2010年4月15日木曜日

不意に後頭部に鈍器を振り降ろされたような衝撃

韓国映画を2日連続で見るという偶然に恵まれたので、何か書いておこう。1本は渋谷のシネマライズでヤン・イクチュン監督/主演の「息もできない」、もう1本は下高井戸シネマでポン・ジュノ監督の「母なる証明」。どちらもすごい面白かった。ちょっと見てない間に韓国映画が底力つけてるっていうのを痛感した。日本に長期出張してた韓国人とダブルス組んでたことあるからよくわかるんだけど、あの臆面のなさとか当たりの強さっていうのは、基本的にあけすけで品がないのね。ずっと韓国の映画にも同じようなこと感じてた。つまり、繊細さがない。それがいつの間にこんなになっちゃったの?相変わらず、あけすけな品のなさはあるんだけど、そういうのを相対化するユーモアや、品のなさをあえて武器として使ったりする知性を身につけている。別に競争じゃないんだけど、日本、うかうかしてられないよね。っていうかこの2人の監督に匹敵する現役の日本人監督挙げろっていわれたら、ちょっと答えに窮するもの。特に「息もできない」の素晴らしさは予想を遥かに超えるものだった。


私たちは様々な映画で男と女の出会いを見てきたと思う。ジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンド、ゲイリー・クーパーとバーバラ・スタンウィック、高峯秀子と森雅之……実際にいくつかの印象深い出会いを思い出すことができる。でも、その出会いがかつてこれほど荒唐無稽で最低だったことがあっただろうか?

ヤン・イクチュンとキム・コッピ。映画史を彩るカップルの最前列にこの二人がきてもおかしくないと思う。坂道を歩いて下るチンピラが汚らしい音を立てて喉を鳴らし、すれ違いざまに吐き飛ばした黄色い痰が女のネクタイにへばりつく。もちろん、女は頭に血が上るだろう。いや、頭に血が上る前に、何が起きたのか、なぜこのようなことが起きたのかを把握しようとするのではないか?そして数秒後に事態が把握できたときには、その気のおかしな男が通り過ぎてくれていったことに感謝するのではないか?

だがこの女は違った。振り返り、男に待つように言いつけ、案の定、気のおかしな男に有無をいわさずネクタイに吸い殻を押し当てられ、横面をはりたおされる。

冒頭何分かのシーンだったと思うけど、ああ、もうこれだけでも映画史に残っていいよ、と痛烈に感じ入った名シーンだ。(その前にアヴァンタイトルとタイトルの入り方の格好良さも特筆モノ)この後、女がなぜリスクを冒して気の狂ったチンピラに楯突いたのか、その心理が少しずつつまびらかにされていく。韓国映画にありがちな(?)無根拠に気の強い女というクリシェではないということがわかる。そうしたストーリーテリングの緻密さはこの映画の持つ素晴らしい暴力性をさらに強化していく。「すがすがしい暴力=痛みを与えるための暴力」と「まがまがしい暴力=死に至らしめるための暴力」、言い換えれば、ユーモアと共存できる暴力とできない暴力。この2つの暴力をを描き分け、その境界線が不意に大きく揺れる瞬間を描いた監督・主演のヤン・イクチュンという男はこれが処女作だというのだから本当に侮れない。私たちが普段、優しさと定義しているような行為も、暴力の負のバリエーションなのではないかという気すらしてくる。暴力でしか語れない男と主人公のサンフンを定義するとき、そう定義されない人が果たしているだろうか。

だが、登場人物がそうした暴力性を身にまとった「原因」を描かなければ観客は納得しない。つまり、「父ちゃん母ちゃん」を描かなければならないわけだ。多くの映画は登場人物の成り立ちをこの「父ちゃん母ちゃん」に求めるとき、急につまらなくなってしまう。おそらくそれは、大抵の場合的外れだからだ。しかしなぜ、主人公の、そしてヒロインの「父ちゃん母ちゃん」をわりと十分に描いたこの映画がダサダサにならなかったのか。それは、おそらくこの親子という暴力の連鎖の外側に誰一人としていることができないということを描いているからだ。唯一、孤児として育ったというマンシク(主人公の兄貴分で組長的存在)だけが、一見親子関係のしがらみの外側に置かれているように見えるだけだ。登場人物たちの複雑なクロスストーリーに濃密な因果関係を見ることはもちろんできるし、そう描かれているとも思う。だが、当事者たちがその因果関係に気づくことは稀だし、知ることができるのはいつも事後だ。だから私たちは「ストーリー」の中にいても外にいてもただただ暴力に曝されているだけなのだ。

ヤン・イクチュンはそうしたことを肉体的/直感的に理解している。だからあの画面、あの音が成立していたのだと思う。こう書くとネイティブな野蛮さだけの映画のようだが、その演出はとても抑制が利いていて、その抑制こそがこの映画がこのうえなく暴力的であることを可能にしている。個人的に最も感銘を受けた暴力は、ラスト近くの鈍器の一発。そして時間差攻撃。具体的な暴力が振るわれていない時間の不穏さ。この本当に短いわずか数分の比較的静かなシーンが観客に与えるエモーショナルな揺れはただ事ではないよ。いやあ驚いた。奇しくもゴダールの処女作と同じ英語タイトルを持ってしまった本作。「勝手にしやがれ」に匹敵する映画っていう評価が言い過ぎじゃなかったっていう時代がきてもおかしくないんじゃないの? 東京では新宿と吉祥寺で拡大公開するみたいだから、是非見てみてください。

ポン・ジュノの「母なる証明」はとても正当な文脈でもう十分に評価されてるみたいだし、誰が見ても面白いと思うので省略。でも次回作がかかったら、間違いなくスクリーンで見ようと思ってる。

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