2013年10月20日日曜日

トランスミューテーション

ここ2、3年、映画の感想を1本ずつ、短くても書き続けていたのだけど、夏以降の多忙さで途切れてしまった。今からでも遅くないのだけど、ちょっとしんどいので面白かったものだけいくつか。

「マン・オブ・スティール」ザック・スナイダー
地球人として育てられたクリプトン星人の少年が、その卓越したアビリティーを制御できずに、小学校の教室で他人の話し声や鼓動、透けて見える内臓や骨格など、流入する情報を処理しきれずにテンパってしまって倉庫にこもるというハイパーを連想させる描写を非常に興味深く見た。

「感受性が強い」というときに揶揄まじりに使われるこの表現は、クリプトン星人にとっては文字通り感受する情報量の多さという点でとても正確なものだ。情報処理がRAWデータにフィルターを通して「不要」な部分を削除し、「有用」な部分のみを五感を通して受容可能な形に変え、感受することならば、この情報処理能力を欠いた異星人の少年に流入した情報量の「余剰」がいかばかりのものであったのか想像することは私たち人間には難しい。

私たちは余剰を感受しないために五感を発達させてきた。「肉体を持たない幽霊に目が見えるとしたら、私たちの視覚とは何なのか」という問いに対する答えがここにある。つまり、私たちの視覚とは器官と神経、脳というフィルターを通して得た映像情報に過ぎないのだ。幽霊に世界がどのように「見え」ているのか、私たちには知る術がない。幽霊のように見てみたい、と私は思う。

感受し得なかったものの中にこそ、真の豊かさが宿っているはずだという幻想を長らく積極的に抱き続けてきたがそれは今も変わってない。いつだって、そろそろ本気出せよ世界!と願っている。

おそらく、私たちが美しいと感じる風景や音ですら、さらなる広がりを持ったものの一部でしかなく、それがより美しいものかどうかはわからないが、その広がりをこそ豊かさと呼んでおきたい。

生の前提としての肉体がリミッターとして機能しているのなら、死の可能性とは肉体を持たないことにこそあるのではないだろうか。

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