのではなく、唯一の正しいやり方だと知っていたのだ。

ときに向こう見ずながむしゃらさと他人の目に映るような行為がいかなる知の裏付けを持っているのか私たちは知らない。そう、知らないだけなのだ。知っている人はやっている。ただそれだけのような気がする。クリシュナムルティBOTが繰り返し言うように、信念は精神の成長を妨げることはあっても、成長を促すことはない。私たちが知らない確固たる動機によって動いている人を見て、信念が彼を突き動かしていると感じるのは、私たちが彼の持つ知に触れていないからだ。それは単に情報と言い換えることもできるかもしれない。

映画に話を戻すと主人公のブルジョワの女は、知らなかっただけなんですね。知らないけど、できると信じてた。ブレッソンは無知を裁いたんじゃなくて、無知だと死んじゃうよってことを教えてくれようとしてたんだと思う。これはマトリックスでモーフィアスがネオに言ってた「速く動こうと思うな、速いと知れ」に通じる教えですね。さすがに強引だけど、結構本気でそう思うのだ。

ちなみにこのイベント、当日の朝、パネリストの柳下さんのつぶやきで知りました。ツイッターで人生は変わるよ。まあ、ツイッターじゃなくても何でもいいんだけどねw

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