「風立ちぬ」宮崎駿
2度見て、ジブリファンのO教授とも結構色々話したんだけど、間違いなく宮崎の最高傑作という意見の一致は見たものの、何がすごかったっていう核の部分を名指すことができないまま数日がたった。堀越と周囲の人たちの人間関係、堀越と菜穂子、堀越と仕事、堀越と戦争、それらの絶妙な距離感。もうひとつ手前のレイヤーには宮さんと登場人物、さらにひとつ手前のレイヤーには宮さんと仕事、宮さんと戦争というテーマがあると思うのだが、それらのすべてが絶妙としか言い様がない距離感で提示されている。
この映画の堀越に宮さんは多分に肩入れしているというか、ほぼ自分に重ね合わせて100%共感できる人物として描いていると思うのだけど、結局それって宮さんの不幸そのものを描くということになってしまったのだと思う。
主人公の堀越は少年時代からの夢が叶って、大好きな飛行機をつくるという仕事に従事しているんだけど、お国のためとは言いながらそれは戦闘兵器、つまり人殺しの道具に使われるわけだ。この映画ではその事実に対する彼の感情はほとんど明示されていない。ただ、「機関銃を乗せなければ有効であるようなアイデア」を彼は迷うことなく却下する。与えられた条件の中で最高の飛行機=戦闘機をつくるという使命を最優先するのだ。だからといって彼が戦争に、あるいは日本政府に協力的であったかと言えばまったくそんなことはないと思う。戦争反対とも賛成とも語らない彼(同僚や上司を含む彼らエリート集団と言ってもいい)の態度は、諦念に彩られていると言えるかもしれないし、運命に従順だとも言えるかもしれない。そのある種の煮え切らなさに僕は何とも座りの悪い感動を覚える。そして、スタジオジブリの機関誌「熱風」にあられもない憲法擁護論を書き付けた宮崎が、このようにあえて表面的にはその思想を露呈させない人物を描いたということが感動的ではないか。実際に彼(堀越)は飄々としているようでいて、実際は亡き妻に夢の中で「生きて」と声をかけられなければ生き続けることが難しいような状況にいたのだ。妻の言葉を嗚咽混じりで受け止めた堀越に私たちは彼の絶望がどれだけ深いものなのかを知る。
だけど僕はこの美しい慎ましさに心を揺さぶられながらも完全に同調することはできない。「国民的アニメ作家」と呼ばれて久しいこのコミュニストを支えている「国民」が、作家の思想の根幹たる部分にはまったく共鳴していないということに、宮崎はどれだけ深く絶望しているのだろうか。彼の作品をたたえ、DVDを購入し、家族で繰り返し鑑賞し、台詞を覚え、テレビ放映をも欠かさず見るような国民に、彼は何を伝え損なってしまったのか。自分が心血を注いでつくった傑作の数々が、そして、表面的には全面的に受容(あるいは消費)されてきた作品が、どのようにして負け戦に貢献してきたのか。終局が見えてきた今、彼の絶望の深さは計り知れない。
もちろん一方で作家がそんなにナイーブだとも信じていないが、表現者としての純然たる疑問として、「どうして伝わらなかったのか」という問題は避けて通れないところに来てしまったのではないだろうか。宮崎に次回作があるかどうかわからないし、必要なのかどうかも疑問だが、まだ風はやんでいないのだからとりあえずは生き続けてほしい。
2度見て、ジブリファンのO教授とも結構色々話したんだけど、間違いなく宮崎の最高傑作という意見の一致は見たものの、何がすごかったっていう核の部分を名指すことができないまま数日がたった。堀越と周囲の人たちの人間関係、堀越と菜穂子、堀越と仕事、堀越と戦争、それらの絶妙な距離感。もうひとつ手前のレイヤーには宮さんと登場人物、さらにひとつ手前のレイヤーには宮さんと仕事、宮さんと戦争というテーマがあると思うのだが、それらのすべてが絶妙としか言い様がない距離感で提示されている。
この映画の堀越に宮さんは多分に肩入れしているというか、ほぼ自分に重ね合わせて100%共感できる人物として描いていると思うのだけど、結局それって宮さんの不幸そのものを描くということになってしまったのだと思う。
主人公の堀越は少年時代からの夢が叶って、大好きな飛行機をつくるという仕事に従事しているんだけど、お国のためとは言いながらそれは戦闘兵器、つまり人殺しの道具に使われるわけだ。この映画ではその事実に対する彼の感情はほとんど明示されていない。ただ、「機関銃を乗せなければ有効であるようなアイデア」を彼は迷うことなく却下する。与えられた条件の中で最高の飛行機=戦闘機をつくるという使命を最優先するのだ。だからといって彼が戦争に、あるいは日本政府に協力的であったかと言えばまったくそんなことはないと思う。戦争反対とも賛成とも語らない彼(同僚や上司を含む彼らエリート集団と言ってもいい)の態度は、諦念に彩られていると言えるかもしれないし、運命に従順だとも言えるかもしれない。そのある種の煮え切らなさに僕は何とも座りの悪い感動を覚える。そして、スタジオジブリの機関誌「熱風」にあられもない憲法擁護論を書き付けた宮崎が、このようにあえて表面的にはその思想を露呈させない人物を描いたということが感動的ではないか。実際に彼(堀越)は飄々としているようでいて、実際は亡き妻に夢の中で「生きて」と声をかけられなければ生き続けることが難しいような状況にいたのだ。妻の言葉を嗚咽混じりで受け止めた堀越に私たちは彼の絶望がどれだけ深いものなのかを知る。
だけど僕はこの美しい慎ましさに心を揺さぶられながらも完全に同調することはできない。「国民的アニメ作家」と呼ばれて久しいこのコミュニストを支えている「国民」が、作家の思想の根幹たる部分にはまったく共鳴していないということに、宮崎はどれだけ深く絶望しているのだろうか。彼の作品をたたえ、DVDを購入し、家族で繰り返し鑑賞し、台詞を覚え、テレビ放映をも欠かさず見るような国民に、彼は何を伝え損なってしまったのか。自分が心血を注いでつくった傑作の数々が、そして、表面的には全面的に受容(あるいは消費)されてきた作品が、どのようにして負け戦に貢献してきたのか。終局が見えてきた今、彼の絶望の深さは計り知れない。
もちろん一方で作家がそんなにナイーブだとも信じていないが、表現者としての純然たる疑問として、「どうして伝わらなかったのか」という問題は避けて通れないところに来てしまったのではないだろうか。宮崎に次回作があるかどうかわからないし、必要なのかどうかも疑問だが、まだ風はやんでいないのだからとりあえずは生き続けてほしい。
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