2010年2月1日月曜日

しわ寄せを食うのはいつも庶民(アニ)

町全体の経済構造がGMに依存していたフリント。そして、父親の勤めていたGMの工場の閉鎖によりゴーストタウンと化したこの町を故郷に持ち、故郷と祖国の廃退が構造的なものであることを指摘し続けているドキュメンタリー作家マイケル・ムーア。そのムーアがいよいよ本丸である「資本主義」そのものに矛先を向けた。

サブプライムローンによって銀行の手で文字通り身ぐるみはがされる人たち。銀行が身ぐるみはいだ人たちを使って差し押さえた物件を転売して利益を上げるハゲタカ不動産屋。社員に生命保険をかけて回収率をコントロールしている企業。実現しなかったルーズベルトの権利章典。金融危機に便乗して7000億ドルの公的資金投入を強引に実行させた大手証券会社。

全部ひどい。どれも救いようがないくらいひどい。こういう話に義憤を駆られない人がいたら、人でなしと呼びたいし、無関心でいられる人は愚かだと言いたい。ただ、そこで終わらせちゃいけないであろう問題なだけに、義憤に駆られて終わり、関心を(一時的に)持って終わりにしちゃダメなんだと思うから、この映画は、ムーアの戦いの始まりであってほしいのだが……。

「ボーリング・フォー・コロンバイン」で、被弾した生徒と連れ立ってウォルマートに銃弾の販売差し止めを願い出て、それが実現されたときのムーアの無邪気な喜びよう。しかもそれをフィルムに収め、編集でカットしないナイーブさ。「お前、それで喜んでちゃだめだろう? 最初っからそうするつもりだったんなら」と強烈に違和感を感じた。もちろん「いい話」ではあるんだけどね。そういうムーアに通底するナイーブさが「キャピタリズム」でも落とし穴になっている。

結局、この映画では構造的な悪ではなく、ロナルド・レーガンなり、グリーンスパンなり、ゴールドマンサックスなり「非人道的で自己中心的な特定の誰それ」に焦点が当てられてしまっている。つまり、資本主義という構造が必然的に生み出した社会的な歪みではなく、「人の気持ちの分からない、自分勝手で思いやりのない証券マン」を敵視せよといっているように聞こえるわけだ。奴らを火あぶりにしろ、と。

でもそれじゃダメなんだよ。99%の富を持つ1%の選ばれた人たちになり損ねた人たちがルサンチマンで1%の人を裁くことには何の意味もない。だって、99%の方の彼らは今だって1%の持てる者になる可能性がないことに憤っているわけだし、そのチャンスが巡ってくれば、平気でそっちの軍門に下るよ。「無関心を決め込む」という誓約書に判を押してね。

だから結局は、人間性を持つ者と持たない者というのは金を持つ者と持たない者という線引きと同じ。「アホな民衆をかっぱいで丸裸にしてでも自分は楽して贅沢したい」って誰もが考えるようになってしまうシステムにこそ病理が宿っているのであって、病人を責めても世界は変わらないんじゃないだろうか。「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し」エンディングで流れるインターナショナルにはシニシズムのかけらもない。そこまで「感化」されなかった観客は、何か鼻白むというか「あーあ、やっちゃったよ」的な感慨を持たざるを得ない。ムーアはもともとシニシズムやユーモアの人じゃなくて「ヒューマニズム」の人なんだよなぁ。ただ、もしそれが戦略的なものだとしたら案外、功を奏することがあるのかもしれないと楽観的に推測したりもする。でも革命を起こす人たちの動機が、今度は自分が似たようなシステムの天辺に立つことじゃ意味ない。

結論としては、システムを改善するのは知性でしかない。ヒューマニティは知性を支える柱の一本であって、ヒューマニティの機能不全を補完するためにはヒューマニティそのものではなくて、知性の再構築が必要なんだと思う。もちろんここで言う知性とは(知識や教養や情報リテラシーを含む)情熱のことだ。弱者が強者にリベンジするだけのエモい「革命」なんて、この百年だけでももう何度も経験してるし、それで何も変わらないことは分かってるんだから、そろそろ本気で卒業しようよ。

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